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ジュールの高熱は、なかなか下がらず、夜か昼かの区別は、とうに失われていた。
浅い眠りと覚醒を行き来しながら、何度も身をよじる。
額から首筋、背へと汗が流れ落ち、寝具を濡らしていくのに、指先は冷たく、震えることもあった。
唇がかすかに動く。
音にならない呼気に混じって、切れ切れの言葉が零れ落ちた。
「……だめだ……待って……!」
次の瞬間には、意味を失った音に変わる。
喉が鳴り、呼吸は浅く速い。
胸が上下するたび、苦しげな息が漏れ、時折、痛みをこらえるように眉が寄った。
目を開けることはあった。
けれど、その瞳は虚ろで、天井の木目を追うだけで止まり、そこに意味を見いだしてはいない。
近くで声をかけても、視線は合わなかった。
誰かがそばにいることは、感じ取れていない。触れられても、その温もりを認識する前に、意識はまた深い霧の中へ沈んでいく。
時折、強く息を吸い込み、何かを探すように空を掴む仕草を見せるが、すぐに力尽きたように手は落ちた。
現実と過去、夢と後悔が入り混じり、
彼自身ですら、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
濡れた額を冷たい布で拭い、乱れた髪を耳にかける。
熱に浮かされた肌は、触れるたびにひどく熱く、それでもどこか心許ない。
「……大丈夫。もうすぐ薬が効いてくるわ」
答えが返ることはないと分かっていても、セラは静かに、穏やかな声で語りかける。
まるで、遠い場所にいる人に、道しるべを示すような声音だった。
ジュールの指先が、わずかに動いた。
意味のない反射かもしれない。
それでもセラは、その手を包み込む。
細くなった指。
力の抜けきった掌。
そこに自分の体温を重ねながら、セラは一定の調子で声を落とす。
「……今は、ゆっくり休んで」
息を整えるように、静かに囁く。
「ジュール…」
荒い呼吸が響く室内で、セラの声だけが、時間を刻んでいた。
薬を与える時間。
水を含ませる時間。
汗を拭い、呼吸を確かめる時間。
それらすべてが、彼を“今”へと繋ぎ止める細い糸だった。
マルタは、そんな様子を黙って見ていたが、三日目の朝、ついに声をかけた。
「……あんた。随分と顔色が悪くなっているよ。少し休みな」
セラは、慌てて顔を上げる。
「ここはあたしが見るからさ。少し眠るといい。ろくに寝てないだろう?」
それは、労わるような声だった。
けれど、セラは小さく首を振った。
「……ありがとうございます。でも…私はここに…います」
「…あんた…」
「私が……そばにいたいんです」
それだけだった。
理由も、事情も、説明はできなかった。
ただ、願うような声でそう返事をした。
マルタは、その横顔を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……そうかい」
それ以上、止めなかった。
「じゃあ、あたしは、その桶の水を替えてくる。何かあったら、すぐ呼ぶんだよ」
そう言い残して、静かに部屋を出る。
残された寝台の脇で、セラは椅子に腰を下ろし、再びジュールの手を取った。
熱に浮かされたその手は、かつてよりも細く、力がなかった。
(……お願い……目を開けて…)
声には出さない。
願いは、胸の奥に沈めたままだった。
セラは、ただ静かに、彼のそばに居続けた。
呼吸の音が乱れていないか。
脈は速すぎないか。
汗が冷えすぎて、体力を奪っていないか。
次の薬まで、あとどれくらい時間があるか。
看病という名の時間の中で、セラは一瞬たりとも目を逸らさなかった。
一年以上、彼と会わずにいた。
その間に――彼は、こんなにも苦しんでいた。
寝台に横たわる痩せた身体を前に、胸の奥が、じわじわと痛みを増していく。
薬師として冷静でいようとすればするほど、感情は行き場を失って暴れ出す。
(……私に、泣く資格なんてない)
彼を残して去ったのは、自分だ。
彼から、そして全てに背を向けたのも、自分だ。
それでも、手は止まらない。
こけた頬にそっと触れ、熱を帯びた額に当てていた布を、より冷たいものに替える。
触れるたびに、骨ばった感触が指先に伝わり、胸が締めつけられる。
(こんなになるまで……)
言葉にすれば崩れてしまいそうで、セラはただ息を整えた。
(ああ……どうか)
薬を与えながら、心の中で祈る。
(神様……お願いです)
薬師としてできることは、すべてやっている。それでもなお、足りない気がしてならない。
知識も、技術も、経験も――
すべてを尽くしても、命そのものを掴めるわけではないという現実が、ひどく残酷だった。
(どうか……ジュールを、お守りください)
祈りに縋ることしかできない、その無力さが、胸を刺す。
セラは唇を噛みしめ、視線を落とす。
(……ジュール)
名を呼ぶ声は、喉の奥で溶かした。
声にしてしまえば、きっと、感情が溢れてしまうから。
だから、代わりにその手を強く離さずに握った。
――せめて、目を覚ましたときに、ここに自分がいることだけは、伝えられるようにと願った。
セラは、静かに、ただ、ひたすらに
彼の“生きている時間”に、寄り添い続けていた。
浅い眠りと覚醒を行き来しながら、何度も身をよじる。
額から首筋、背へと汗が流れ落ち、寝具を濡らしていくのに、指先は冷たく、震えることもあった。
唇がかすかに動く。
音にならない呼気に混じって、切れ切れの言葉が零れ落ちた。
「……だめだ……待って……!」
次の瞬間には、意味を失った音に変わる。
喉が鳴り、呼吸は浅く速い。
胸が上下するたび、苦しげな息が漏れ、時折、痛みをこらえるように眉が寄った。
目を開けることはあった。
けれど、その瞳は虚ろで、天井の木目を追うだけで止まり、そこに意味を見いだしてはいない。
近くで声をかけても、視線は合わなかった。
誰かがそばにいることは、感じ取れていない。触れられても、その温もりを認識する前に、意識はまた深い霧の中へ沈んでいく。
時折、強く息を吸い込み、何かを探すように空を掴む仕草を見せるが、すぐに力尽きたように手は落ちた。
現実と過去、夢と後悔が入り混じり、
彼自身ですら、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。
濡れた額を冷たい布で拭い、乱れた髪を耳にかける。
熱に浮かされた肌は、触れるたびにひどく熱く、それでもどこか心許ない。
「……大丈夫。もうすぐ薬が効いてくるわ」
答えが返ることはないと分かっていても、セラは静かに、穏やかな声で語りかける。
まるで、遠い場所にいる人に、道しるべを示すような声音だった。
ジュールの指先が、わずかに動いた。
意味のない反射かもしれない。
それでもセラは、その手を包み込む。
細くなった指。
力の抜けきった掌。
そこに自分の体温を重ねながら、セラは一定の調子で声を落とす。
「……今は、ゆっくり休んで」
息を整えるように、静かに囁く。
「ジュール…」
荒い呼吸が響く室内で、セラの声だけが、時間を刻んでいた。
薬を与える時間。
水を含ませる時間。
汗を拭い、呼吸を確かめる時間。
それらすべてが、彼を“今”へと繋ぎ止める細い糸だった。
マルタは、そんな様子を黙って見ていたが、三日目の朝、ついに声をかけた。
「……あんた。随分と顔色が悪くなっているよ。少し休みな」
セラは、慌てて顔を上げる。
「ここはあたしが見るからさ。少し眠るといい。ろくに寝てないだろう?」
それは、労わるような声だった。
けれど、セラは小さく首を振った。
「……ありがとうございます。でも…私はここに…います」
「…あんた…」
「私が……そばにいたいんです」
それだけだった。
理由も、事情も、説明はできなかった。
ただ、願うような声でそう返事をした。
マルタは、その横顔を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……そうかい」
それ以上、止めなかった。
「じゃあ、あたしは、その桶の水を替えてくる。何かあったら、すぐ呼ぶんだよ」
そう言い残して、静かに部屋を出る。
残された寝台の脇で、セラは椅子に腰を下ろし、再びジュールの手を取った。
熱に浮かされたその手は、かつてよりも細く、力がなかった。
(……お願い……目を開けて…)
声には出さない。
願いは、胸の奥に沈めたままだった。
セラは、ただ静かに、彼のそばに居続けた。
呼吸の音が乱れていないか。
脈は速すぎないか。
汗が冷えすぎて、体力を奪っていないか。
次の薬まで、あとどれくらい時間があるか。
看病という名の時間の中で、セラは一瞬たりとも目を逸らさなかった。
一年以上、彼と会わずにいた。
その間に――彼は、こんなにも苦しんでいた。
寝台に横たわる痩せた身体を前に、胸の奥が、じわじわと痛みを増していく。
薬師として冷静でいようとすればするほど、感情は行き場を失って暴れ出す。
(……私に、泣く資格なんてない)
彼を残して去ったのは、自分だ。
彼から、そして全てに背を向けたのも、自分だ。
それでも、手は止まらない。
こけた頬にそっと触れ、熱を帯びた額に当てていた布を、より冷たいものに替える。
触れるたびに、骨ばった感触が指先に伝わり、胸が締めつけられる。
(こんなになるまで……)
言葉にすれば崩れてしまいそうで、セラはただ息を整えた。
(ああ……どうか)
薬を与えながら、心の中で祈る。
(神様……お願いです)
薬師としてできることは、すべてやっている。それでもなお、足りない気がしてならない。
知識も、技術も、経験も――
すべてを尽くしても、命そのものを掴めるわけではないという現実が、ひどく残酷だった。
(どうか……ジュールを、お守りください)
祈りに縋ることしかできない、その無力さが、胸を刺す。
セラは唇を噛みしめ、視線を落とす。
(……ジュール)
名を呼ぶ声は、喉の奥で溶かした。
声にしてしまえば、きっと、感情が溢れてしまうから。
だから、代わりにその手を強く離さずに握った。
――せめて、目を覚ましたときに、ここに自分がいることだけは、伝えられるようにと願った。
セラは、静かに、ただ、ひたすらに
彼の“生きている時間”に、寄り添い続けていた。
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