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商務院は、しばらく休むことになった。
一週間以上、高熱に浮かされ、昼と夜の区別もつかぬまま過ごしていたジュールの身体は、目覚めたあともすぐには応えてくれない。
枕に背を預けて少し身を起こしただけで、胸の奥がひりつくように苦しくなり、息が浅くなる。
「……っ」
小さく息を詰めた瞬間、すぐに気づいたセラが身を乗り出す。
「……大丈夫?」
静かに肩へ手を添え、そのまま支えるように力を加える。
「無理をしないで。まだ、身体が戻りきっていないわ」
セラは水を差し出し、時間を確かめながら薬を口元へ運ぶ。
「……ありがとう。君に、頼ってばかりだな」
ジュールは自嘲気味に笑った。
「今は、それでいいの」
セラは首を振る。
「ジュールは、病み上がりなんだから。気にしなくていいのよ」
そう言って微笑むと、彼の乱れていた寝衣を整え、襟元を軽く直した。
食事も一度に出さず、少量ずつ、彼の呼吸の間に合わせて運ぶ。
その動きには迷いがなく、薬師としての冷静さと、個人的な気遣いが、自然に溶け合っていた。
朝食を終える頃には、ジュールの瞼が重たくなってきていた。
「少し、横になりましょう」
「……ああ」
素直に従い、再び寝台に身を沈めると、ほどなく呼吸がゆっくりになる。
微睡みに落ちたのを確かめ、セラは音を立てないように部屋を出た。
台所で食器を洗っていると――
「……どうやら、あたしの出番はなくなったみたいだね」
背後から、低く柔らかな声がかかる。マルタだった。
「そんなことは――」
セラが慌てて振り返り、首を振ると、マルタはそれを遮るように手を振った。
「いいんだよ」
穏やかに、しかしはっきりと言う。
「あんたがそばにいてくれるなら、あたしは安心さ」
その言葉に、皮肉も遠慮もなかった。
ただ、年長者の率直な本音だった。
しばらく沈黙が流れ、セラがぽつりと口を開く。
「……実は……ラスルカ村の薬局が……少し、気になっていて……」
リーズの代わりに訪れた家。
思いがけずジュールと再会し、そのまま十日あまり、看病に明け暮れている日々を過ごしている。
「ああ、そのことかい」
マルタは頷き、あっさりと言った。
「リーズには、しばらく帰れないと手紙を書いておいたよ」
「……手紙ですか?」
「事情も、あんたが今ここにいることも、ちゃんと伝えてある」
そして、少し笑う。
「リーズなら大丈夫。理解してくれたよ」
セラの肩に、そっと手を置き、低く付け加えた。
「今は、彼を優先してやりな」
それ以上は何も言わなかった。
押しつけることも、急かすこともせず――ただ、選ぶ余地を残したまま、静かに背を向けた。
セラは、その背中を見送りながら、胸の奥に小さな温もりが灯るのを感じていた。
*
午後の光がやわらかく寝室に差し込む頃、午睡から覚めたジュールが、ぽつりと呟いた。
「……身体が元気なら、君と久しぶりに出歩きたかった」
ベッド脇の椅子に腰掛け、縫い物をしていたセラが顔を上げる。
「まあ。どこに?」
軽い調子で返すと、ジュールは少し照れたように視線を逸らした。
「この街に住んで、一年を過ぎて…だいぶ、街にも詳しくなってね」
窓の外と、セラの顔を交互に見ながら続ける。
「君と見たい景色が、いくつかある」
「例えば?」
「……市場の奥の小道とか。セラが好きそうな植物が、たくさん咲いているよ」
「ふふ…素敵」
セラが微笑みながら耳を傾ける。
「それから、川沿いの夕暮れ。風が気持ちいいんだ」
ジュールの声は、穏やかで、どこか弾んでいた。
「君と一緒に見たいと……ずっと思っていた」
その言葉に、セラの胸がじんと温かくなる。
「……それなら、ジュールはリハビリを頑張らないとね?」
「そうだな」
ジュールは苦笑しながら言う。
「今は、少し歩くだけで息が上がるからな……練習しないと」
すぐに起き上がろうとする勢いに、セラが制する。
「ふふ。まずは、座っていられる時間を延ばしましょう。無理は禁物よ」
「わかりました、薬師さま」
「もう……ジュールったら!」
二人の笑い声が、静かな室内にやわらかく響いた。
穏やかな午後のはじまりだった。
*
正午を少し過ぎた頃、高く昇った陽の光が、台所の小さな窓からまっすぐ差し込んでいた。
食卓に並んだのは、どれも胃に負担のかからないものばかりだった。
柔らかく煮た鶏肉と野菜のスープ、香りづけ程度の薬草を添えた粥。
華やかさはないが、身体の内側に静かに沁みていくような食事だった。
ジュールは匙を取り、ゆっくりと口に運ぶ。
「……温かい。セラが作ってくれたのかい?」
その一言に、セラは小さく頷く。
「ええ。まだ回復途中だから、消化に良いものをね。今は、味よりも身体を整えることが大事だから」
そう言いながら、彼の様子を確かめるように視線を送る。
呼吸は落ち着いているか、飲み込みにくそうではないか――無意識のうちに、薬師の目になっていた。
数口食べ進めたところで、ジュールがぽつりと呟いた。
「……セラの家で食べた料理が、懐かしいな。どれも美味しかった」
何気ない声音だった。
けれど、その言葉には、確かに過去の温もりが滲んでいた。
セラは一瞬、匙を持つ手を止めてから、あえて軽く返す。
「それは……今の食事が美味しくないってこと?」
冗談めかした声だったが、どこか探るような響きもあった。
「ち、違う!」
ジュールは慌てて首を振る。
「そういう意味じゃない。ただ……あれは、心まで温まる味だったから」
「……」
セラは、わざと少しだけ眉を寄せる。
「つまり、今のは?」
「身体を……とても気遣ってくれている味だ」
一瞬の間。
「……この料理が美味しくないのね?」
そう言って、セラは吹き出した。
ジュールもつられて笑い、思わず咳き込みそうになって慌てて口を押さえる。
「ほら、無理しないで」
「……すまない。でも、久しぶりで」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
それは、大きな出来事でも、劇的な瞬間でもなかった。
ただ、同じ卓を囲み、同じ食事を口にし、他愛ない言葉を交わす時間。
それだけで、胸の奥に満ちてくるものがあった。
――ああ、こういう時間を、ずっと失っていたのだと。
セラは、そう思いながら、もう一度、静かに匙を動かした。
一週間以上、高熱に浮かされ、昼と夜の区別もつかぬまま過ごしていたジュールの身体は、目覚めたあともすぐには応えてくれない。
枕に背を預けて少し身を起こしただけで、胸の奥がひりつくように苦しくなり、息が浅くなる。
「……っ」
小さく息を詰めた瞬間、すぐに気づいたセラが身を乗り出す。
「……大丈夫?」
静かに肩へ手を添え、そのまま支えるように力を加える。
「無理をしないで。まだ、身体が戻りきっていないわ」
セラは水を差し出し、時間を確かめながら薬を口元へ運ぶ。
「……ありがとう。君に、頼ってばかりだな」
ジュールは自嘲気味に笑った。
「今は、それでいいの」
セラは首を振る。
「ジュールは、病み上がりなんだから。気にしなくていいのよ」
そう言って微笑むと、彼の乱れていた寝衣を整え、襟元を軽く直した。
食事も一度に出さず、少量ずつ、彼の呼吸の間に合わせて運ぶ。
その動きには迷いがなく、薬師としての冷静さと、個人的な気遣いが、自然に溶け合っていた。
朝食を終える頃には、ジュールの瞼が重たくなってきていた。
「少し、横になりましょう」
「……ああ」
素直に従い、再び寝台に身を沈めると、ほどなく呼吸がゆっくりになる。
微睡みに落ちたのを確かめ、セラは音を立てないように部屋を出た。
台所で食器を洗っていると――
「……どうやら、あたしの出番はなくなったみたいだね」
背後から、低く柔らかな声がかかる。マルタだった。
「そんなことは――」
セラが慌てて振り返り、首を振ると、マルタはそれを遮るように手を振った。
「いいんだよ」
穏やかに、しかしはっきりと言う。
「あんたがそばにいてくれるなら、あたしは安心さ」
その言葉に、皮肉も遠慮もなかった。
ただ、年長者の率直な本音だった。
しばらく沈黙が流れ、セラがぽつりと口を開く。
「……実は……ラスルカ村の薬局が……少し、気になっていて……」
リーズの代わりに訪れた家。
思いがけずジュールと再会し、そのまま十日あまり、看病に明け暮れている日々を過ごしている。
「ああ、そのことかい」
マルタは頷き、あっさりと言った。
「リーズには、しばらく帰れないと手紙を書いておいたよ」
「……手紙ですか?」
「事情も、あんたが今ここにいることも、ちゃんと伝えてある」
そして、少し笑う。
「リーズなら大丈夫。理解してくれたよ」
セラの肩に、そっと手を置き、低く付け加えた。
「今は、彼を優先してやりな」
それ以上は何も言わなかった。
押しつけることも、急かすこともせず――ただ、選ぶ余地を残したまま、静かに背を向けた。
セラは、その背中を見送りながら、胸の奥に小さな温もりが灯るのを感じていた。
*
午後の光がやわらかく寝室に差し込む頃、午睡から覚めたジュールが、ぽつりと呟いた。
「……身体が元気なら、君と久しぶりに出歩きたかった」
ベッド脇の椅子に腰掛け、縫い物をしていたセラが顔を上げる。
「まあ。どこに?」
軽い調子で返すと、ジュールは少し照れたように視線を逸らした。
「この街に住んで、一年を過ぎて…だいぶ、街にも詳しくなってね」
窓の外と、セラの顔を交互に見ながら続ける。
「君と見たい景色が、いくつかある」
「例えば?」
「……市場の奥の小道とか。セラが好きそうな植物が、たくさん咲いているよ」
「ふふ…素敵」
セラが微笑みながら耳を傾ける。
「それから、川沿いの夕暮れ。風が気持ちいいんだ」
ジュールの声は、穏やかで、どこか弾んでいた。
「君と一緒に見たいと……ずっと思っていた」
その言葉に、セラの胸がじんと温かくなる。
「……それなら、ジュールはリハビリを頑張らないとね?」
「そうだな」
ジュールは苦笑しながら言う。
「今は、少し歩くだけで息が上がるからな……練習しないと」
すぐに起き上がろうとする勢いに、セラが制する。
「ふふ。まずは、座っていられる時間を延ばしましょう。無理は禁物よ」
「わかりました、薬師さま」
「もう……ジュールったら!」
二人の笑い声が、静かな室内にやわらかく響いた。
穏やかな午後のはじまりだった。
*
正午を少し過ぎた頃、高く昇った陽の光が、台所の小さな窓からまっすぐ差し込んでいた。
食卓に並んだのは、どれも胃に負担のかからないものばかりだった。
柔らかく煮た鶏肉と野菜のスープ、香りづけ程度の薬草を添えた粥。
華やかさはないが、身体の内側に静かに沁みていくような食事だった。
ジュールは匙を取り、ゆっくりと口に運ぶ。
「……温かい。セラが作ってくれたのかい?」
その一言に、セラは小さく頷く。
「ええ。まだ回復途中だから、消化に良いものをね。今は、味よりも身体を整えることが大事だから」
そう言いながら、彼の様子を確かめるように視線を送る。
呼吸は落ち着いているか、飲み込みにくそうではないか――無意識のうちに、薬師の目になっていた。
数口食べ進めたところで、ジュールがぽつりと呟いた。
「……セラの家で食べた料理が、懐かしいな。どれも美味しかった」
何気ない声音だった。
けれど、その言葉には、確かに過去の温もりが滲んでいた。
セラは一瞬、匙を持つ手を止めてから、あえて軽く返す。
「それは……今の食事が美味しくないってこと?」
冗談めかした声だったが、どこか探るような響きもあった。
「ち、違う!」
ジュールは慌てて首を振る。
「そういう意味じゃない。ただ……あれは、心まで温まる味だったから」
「……」
セラは、わざと少しだけ眉を寄せる。
「つまり、今のは?」
「身体を……とても気遣ってくれている味だ」
一瞬の間。
「……この料理が美味しくないのね?」
そう言って、セラは吹き出した。
ジュールもつられて笑い、思わず咳き込みそうになって慌てて口を押さえる。
「ほら、無理しないで」
「……すまない。でも、久しぶりで」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
それは、大きな出来事でも、劇的な瞬間でもなかった。
ただ、同じ卓を囲み、同じ食事を口にし、他愛ない言葉を交わす時間。
それだけで、胸の奥に満ちてくるものがあった。
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