【完結・R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 商務院は、しばらく休むことになった。

 一週間以上、高熱に浮かされ、昼と夜の区別もつかぬまま過ごしていたジュールの身体は、目覚めたあともすぐには応えてくれない。

 枕に背を預けて少し身を起こしただけで、胸の奥がひりつくように苦しくなり、息が浅くなる。

「……っ」

 小さく息を詰めた瞬間、すぐに気づいたセラが身を乗り出す。

「……大丈夫?」

 静かに肩へ手を添え、そのまま支えるように力を加える。

「無理をしないで。まだ、身体が戻りきっていないわ」

 セラは水を差し出し、時間を確かめながら薬を口元へ運ぶ。

「……ありがとう。君に、頼ってばかりだな」

 ジュールは自嘲気味に笑った。

「今は、それでいいの」

 セラは首を振る。

「ジュールは、病み上がりなんだから。気にしなくていいのよ」

 そう言って微笑むと、彼の乱れていた寝衣を整え、襟元を軽く直した。

 食事も一度に出さず、少量ずつ、彼の呼吸の間に合わせて運ぶ。

 その動きには迷いがなく、薬師としての冷静さと、個人的な気遣いが、自然に溶け合っていた。

 朝食を終える頃には、ジュールの瞼が重たくなってきていた。

「少し、横になりましょう」

「……ああ」

 素直に従い、再び寝台に身を沈めると、ほどなく呼吸がゆっくりになる。
 微睡みに落ちたのを確かめ、セラは音を立てないように部屋を出た。

 台所で食器を洗っていると――

「……どうやら、あたしの出番はなくなったみたいだね」

 背後から、低く柔らかな声がかかる。マルタだった。

「そんなことは――」

 セラが慌てて振り返り、首を振ると、マルタはそれを遮るように手を振った。

「いいんだよ」

 穏やかに、しかしはっきりと言う。

「あんたがそばにいてくれるなら、あたしは安心さ」

 その言葉に、皮肉も遠慮もなかった。
 ただ、年長者の率直な本音だった。

 しばらく沈黙が流れ、セラがぽつりと口を開く。

「……実は……ラスルカ村の薬局が……少し、気になっていて……」

 リーズの代わりに訪れた家。
 思いがけずジュールと再会し、そのまま十日あまり、看病に明け暮れている日々を過ごしている。

「ああ、そのことかい」

 マルタは頷き、あっさりと言った。

「リーズには、しばらく帰れないと手紙を書いておいたよ」

「……手紙ですか?」

「事情も、あんたが今ここにいることも、ちゃんと伝えてある」

 そして、少し笑う。

「リーズなら大丈夫。理解してくれたよ」

 セラの肩に、そっと手を置き、低く付け加えた。

「今は、彼を優先してやりな」

 それ以上は何も言わなかった。
 押しつけることも、急かすこともせず――ただ、選ぶ余地を残したまま、静かに背を向けた。

 セラは、その背中を見送りながら、胸の奥に小さな温もりが灯るのを感じていた。



 
 午後の光がやわらかく寝室に差し込む頃、午睡から覚めたジュールが、ぽつりと呟いた。

「……身体が元気なら、君と久しぶりに出歩きたかった」

 ベッド脇の椅子に腰掛け、縫い物をしていたセラが顔を上げる。

「まあ。どこに?」

 軽い調子で返すと、ジュールは少し照れたように視線を逸らした。

「この街に住んで、一年を過ぎて…だいぶ、街にも詳しくなってね」

 窓の外と、セラの顔を交互に見ながら続ける。

「君と見たい景色が、いくつかある」

「例えば?」

「……市場の奥の小道とか。セラが好きそうな植物が、たくさん咲いているよ」
「ふふ…素敵」
 
 セラが微笑みながら耳を傾ける。

「それから、川沿いの夕暮れ。風が気持ちいいんだ」

 ジュールの声は、穏やかで、どこか弾んでいた。

「君と一緒に見たいと……ずっと思っていた」

 その言葉に、セラの胸がじんと温かくなる。

「……それなら、ジュールはリハビリを頑張らないとね?」

「そうだな」
 ジュールは苦笑しながら言う。

「今は、少し歩くだけで息が上がるからな……練習しないと」

 すぐに起き上がろうとする勢いに、セラが制する。

「ふふ。まずは、座っていられる時間を延ばしましょう。無理は禁物よ」

「わかりました、薬師さま」

「もう……ジュールったら!」

 二人の笑い声が、静かな室内にやわらかく響いた。

 穏やかな午後のはじまりだった。




 正午を少し過ぎた頃、高く昇った陽の光が、台所の小さな窓からまっすぐ差し込んでいた。
 
 食卓に並んだのは、どれも胃に負担のかからないものばかりだった。
 柔らかく煮た鶏肉と野菜のスープ、香りづけ程度の薬草を添えた粥。

 華やかさはないが、身体の内側に静かに沁みていくような食事だった。

 ジュールは匙を取り、ゆっくりと口に運ぶ。

「……温かい。セラが作ってくれたのかい?」

 その一言に、セラは小さく頷く。

「ええ。まだ回復途中だから、消化に良いものをね。今は、味よりも身体を整えることが大事だから」

 そう言いながら、彼の様子を確かめるように視線を送る。

 呼吸は落ち着いているか、飲み込みにくそうではないか――無意識のうちに、薬師の目になっていた。

 数口食べ進めたところで、ジュールがぽつりと呟いた。

「……セラの家で食べた料理が、懐かしいな。どれも美味しかった」

 何気ない声音だった。
 けれど、その言葉には、確かに過去の温もりが滲んでいた。

 セラは一瞬、匙を持つ手を止めてから、あえて軽く返す。

「それは……今の食事が美味しくないってこと?」

 冗談めかした声だったが、どこか探るような響きもあった。

「ち、違う!」

 ジュールは慌てて首を振る。

「そういう意味じゃない。ただ……あれは、心まで温まる味だったから」

「……」

 セラは、わざと少しだけ眉を寄せる。

「つまり、今のは?」

「身体を……とても気遣ってくれている味だ」

 一瞬の間。

「……この料理が美味しくないのね?」

 そう言って、セラは吹き出した。
 ジュールもつられて笑い、思わず咳き込みそうになって慌てて口を押さえる。

「ほら、無理しないで」

「……すまない。でも、久しぶりで」

 二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。

 それは、大きな出来事でも、劇的な瞬間でもなかった。

 ただ、同じ卓を囲み、同じ食事を口にし、他愛ない言葉を交わす時間。

 それだけで、胸の奥に満ちてくるものがあった。

 ――ああ、こういう時間を、ずっと失っていたのだと。

 セラは、そう思いながら、もう一度、静かに匙を動かした。

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