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夜も更け、家の中はすっかり静まり返っていた。
灯りを落とした室内に、外から吹き抜ける風の音だけが届く。
石畳をなぞるように風が流れ、昼とは別の、深い夜の時間が始まっていた。
セラは居間のソファに毛布を広げ、慣れた手つきで寝支度を整えた。
枕代わりのクッションを置き、灯りを少し落とす。
ここへ来てから、ずっと――この場所が彼女の寝床だった。
硬いはずのソファーにも、もう身体は順応している。
それよりも、扉一枚隔てた向こうに、ジュールがいるという事実が、毎晩のように彼女を落ち着かせていた。
眠りにつく前、必ず耳を澄ます。
寝室の奥から伝わる、彼の呼吸の気配。
それを確かめてからでなければ、目を閉じられなかった。
「……おやすみなさい」
寝室の扉口から、横たわるジュールにそう告げる。
いつものように、そっと扉を閉めようとした、そのとき――
「セラ……」
少し間を置いて、呼び止める声がした。
掠れてはいないが、どこか遠慮がちで、慎重な響き。
セラは振り返る。
「……私が伏せっている間、セラはずっと、居間のソファーで眠っていたのかい?」
「ええ……」
淡々と答えたつもりだった。
けれど、その言葉とは裏腹に、胸の奥がわずかに揺れる。淡々と答えたつもりだった。
「……ダメだ」
ジュールの声が、きっぱりとしたものに変わる。
「今日からは、私がそのソファーで眠る」
「……え?」
驚くより早く、寝台がきしんだ。
ジュールは身を起こし、今にも立ち上がろうとしている。
「君がベッドを使って。ソファじゃ、身体が休まらないだろう?」
その瞳に、ためらいはなかった。
自分の体調より、彼女を優先する――それが当然だと言わんばかりの眼差しをしていた。
セラは思わず息を吐き、肩をすくめる。
「もう、ジュールってば……」
苦笑しながら、少し呆れたように首を振る。
「あなたは病人よ?黙って、ベッドで眠ること」
ぴしゃりと告げても、ジュールは引かなかった。
「いや……私はもう大丈夫だから。それより、セラにベッドを使ってほしい。君の身体が心配なんだ」
「……ジュール……」
一歩も譲らない様子に、セラは思わず笑ってしまう。
くすりとこぼれたその声に、ジュールは戸惑ったように目を瞬かせた。
「セラ……?」
「私を心配してくれるのは、ありがたいわ」
セラはそう言って、ゆっくりと首を振り、少しだけ声を和らげる。
「でも、私は元気。今は……あなたの方が、ずっと心配よ?」
眉を八の字に下げて、言葉を続ける。
「ここで無理をしたら、ぶり返すかもしれないわよね?」
「…………」
しばしの沈黙のあと、ジュールは小さく息を吐いた。
「……わかった」
今回は、反論しなかった。
素直に視線を伏せるその姿が、かえって胸に刺さる。
灯りが揺れ、部屋に静けさが降りる。
二人をつないでいるのは、同じ家の中にいるという、かすかな気配だけだった。
やがて、低く、ほとんど囁くような声が漏れる。
「……本当は」
一度、言葉が途切れる。
「……君と、一緒に眠りたい」
その一言で、セラの呼吸が止まった。
視線を上げたまま、言葉が見つからない。
ジュールは、はっとしたように慌てて続ける。
「ち、違う……やましい意味じゃない。君が嫌がることは、絶対にしないし……身体も、こんな状態だ」
一拍置いて、低く。
「ただ……同じ部屋で眠れたら、それでいいんだ」
それは欲望ではなかった。
夜を一人で越えることへの、切実な孤独の告白だった。
セラの胸が、じくりと痛む。
「……ジュール」
今度は、セラが視線を伏せる番だった。
―ーかつて、彼の腕に抱かれて眠った夜。
指先が髪を梳くたびに、胸の奥がやわらかくほどけていくのを感じていた。
呼吸を合わせ、鼓動を確かめ合いながら、ただ静かに、ぬくもりに包まれていた時間。
あの頃は、明日も同じ夜が来るのだと、疑いなく信じていた。
けれど――
完全に安らげていたわけではない。
彼が、レアの夫であるという事実が、夜の静けさの底で、いつも小さく胸に引っかかっていた。
それでもーー。
そのわずかな痛みさえ、幸福の中に溶け込んでしまうほど、彼の腕はあたたかく、優しく、甘かった。
だからこそ今、その記憶は蜜のように胸を満たしながら、同時に――鋭い刃となって、現在の痛みを際立たせる。
もう戻れないと分かっているから。
もう、あの夜の続きを望んではいけないと知っているから。
幸福だった。
確かに、あの時間は。
そして今は、その幸福を思い出すことさえ、こんなにも苦しかった。
【あなたは、妻のいる男を誘惑して、寝取ったのよ】
【平民ごときが、貴族の夫に触れるなんて。汚らわしい。身の程知らずにもほどがあるわ】
かつて、セラの家を訪れたレアの声が
冷たく、刃のような言葉が、胸の奥で反響していた。
「……ごめんなさい。レア様のことを考えると……」
ようやく、言葉を絞り出す。
「私たちの関係は……」
「すまない……」
ジュールの声が、そっと重なった。
「……軽率だった」
責める響きはない。
ただ、自分を戒めるような、静かな声音だった。
それ以上、何も言えなくなる。
セラは毛布を抱き直し、そっと寝室を後にする。
扉が閉まる直前、ジュールの視線が、名残惜しそうに追ってくるのを感じた。
きっと彼も、再び寝台に身を沈めたのだろう。壁越しに、互いの呼吸だけが、かすかに伝わってくる。
近いのに、触れられない。
想い合っているのに、進めない。
和やかで、温かくて――
それでも、越えてはいけない線が、確かにそこにあった。
夜は、何も答えを出さないまま、静かに更けていく。
二人の時間もまた、レアという影を挟んだその距離を抱えたまま、ゆっくりと流れていた。
灯りを落とした室内に、外から吹き抜ける風の音だけが届く。
石畳をなぞるように風が流れ、昼とは別の、深い夜の時間が始まっていた。
セラは居間のソファに毛布を広げ、慣れた手つきで寝支度を整えた。
枕代わりのクッションを置き、灯りを少し落とす。
ここへ来てから、ずっと――この場所が彼女の寝床だった。
硬いはずのソファーにも、もう身体は順応している。
それよりも、扉一枚隔てた向こうに、ジュールがいるという事実が、毎晩のように彼女を落ち着かせていた。
眠りにつく前、必ず耳を澄ます。
寝室の奥から伝わる、彼の呼吸の気配。
それを確かめてからでなければ、目を閉じられなかった。
「……おやすみなさい」
寝室の扉口から、横たわるジュールにそう告げる。
いつものように、そっと扉を閉めようとした、そのとき――
「セラ……」
少し間を置いて、呼び止める声がした。
掠れてはいないが、どこか遠慮がちで、慎重な響き。
セラは振り返る。
「……私が伏せっている間、セラはずっと、居間のソファーで眠っていたのかい?」
「ええ……」
淡々と答えたつもりだった。
けれど、その言葉とは裏腹に、胸の奥がわずかに揺れる。淡々と答えたつもりだった。
「……ダメだ」
ジュールの声が、きっぱりとしたものに変わる。
「今日からは、私がそのソファーで眠る」
「……え?」
驚くより早く、寝台がきしんだ。
ジュールは身を起こし、今にも立ち上がろうとしている。
「君がベッドを使って。ソファじゃ、身体が休まらないだろう?」
その瞳に、ためらいはなかった。
自分の体調より、彼女を優先する――それが当然だと言わんばかりの眼差しをしていた。
セラは思わず息を吐き、肩をすくめる。
「もう、ジュールってば……」
苦笑しながら、少し呆れたように首を振る。
「あなたは病人よ?黙って、ベッドで眠ること」
ぴしゃりと告げても、ジュールは引かなかった。
「いや……私はもう大丈夫だから。それより、セラにベッドを使ってほしい。君の身体が心配なんだ」
「……ジュール……」
一歩も譲らない様子に、セラは思わず笑ってしまう。
くすりとこぼれたその声に、ジュールは戸惑ったように目を瞬かせた。
「セラ……?」
「私を心配してくれるのは、ありがたいわ」
セラはそう言って、ゆっくりと首を振り、少しだけ声を和らげる。
「でも、私は元気。今は……あなたの方が、ずっと心配よ?」
眉を八の字に下げて、言葉を続ける。
「ここで無理をしたら、ぶり返すかもしれないわよね?」
「…………」
しばしの沈黙のあと、ジュールは小さく息を吐いた。
「……わかった」
今回は、反論しなかった。
素直に視線を伏せるその姿が、かえって胸に刺さる。
灯りが揺れ、部屋に静けさが降りる。
二人をつないでいるのは、同じ家の中にいるという、かすかな気配だけだった。
やがて、低く、ほとんど囁くような声が漏れる。
「……本当は」
一度、言葉が途切れる。
「……君と、一緒に眠りたい」
その一言で、セラの呼吸が止まった。
視線を上げたまま、言葉が見つからない。
ジュールは、はっとしたように慌てて続ける。
「ち、違う……やましい意味じゃない。君が嫌がることは、絶対にしないし……身体も、こんな状態だ」
一拍置いて、低く。
「ただ……同じ部屋で眠れたら、それでいいんだ」
それは欲望ではなかった。
夜を一人で越えることへの、切実な孤独の告白だった。
セラの胸が、じくりと痛む。
「……ジュール」
今度は、セラが視線を伏せる番だった。
―ーかつて、彼の腕に抱かれて眠った夜。
指先が髪を梳くたびに、胸の奥がやわらかくほどけていくのを感じていた。
呼吸を合わせ、鼓動を確かめ合いながら、ただ静かに、ぬくもりに包まれていた時間。
あの頃は、明日も同じ夜が来るのだと、疑いなく信じていた。
けれど――
完全に安らげていたわけではない。
彼が、レアの夫であるという事実が、夜の静けさの底で、いつも小さく胸に引っかかっていた。
それでもーー。
そのわずかな痛みさえ、幸福の中に溶け込んでしまうほど、彼の腕はあたたかく、優しく、甘かった。
だからこそ今、その記憶は蜜のように胸を満たしながら、同時に――鋭い刃となって、現在の痛みを際立たせる。
もう戻れないと分かっているから。
もう、あの夜の続きを望んではいけないと知っているから。
幸福だった。
確かに、あの時間は。
そして今は、その幸福を思い出すことさえ、こんなにも苦しかった。
【あなたは、妻のいる男を誘惑して、寝取ったのよ】
【平民ごときが、貴族の夫に触れるなんて。汚らわしい。身の程知らずにもほどがあるわ】
かつて、セラの家を訪れたレアの声が
冷たく、刃のような言葉が、胸の奥で反響していた。
「……ごめんなさい。レア様のことを考えると……」
ようやく、言葉を絞り出す。
「私たちの関係は……」
「すまない……」
ジュールの声が、そっと重なった。
「……軽率だった」
責める響きはない。
ただ、自分を戒めるような、静かな声音だった。
それ以上、何も言えなくなる。
セラは毛布を抱き直し、そっと寝室を後にする。
扉が閉まる直前、ジュールの視線が、名残惜しそうに追ってくるのを感じた。
きっと彼も、再び寝台に身を沈めたのだろう。壁越しに、互いの呼吸だけが、かすかに伝わってくる。
近いのに、触れられない。
想い合っているのに、進めない。
和やかで、温かくて――
それでも、越えてはいけない線が、確かにそこにあった。
夜は、何も答えを出さないまま、静かに更けていく。
二人の時間もまた、レアという影を挟んだその距離を抱えたまま、ゆっくりと流れていた。
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