【完結・R18】祈りより深く、罪より甘く

とっくり

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 翌朝、二人は昨夜の会話を、まるで存在しなかったかのように振る舞った。

 言葉にすれば崩れてしまいそうなものを、互いに察して、触れない。
 それは逃避ではなく、今はまだ、守るための沈黙だった。

 ジュールの回復は、目を見張るほどだった。

 セラがそばにいるだけで、食欲は少しずつ戻り、湯気の立つ椀を前にすれば、素直に匙を運ぶようになった。

「……もう一杯、もらってもいい?」

 控えめに言うジュールに、セラは思わず笑ってしまう。

「ついこの前まで、数口で疲れていたのに」
「君がいると、不思議と腹が減るんだ」

 冗談めかして肩をすくめる。

「このままだと、太ってしまうかな」
「それはそれで、元気な証拠よ」

 そう言いながら、セラは粥のお代わりを用意し、口元が綻んだ。

「……外の庭に、少し出てみようかな」

 ジュールの口調は慎重だったが、その目には確かな意欲があった。

「いいわね。付き添うわ」

 戸口を開けると、ひんやりとした外気が室内に流れ込んだ。

 石造りの家の中とは違い、外の空気はまだ朝の名残を含んでいる。

 セラは自然な仕草で手を差し出した。
 二人はゆっくりと敷居を越え、庭先へと足を運ぶ。

 最初は指先がそっと触れただけだったが、ジュールがわずかに力を込め、やがてそのまま、手はつながれた。

 庭は、冬を越えたばかりの静けさに包まれていた。

 まだ花は少ないが、枯れ枝の間から新芽がのぞき、土は柔らかく息づいている。
 湿った土と草の匂いが、ゆっくりと鼻腔を満たした。

 踏みしめるたび、靴底の下で土がかすかに音を立てる。

 一歩、また一歩。
 その歩みは遅いが、確かだった。

「……思っていた以上に、足が重いな」

 ジュールが苦笑する。
 自嘲ではなく、現実を受け止めるような、穏やかな声だった。

 握られた手越しに、彼の体重のかかり方が伝わる。それでも、彼は歩くのをやめなかった。

 セラは、つないだ手にそっと力を返しながら、黙って寄り添った。

「寝ている時間が長かったもの」
「情けないな。君に支えられる日が来るとは」

 セラは楽しそうに言った。

「私は修道院でお世話になって、足腰がずいぶんと鍛えられたのよ。
いざとなったら、ジュールを担いで戻るから安心して」

「はははっ…それは心強いな。ずいぶん逞しい薬師さんだ」

 二人で笑い合いながら進んでいた、その時――

 足元の小さな石に、セラがつまずいた。

「あ……!」

 反射的に、ジュールが腕を伸ばし、彼女を抱き止める。

 思ったよりもしっかりとした腕だった。

「……あれ? 逞しい薬師さんはどこへ?」

 からかうように言うと、セラはむっと唇を尖らせる。

「今のは、不意打ちよ」
「そうか。残念だったな」

 間近で見るセラの表情が、あまりにも生き生きとしていて――胸の奥が、どうしようもなく温かくなった。

 愛おしくて堪らなくなり、気づけば、ジュールはセラに顔を寄せていた。

 短く、ためらうように、そっと唇が触れた。

 息が止まるほどの一瞬。

 それは、欲望ではなく、「ここにいる」という確かめのような口付けだった。

「ジュール……」

 思わずセラが頬を赤らめた。
 ジュールの瞳は細められ、手は頬をなぞった。

「……セラ…」

 再び、二人はゆっくりと口付けを交わした。やがて、唇が離れたあと、二人は何も言わなかった。

 ただ、つないだ手だけは――
 自然に、ほどけることなく残っていた。




 庭から戻ると、家の中はひどく静かだった。扉が閉まる音が、思いのほか大きく響く。

 外の空気を纏ったままの二人は、しばらく立ち尽くしていた。

 ジュールは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 さきほどまで穏やかに庭を歩いていたとは思えないほど、真剣な表情だった。

「……セラ」

 名を呼ぶ声は低く、迷いを削ぎ落とした響きだった。

 セラは振り向く。
 けれど、近づかない。
 それだけで、この話が軽いものではないと伝わってくる。

「少し……話をさせてほしい」

 その声に、セラは小さくうなずいた。
 拒む理由など、もう見つからなかった。

 ジュールは一度、深く息を吸う。
 庭で触れてしまった温度を、胸の奥へ押し戻すように。

「……私は」

 言葉を選びながらも、視線は逸らさない。

「君と離れていた、この一年で……はっきり分かったことがある」

 セラの胸が、静かにざわめいた。

「私は……君がいない人生を、もう選べない」

 その告白は、あまりにも真っ直ぐだった。
 言い訳も、逃げ道も、どこにもない。

「ここで……一緒に暮らさないか」

 セラは、息を呑む。

「君のそばで、生きていきたい」

 声は熱を帯びていたが、荒れてはいない。
 必死さよりも、覚悟が滲んでいた。

「君と会えなくなってから……毎日が闇の中を歩いているようだった」

 ジュールの表情が、ゆっくりと歪む。

「朝が来ても、夜が来ても……君がいないだけで、全部が空っぽで…
また、君のいない日々に戻ると思うと…耐えられない…」

 その眼差しは、真剣すぎるほどだった。
 苦しさを思い返すたび、端正な顔が、ほんのわずかに崩れる。

 セラは視線を落とし、指先をきゅっと握りしめた。

「……ジュール」

 名を呼ぶ声は、ひどく静かだった。

「あなたと過ごした日々は……本当に、幸福だった」

 その言葉に、ジュールの表情が、ほんの一瞬だけ緩む。
 けれど――

「でも……」

 セラは顔を上げないまま、続けた。

「今になって……レア様の存在が、胸に残るの」

 空気が、わずかに重くなる。

「綺麗事に聞こえるかもしれないけれど……私は、もう誰も苦しめたくないの……」

 声が、かすかに震えた。

「あなたも。レア様も……そして、私自身も」

 ジュールは、思わず立ち上がった。
 だが、伸ばしかけた手を止め、一歩手前で踏みとどまった。

「レアとは、離縁する」

 即答だった。

「時間はかかっている。でも……必ず終わらせる」

 声はかすれ、必死さが隠しきれない。

「だから……お願いだ。どうか、私のそばにいてほしい」

 セラは、ゆっくりと首を振った。

「……私、ここに長く居すぎたかもしれない」

 ジュールの喉が、はっきりと鳴った。

「近いうちに……村に、帰るわ……」

 その言葉に、ジュールの顔が歪んだ。

「……セラ」

 すがるように名を呼ぶ声。
 セラは一歩距離を保ったまま、はっきりと言った。

「ごめんなさい」

 顔を上げ、逃げずに見つめ返す。

「決めたの。私は……堂々と、生きていきたい」

 ジュールは何も言えなかった。
 拳を強く握りしめ、感情を押し殺しているのが痛いほど伝わる。

 触れれば、崩れてしまう。
 だから――触れない。

 部屋の中には、庭で交わした二度のキスの余熱だけが、まだ残っていた。

 それ以上、言葉は交わされなかった。

 けれど――
 互いの想いは、これ以上ないほど、はっきりと伝わっていた。

 


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