【完結】君を迎えに行く

とっくり

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 夢を見ていた。

 風の音が聞こえる。水のせせらぎが、遠くでささやく。柔らかな土の匂い、朝露に濡れた葉の感触。畑の隅に咲いた小さな花の色。

 ――早く、行かなくちゃ。あの子たちに水をあげないと。今の時期、気を抜くと苗がやられてしまう。

 けれど、身体は思うように動かず、心だけが焦っていた。

 いつからそうしていたのか、わからない。何もかもが霞んでいく中、微かに誰かの声が聞こえた。

「サナ……起きなくてもいい。眠ってていいから。――でも、戻ってきてくれ」

 遠くて、懐かしい声だった。あたたかくて、ずっと聞いていたかった。

 

 どれほどの時が過ぎただろう。まぶたの裏が、ぼんやりと明るい。

 意識が、少しずつ浮かび上がっていく。夢の中で焦がれていた土の匂いが、ほんのりと現実のものとなって鼻をかすめた。

「……う……」

 掠れた声が漏れた。

 まぶたを開くと、見慣れた天井と、開け放たれた窓から差し込む春の陽光。柔らかな風にカーテンが揺れ、どこかで鳥の声がした。

「……っ、サナ!」

 顔を近づけていた誰かが、ぱっと目を見開いた。ぼやけた視界に、くすんだ金髪が映る。ほつれた髪に、泥のついた外套。瞳の下には深い隈。焦りと安堵とが入り混じった表情を浮かべ、カインがそこにいた。

「目が……覚めた……?」

 その声に、うん、と頷きたかったが、身体が思うように動かない。喉が乾いている。けれど、彼の声があたたかくて、心が満たされていく。

「すぐに水を……いや、待ってろ、誰か!」

 カインが立ち上がり、扉の向こうへ声を飛ばした。

 

 ーーその日、サナはようやく目を覚ました。倒れてから三日が経っていた。

 姉のクラリスと義兄マイクも、すぐに部屋へ駆けつけてきた。クラリスは涙ぐみながらも落ち着いていた。抱える赤子を乳母に預けて、ここ数日は交代で看病してくれていたらしい。

 「やっと目を開けたわね、サナ」

 その言葉に、うっすらと笑みを返すと、クラリスはそっとサナの髪を撫でた。

「あなたに無理ばかりさせて・・・本当に、ごめんなさい」
「お姉様・・・」
「不甲斐ない姉で申し訳ないわ」

涙で震える声を我慢しながら、クラリスは続ける。
「あなたが頑張ってくれたから、この領地は今、土台が整ってきているのよ。畑も、人も、あなたが育ててくれた」

 クラリスはしばらく黙ったあと、ふっと息を吐いた。

「……第二子が生まれて半年。乳母も決まって落ち着いてきたし、私もようやく執務に本腰を入れられるようになったわ。マイクも、あなたが見てきた流通や土壌のこと、最大限引き継いでくれてる」

 マイクは静かに頷いた。いつも寡黙な義兄だが、そのまなざしは真剣だった。

「・・・だからもう、無理をしなくていいの。お願い。……あなたには、あなたの幸せを考えてほしい」

 その言葉が、心の奥に深く染み込んでいった。

 幸せ。

 それはいつも遠いものだった。母が亡くなってから、父が病に伏してから、サナは「誰かのため」に動くことが日常だった。畑のため、村人のため、家族のため。姉が安心して家庭を守れるように、必死に自分を奮い立たせてきた。

 でも、それは自分の「幸せ」だったのだろうか。

 心が空っぽだったわけじゃない。ただ、そこに「自分自身」はほとんど存在していなかった。

 カインが手を握ってくれていることに気づく。綺麗な金髪が、今は乱れて、顔も憔悴しきっていた。サナが目線を落とすと、カインの泥にまみれた指が、震えていた。

「……カイン様、どうして、ここに?……」

 そう問うと、彼は少し目を伏せて、ぽつりとつぶやいた。

「五日かかる道のりを、二日で来た。……どうしても、間に合わせたかった」

 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱を持った。

 どうしても。

 そこに込められた想いが、どれほどのものだったのか。

 焦燥、後悔、不安、そして、願い。

 すべてが滲んで伝わってくるようだった。

 
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