不幸な一週間 〜『厭〜な』『不幸な』お話短編集〜

櫻庭雪夏

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第1夜 何もできない子

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 お母さんは、ぼくが何もできない子だと思っている。
 「リョウくん、忘れ物な~い?」
 そう言って、お母さんは廊下にしゃがみ込んでぼくのランドセルの中を引っかき回しはじめる。もうすぐ学校に行く時間だというのに。
 学校の準備なんてもう自分でできるし、今日持っていくものもちゃんとわかっているけれど、お母さんを安心させるために、ぼくはしばらくそのままお母さんが好きなようにさせておく。
 「リョウくん、今日から給食当番なんだから、予備のマスクを持っていかなきゃダメでしょ?」
 お母さんの顔から、「ほら、やっぱりリョウくんはおっとりさんねぇ。お母さんがいなきゃダメなんだから」と聞こえてくる。
 「あ! ほんとだ~」
 ぼくはわざと、「しまった」という表情を作って、それでいて「おっとりさん」の声で言った。
 これくらいのことしか、お母さんが喜んでくれる方法がわからない。
 お手伝いをしたくて台所に行っても「危ないからダメ」だと言われてしまうし、買い物に行ってあげると言っても「リョウくんはそんなこと気にしなくていいのよ」と言われてしまう。
 お母さんは何かにつけてもぼくのことが「心配」なのだ。
 お母さんは知らないけれど、お母さんの留守を見計らって、こっそり卵焼きを作ったこともある。(もちろん作った痕跡は決しておいたし、お母さんは冷蔵庫の卵が一つ二つ消えても気づかない)あと何回か練習すれば、お母さんが作る卵焼きよりも上手くなると思う。
 お母さんが毎月つけている家計簿の計算も、多分ぼくがやったほうが早い。
 それでも、ぼくはお母さんの焦げかかった卵焼きが好きだし、お母さんが不器用に計算機のボタンをぽちぽち押しているのをじっと眺めているのが好きだった。
 本当は、お母さんにもっと頼られたいし褒められたい、と思っていた。けれどぼくはあるとき気がついた。何もできない子だと思われているほうが、お母さんが喜ぶ行動ができるのだ、と。
 だからぼくは、お母さんの言う「おっとりさん」をする。
 「お母さんがこんなんだと、お父さんに怒られちゃ~う」
 お母さんは、「ちゃんとしなきゃ」と言い聞かせるみたいにつぶやきながら、気まずそうに、でもちょっと嬉しそうに笑っている。
 ぼくが「忘れ物」をしても、お母さんは怒らない。お母さんは、ぼくが「忘れ物」をするのは、お母さんの「おっとりさん」がぼくに遺伝してしまったせいと、お母さん自身がしっかりぼくの面倒を見ていないせいだと思っている。自分を責めるのだ。 
 ぼくは、お母さんが気づいていないお母さんの本心を知っている。お母さんは、ぼくのことが「心配」なんじゃなくて、ぼくが何かをやらかして、お父さんに「ダメな母親だ」と思われることが怖いのだ。だからぼくは、くれぐれもそんなことがないように、お母さんの手が届く範囲の外では、間違えたり失敗したりしない。
 ぼくはお母さんがそうであるように、お母さんに対して寛容だと思う。お母さんが炊飯器のスイッチを入れるのを忘れてご飯が食べられなくても怒らないし、お母さんが優柔不断で何かを決められなくても待ってあげられる。
 でもお父さんは違う。お母さんの失敗を責めるし、短気だし、セカセカしていて「待つ」ことができない。そして何より、お母さんの苦労を知らない。毎日家に帰ってきたら、ほとんど一言も話さないで夕食を食べて、ソファでダラダラして寝るだけだ。そのくせ、お母さんに文句を言っている。お父さんは知らないだろうけれど、お父さんが時折お母さんを叩くのをぼくは知っている。
 お母さんがお父さんのために頑張っている様子を見ると、ぼくはイライラし始めて「おっとりさん」じゃなくなっていく。反対に、このままお父さんが帰ってこなかったらどんなにいいだろう、お母さんが喜ぶだろうと考えると、ワククワクする。
 「雨降ってるから、階段転ばないように歩いてね~」
 お母さんはニコニコしながら、ぼくにランドセルと荷物を持たせてくれる。
 ぼくは玄関で長靴に足を突っ込みながら、もうすぐ来る、その時が来たらお母さんに伝えようとしている内容を、心の中でもう一度おさらいした。
 「きっとお父さんはね、雨で足をすべらせてころんじゃったんだよ」 
 ぼくはドアノブに手をかけたまま、ぐったりしたお父さんの頭から滲み出た血が、今ごろは雨で薄まって、スイカみたいなやさしいピンク色になって、部屋の外のマンションのコンクリートの階段をゆっくり伝っているのだろうなということを想像する。
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