春のうらら

高殿アカリ

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「ちょ、ちょっと待ってよ」
 シノニムは麗の手を引っ張り、その足を止めさせた。
 麗は怪訝な表情で後ろを振り返った。
「泉はもうすぐよ?」
「いや、そうじゃなくって。薬草は僕がちゃんと届けなくっちゃ」
 真剣な瞳でそう言い切ったシノニムに麗は唇を尖らせた。
「ギルを信用できないの? 彼は護衛騎士の中でもすごく強いんだから」
「信用もしているし、彼が強いことも知っているよ。……だけど、あの薬草は僕のおばあちゃんと領主様との大切な約束だから」
 眉根を寄せて俯くシノニムを見て、麗も罰の悪そうな表情をした。
 シノニムの祖母が育てる薬草には万物の傷を癒す再生の力があった。
 それを知った麗の父は領主一族の伝手と経済力を使い、薬草の研究を提案したのだ。
 多くの人々を救いたいと願っていた祖母はその提案を快く受け入れた。
 そして、定期的に祖母から領主へと薬草の一部が納品されるようになった。
 それは彼女が死んだ後も、孫のシノニムが引き継いでいた。
「ごめんなさい。……そうよね、私が考えなしだったわ」
 素直に謝る麗にシノニムは優しい笑顔を見せた。
 彼女が他人を思いやれる少女であることは彼も知っていたからだ。
 実際、シノニムの祖母が亡くなったときも麗は幼い瞳に涙をいっぱい溜めながら、彼を慰めてくれたのだ。
 シノニムにとって唯一の家族であった薬草師の祖母の死は悲しいものであった。
 だが、麗がシノニムの傍にいてくれたことで彼の苦しみは随分と癒されたのだ。
「もう邪魔したりなんかしないわ。一緒に戻りましょう」
 にっこりと麗とシノニムが微笑みあったときだった。
 まるで彼等の仲を引き裂くかのように、魔物の鋭い咆哮が辺りに響き渡った。
 はっと辺りを見渡すと、木々の間から一本角の巨大な兎がのそりと出てきたのだ。
「アルミラージ⁉」
「……どうしてこんなところに」
 二人は衝撃を受けた。
 それもそうだろう。毒々しい紫色の体躯を持つアルミラージは、魔界領域を住処とする魔物の一種であったのだから。
 モラカルトの村から魔界領域までの距離は比較的遠い。
 それにも関わらず、魔物がこの辺りに出没するのは、かなりの異常事態であると考えられるだろう。
 ――――ぐぉぉぉぉぉぉぉ‼
 恐怖と驚愕に固まる幼い二人の少年少女に向かって、アルミラージは再び咆哮をあげた。
 鋭い二本の牙が凶暴な性質を持って二人に襲い掛かる。
 シノニムは反射的に目の前の可憐な少女を抱き込み、自らが盾になろうとした。
 瞬間、突風がシノニムたちの間を抜けていく。
 次に金属音が鳴って、魔物の苦悶の呻き声が聞こえてきた。
 恐る恐る顔を上げると、目の前にはギルバートの大きな背中があった。
「ギル……」
 麗が呟いた。
 ギルバートの手には両剣が握られており、刃からアルミラージの血液が滴った。
 優秀な護衛騎士の奥では、アルミラージが小さな前足を使って顔を抑えていた。
 赤い瞳からはたらりと血液が流れている。
 視界を奪われたアルミラージは、よろよろとふらつきながら森の奥へと帰っていった。
 シノニムと麗は目の前の危機が去った安堵から身体の力が抜け、ずるずると座り込む。
 魔物の気配が完全に消えたことを認識し、ギルバートは彼等のもとへと駆け寄った。
「ご無事ですか」
 跪いて麗の無事を確認するギルバートに、彼女はか弱く微笑んだ。
「ありがとう、ギル。貴方がいなかったら今頃……」
 麗の言葉にギルバートは首を左右に振った。
「貴女をお守りするのが私の使命です」
 二人の会話を傍目にシノニムは自らの無力を痛感していた。
 魔物の中でも最弱と言われるアルミラージを前に、かすり傷ひとつすら負わせられなかった。
 唇を噛み締めるシノニムの頬に温かな手が添えられる。
 はっとして顔を上げると、麗のヘーゼル色の瞳がシノニムを真っすぐに見つめていた。
「シノもありがとう」
 花が誇るように笑った麗にシノニムもようやく笑みを返した。
「僕は何もしていないけどね……」
「私を庇ってくれたじゃない」
 気恥ずかしさを感じているシノニムの背後から、ギルバートの声がかかる。
「お嬢様、そろそろお屋敷に戻りましょう。他の魔物がいないともかぎりません」
「えぇ、そうね。……シノ、帰りましょう」
 麗は凛とした眼差しで森の奥を見つめていた。
 何かを思案するようなその横顔には、シノニムの前で今までに見せたことのない何かが秘められていた。
 差し出された麗の手を取り、シノニムは来た道を戻る。
 森の入り口で、三人は別れた。
 シノニムは村に、麗とギルバートは領主の屋敷へと足を向ける。
 別れ際、麗は真剣な眼差しでシノニムに向かって口を開いた。
「シノ、この先何があっても私は貴方の味方よ。このペンダントに誓うわ。……だから、決して忘れないでいてね」
 麗はそう言って、服の下から銀製のペンダントを取り出した。
 ペンダントには領主一族の家紋が彫られていた。
「そんな大事なものに誓わなくても、君の友情は信じているよ。だって僕たちは親友、だろう?」
 シノニムは肩を竦めて言った。
 麗が微笑む。
「それもそうね」
 彼女はペンダントをそっと服の下にしまう。
「麗、君も忘れちゃ駄目だよ。僕だって、いつでも君を助けるヒーローになれるんだということを」
「えぇ、そうね。私たちは親友、だものね」
「明日こそ、森の泉で遊ぼう」
 シノニムの言葉に一瞬だけ麗が泣きそうな表情をしたように見えた。
 だが、すぐに彼女はいつもの無垢な笑みを見せた。
「そうね。また明日遊びましょう」
「あぁ、また明日」
 こうして幼い二人はさよならを言い合った。
 このとき、シノニムは麗と過ごす幸せな毎日がこの先も続くと信じて疑わなかった。
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