春のうらら

高殿アカリ

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 暮れ泥んでいく世界がまるでリーラム帝国の所有物であるかのような、そんな錯覚に陥るほど、情景に王城は映えていた。
 シノニムは庭園から王城内へと続く回廊を早足で歩きながら、与えられた客室へと向かっている途中であった。
 急がなければ舞踏会に間に合わない。間に合わなければ麗になんて言われるだろうか。
 それに、昼間の麗のことを思えば今は隣に一緒に立っていたい、そう思っていた。
 そんな気持ちから彼は周囲への注意を怠ってしまう。
 角を曲がって、あ! と気が付いたときには時既に遅し。
 シノニムは勢いよく誰かとぶつかった後であった。
 相手はふらりと力なく揺れたあと、壁に激突してそのまま座り込んでしまった。
「すまない。大丈夫か」
 慌ててシノニムは目の前の人物へと駆け寄っていく。
 三角座りをしている人物は黒いローブを目深に被り、俯いている。
 軽くぶつかっただけで人間がこんな風になるはずがない。
 他に原因があるのではないか。
 シノニムは彼のローブのフードを捲り上げた。
 真っ暗なフードの中から出てきたのは、これまた真っ黒な髪の毛だった。
 ふわふわとした黒髪が眼前に現れたシノニムは少々驚く。
「これじゃあ、顔色が分からない」
 そう言って、シノニムは前髪を指で掬い上げ、顔を覗き込んだ。
 眉根を顰めて目を瞑ったままのその男の顔色は、酷く青白く、目元にはくっきりと隈が浮かんでいた。
 どうやら男は気を失っているようであった。
 シノニムは彼の額に手を当てた。ひんやりとしている。
 低体温の人間の体調が良いとは到底考えられず、シノニムは迷うことなく男の背中と膝裏に腕を差し込み、軽々と持ち上げた。
「……うぅ」
 そこでようやく男が目を覚ました。
 そして、自らの現状を理解するよりも先に、目を僅かに開けて一言だけ述べた。
「まぶしい……」
 気を失っていたとは思えないほどに俊敏な動作でローブを被り直すと、あとは大人しくシノニムに身を委ねていた。
 首を傾げながらも、客室へと戻ってきたシノニムは身軽な男を寝台に横たわらせた。
 途端、彼は自らの身体を抱え込んでじっと丸まった。
 しばらくのち、すぅすぅと穏やかな寝息がシノニムの耳にも届いた。
「……どうしたもんか」
 シノニムが頭を抱えたそのとき、客室の扉が開かれ、麗がうきうきとした足取りで入ってきた。
 それから途方に暮れているシノニムを一瞥し、麗はきょとんと瞼を瞬かせた。
「何かあったの?」
 素朴な彼女の質問にシノニムは顔を寝台に向けた。
 彼の視線を追った先には麗のよく知る、先ほどまで図書館にいたはずの人物が蹲っていた。
 さながら、その姿は少し遅めの昼寝をする子猫のようである。
「え? どうしてここに」
 麗の言葉に反応したのはシノニムの方であった。
 彼は期待を込めた瞳で麗を見た。
「知り合いか?」
「えぇ、稀代の天才魔術師シュヴァルツェよ。さっきまで一緒に図書館にいたはずなのだけれど」
 首を傾げる麗にシノニムは経緯を説明する。
「曲がり角でぶつかったら、倒れこんでしまったんだ」
「あぁ、それでどうしていいか分からなくなったのね」
 シノニムは頷いた。
「心配無用だと思うわ。彼にとってはよくあることだもの。大方、寝食を忘れて研究に没頭していたのでしょう」
 麗の声に応えるように、寝台の上で眠る魔術師のお腹から盛大な音が鳴った。
 それは紛れもなく空腹であることを示す音色であった。
 暢気なその音に、シノニムはほっと安堵の息を漏らした。
「このままシュヴァルツェも舞踏会に連れていきましょう。あそこには食事も用意されてあるものね」
 麗がそう言うや否や、続々と王宮の侍女たちが部屋へと入ってくる。
 彼女たちも手慣れた様子でシュヴァルツェを運んで出ていった。
「麗様はこちらへ。シノニム様には正装をご用意しております」
 侍女長がシノニムたちに声をかけると、麗は手を振りながら侍女長の開けた扉から出ていった。
「またあとでね」
 後に残された侍女長がシノニムに顔を向ける。
「着替えはおひとりでなされますか?」
「そうしていただけると有難い」
「かしこまりました」
 洗練された美しいお辞儀を残し、彼女もまた部屋を出ていった。
 寝台脇のサイドテーブルには丁寧に畳まれた燕尾服がいつの間にか置かれていた。
 袖に腕を通し、気持ち髪をまとめる。
 あとはただ麗の準備を待っていた。
 青い二つの惑星が太陽に代わって宵空に昇る頃、扉を控えめに叩く音が聞こえた。
 シノニムは燕尾服をもう一度確認し、扉の前に立つ。
 恐らくこの扉一枚を隔てた向こう側には舞踏会用に着飾った麗が待っている。
 そのことに少しだけ緊張しているのが何だかおかしく思えた。
 咳払いを一つ、それから満を持して気持ちゆったりと扉を開かれる。
 目の前に立つイブニングドレスを纏った麗の姿にシノニムは息を呑んだ。
 深い緑を基調とし、胸元と袖口、オーバースカートの部分にはふんだんにフリルが装飾されていた。
 そのドレスは麗の小麦色の髪によく映えていた。
 彼女の真っ白なデコルテに何も飾られていないことに気が付いたシノニムは、燕尾服の内ポケットに入れていた銀のネックレスを取り出した。
「……それ」
 驚いた麗にシノニムは笑みを返した。
「十年前、館の焼け跡で拾ったんだ。魔王城に向かう前、鍛冶屋のおじさんに打ち直してもらったから、そんなに酷くない状態だとは思うんだけど」
 麗は両手を出して、シノニムから家紋のネックレスを受け取った。
 彼女は花のほころぶように微笑んだ。
「ありがとう。大切にするわ」
 嬉しそうに声を弾ませて、麗はネックレスをそっと首に付けた。
 重厚な銀のアクセサリーは上品さを醸し出すイブニングドレスによく似合っていた。
 そうこうしているうちに、廊下の隅にシュヴァルツェが座り込んでいた。
 三角に膝を抱えて頭を膝の上に乗せた彼はうつらうつらと舟を漕いでいる。
 今すぐにでも眠りこけてしまいそうに見えた。
 シノニムは華奢なシュヴァルツェの肩を揺すり起こした。
 目を擦り、大きな欠伸をしながら立ち上がったシュヴァルツェは寝ぼけ眼のままシノニムに向かって両腕を伸ばしている。
 それを目にした麗が声を立てて笑ったのがシノニムの背後から聞こえた。
 ころころと春のような温かい笑い声だった。
「あら、随分と懐かれているのね。魔物たちもシノのことを気に入っていたし、貴方には何かがあるのかもね」
「そうだと良いけど、な!」
 よいしょとシノニムはシュヴァルツェの手をはたいた。
 驚いたように目を見開いて、シュヴァルツェは不満げに唇をへの字にさせた。
「自分で歩くべきだ」
 ふん、と腕を組んだシノニムに従うように怠け者の魔術師はのそのそと動き出したかに思えた。
 だが、シュヴァルツェは身体をシノニムの背に傾けており、彼の体重はほとんどシノニムが預かっているようなものであった。
 三人は舞踏会の会場である王城の大広間へと向かった。
 その際に、元来優れた仕事を行っているはずの侍女や執事たちが物珍しげにシノニムたちを二度見してしまったとか、していないとか。

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