健二

高殿アカリ

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3人目 今年2月

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情事のあと、ぽつりと零された一つの願い。

「……幸せに……なりたい……」

乱れたシーツと清さから遠く離れた堕天使の涙。
熱い呼吸と切なる祈りのような願い事。

相手の男は煙草を蒸かしているばかりで、私の囁きなどまるで聞いていない。

「健二、どうしてあなたは変わっちゃったの?」

私の問いかけにも、健二はその視線をちらりと寄越すばかりで口を開く気配はない。

冷たい、瞳だった。
優しかったあの頃の彼はどこへ行ってしまったのだろう。
彼と行為を終える度、私はいつもそんな風に無駄にしかなりえない思考ばかりを巡らせていた。

暖房が効いているはずのホテルの部屋も、どうしてか私には外にいるのと同じくらい寒く感じた。

健二はゆっくりと煙を吐き出すと、濁った瞳に怪しげな光を灯して私を射抜く。
怖いくらいに、真っ直ぐな目をしていた。

「お前、本気で自分が何を言ってるのか分かっているのか?」

彼のいつもの問いかけだ。
でも、私は彼の言わんとしているところが分からずに、曖昧に頷きを返すばかり。

すると、私の何が気に入らなかったのか、健二は酷く大きな溜息を吐くと煙草を灰皿に置いて立ち上がった。

私はぼんやりとその様子をベッドの上に座り込んだまま眺めていて、あぁ健二の背中は大きいんだな、とか、あぁ健二のうなじってこんなにも男らしかったんだな、とかやっぱり無益なことばかりを夢想していた。

健二は、私の視線に全く気が付くことなく、手早く着衣すると何も言わずにそのまま部屋から出ていった。
彼の背中が扉の奥に消えてしまってから、やっと私は動き出す。

ベッドから足を下ろして立ち上がる。
もう、帰ろう。これ以上ここにいても空しいだけだ。

私は軽く溜息を吐いて、そこかしこに落ちている衣服を拾ってシャワー室に向かった。

強い雨が降っているみたいだ。
暑くたぎるような雨が。

シャワーの水が髪から滴り落ちる。
私は湯気で霞む世界をぼんやりと見ている。

まるで霧がかかったようなそんな世界で、私は一体どれだけのことが見えているのだろう。

私は急に不安になってその場にしゃがみ込む。

背中に当たる強く熱い雨。
私は一体どこにいるの。

ざぁざぁ。ざぁざぁ。雨音が五月蠅い。

耳を押さえて、私は叫んでいた。
何度も、何度も。同じ言葉を。

まるでいつもそう叫んでいるみたいに、その言葉は私の唇の上をするすると出ていく。
それは馴染んだ古い友達のように。

「行かないで。行かないで。行かないで」

ありふれた言葉は私を毒していく。
ゆっくりと、ゆっくりと。

私はこのまま息を詰まらせて死ぬのだ。
この、何の取り立てて特徴もない言葉に殺されて。

いつまでそうやっていたのだろう。

気が付けば私の声は小さくなって、囁きのようになる。
もはや自分が何をしているのか、どこにいるのか、何者なのかさえも分からない。

すべてが分からなかった。
そして、分からないことが唯一の救いだと思った。


目が覚めると、私はバスローブを着てベッドに横たわっていた。

身体を起こそうとして、左手首に鋭い痛みが一瞬走る。
私は顔を顰めて、またか、と思った。

もう一度、シーツの海に身を委ねて、私は左手を見る。
その手首には痛々しい程に白い包帯が巻かれていた。

「ごめんね」

私は自分の左手首に謝る。
そして、言い訳みたいにこう続ける。

「別に死にたかった訳じゃないんだよ。……死にたいって現在形な訳でもない。それに、そもそもやったっていう記憶がないんだから、死にたいも何もないよね」

呆れたように自嘲気味に笑った。
自分でこんなに綺麗に手当てができるんだから、健二が去ってしまうのも無理ない。

最後の言葉は直接声に出すことなく、いつものように溜息の中に溶かした。
言葉として吐き出すには、少しばかり私の心は弱いみたいだ。

今度こそ、私はベッドから起き上がって帰り支度を始める。

「一人でこんなところにいたら、また何をしでかすか分かったもんじゃない」

扉を閉める前、ぽつりと零した言葉が誰もいない部屋にやけに響いた。


一週間もすると、左手の包帯は取れた。
消毒液が滲んで少し黄ばんだガーゼは、包帯ほど私を責めてはこない。

そうしてようやく、私は深く息が吸えるようになった気がした。

駅前の時計の下、私は健二を待っている。

今日は来てくれるだろうか。
彼にいつだって振り回されているのに、彼に会いたくて仕方がないなんて何とも皮肉なことだ。

時計の下に立ったのは、そうすれば時計の針を見なくて済むからだ。

これは、時間通りに来ない彼に今まで散々待ちぼうけをくらってきた私の浅知恵だ。
私の心を傷つけないための方法だ。

私はただ行き交う人々の顔を見て、そこに健二がいないかを探す。

今日は来て。
今日だけは。

持ってきた淡い桃色の紙袋の紐を両手で握りしめる。
かさり、と紙袋の中身が音を立てる。

その時、私は人混みの中に見慣れた彼の顔を見付けた。
喜びと安堵の入り混じった声を出して、私は健二に駆け寄る。

「健二っ!……もう来ないかと思った」

私の姿を見て、彼はどこか罰の悪そうな顔をして、

「……本当は、来るかどうか迷った」

その自信のない彼の様子にいつもの横暴な彼とはまるで思えなくて、私は知らず知らずの内に彼の頬に自分の手を添えていた。

私の手が彼の頬に触れた時、彼はぴくりと反応をするも、私の手を払いのけようとはしなかった。

私はそのまま彼に問う。
「……何か、あった?」

私の問いに彼は悲しそうに瞼を降ろすと、首を横に振る。
繊細そうなその仕草は、本当にいつもの彼らしくない。

「あんたに、話しておきたいことがある」

健二はそう呟くと、頬に添えている私の手を取って、そのまま歩き出した。
私は半ば引っ張られるような形で彼のあとを付いていく。

健二は目についた喫茶店に入ると、店の奥の方の席に座った。
そこでようやく繋がれていた私と彼の手が離れた。

私は熱を失った自分の手と彼の表情を交互に見て不安に襲われながら、彼の向かいに座った。

そこにウェイターがやってきて注文を聞く。
健二はコーヒー、私はレモンティーを頼んだ。

ウェイターは私たち二人の間に流れる空気に何かを感じ取り、それに関わり合いたくないと思ったのか、注文を聞き取るとすぐにカウンターの向こうに消えた。

その背中を見送りながら、私はひとり取り残されたような気持ちになる。
目の前に、それもこんなにも近くに健二がいるというにも関わらず。

全く理解できない自分の感情を、衝動のような本能のようなそれを、私は怪物のように感じていた。

何か嫌な予感がする。
そんな風に思ったのは、前に座る健二の表情が読めないからなのか。
それとも、私の中にある何かがそう告げているのか。

時間が経てば経つほどに膨らんでゆく疑心暗鬼を払拭したくて、私は極力明るい声を出そうとする。

「健二、今日は来てくれてありがとう。今日はどうしても会いたかったの。だって……」

そこで私たちが頼んだ飲み物が運ばれてきた。
自然と私の口は閉じてしまう。

先ほどのウェイターがまたそそくさと私たちの側を離れていく。

安全な方向へ。自分の巣穴へ。
逃げなくちゃ、巻き込まれるぞ。
彼の背中を見ていると、危険を察知する動物に見えてきた。

健二が無言でカップを持ち上げる。
その食器が触れた音に私は肩を震わせた。

健二は私の怯えた様子を横目に見ながら、コーヒーを一口すする。

そして唇を舐め、カップをおろし、

「最初は、こんなつもりじゃなかった」

ぽつり。池に波紋を投げかけた。

健二はここで一息つき、私の表情を見ている。
私はその視線に気が付きながらも、視線を落としてグラスに浮かぶ氷を眺めていた。

彼が何を言いたいのか分からなくて、私は戸惑っているのだ。

そんな私に気が付いているのか、いないのか。 健二はそのまま視線を下げて言葉を続けた。

「今まで、酷いことをしてきたな。……悪かった」

私ははっと顔を上げて健二を見る。
あまりにも申し訳なさそうな顔を健二がしているので、私は不安に思いながら声を震わせた。

「……何、何の話をしてるの?それじゃあまるで、もうこれで最後みたいじゃない……」

彼は私の言葉に何も答えなかった。
けれど、あまりにもその瞳が優しい色をしていたので、私は瞳に溜まる海の味をなす術もなく迎え入れていた。

その優しい瞳は、今までの彼が全て嘘だったみたいに。
その彼がゆっくりと私に微笑みかけるから、私は耐えていた涙を零して、左手首を右手で握りしめた。

強く。きつく。
そう、この痛みだけを感じていて。
そうすれば胸の痛みなんてちっとも痛くはないのだから。

健二がそっと腕を伸ばして、私の両手を包み込む。
その温かさに、私は胸の痛みからは決して逃げられないのだと思い知った。

右手の力を抜くと左手首の痛みは鈍くなっていく。
その代わり、胸の切ない痛みは鋭く尖っていって、私はどうしようもなくただ健二のことを見つめるしかなかった。

苦痛に、切なさに、引き裂かれた表情で。
涙で霞む視界に彼を捉えた。

彼をいつまでも縛っておけないことは、もう随分前から分かっていたことじゃない。
必死になって、自分にそう言い聞かせた。

そうでもしないと彼の話なんてとてもじゃないけれど聞けやしないと思ったから。

「親父が、倒れたんだ。……だから、もう潮時だと思った。いつまでもこんなところで立ち止まったままじゃいけないんだ。俺も、あんたも。……あれから、二年以上が経ったんだぜ」

私は何も言わずに健二の手を解くと、レモンティーの入ったグラスを持ち上げて一口それを舌の上に乗せた。

からん。
透明な氷がグラスに当たる。
季節外れの涼しげな音がした。

「俺の親父は教師だった。それはもう、驚く程に真面目な教師だったよ。……だからなんだろうな。俺はそれに反発でもしているかのようにどうしようもない子どもだったよ。何も俺だってわざと出来損ないになった訳じゃないさ。……ただ本当に俺は何をやっても何一つできない子どもだった」

寂しそうに笑いながら健二は話し始めた。

からん。からん。
氷のグラスに当たる音が耳に残る。




俺は小さい時から何もできない子どもだった。

高校生になる頃には地元じゃちょっと名の知れた悪ガキになっていた。

親父はそれが我慢ならなかったんだろうな。
どうして自分の子どもは優秀じゃないんだろうって、きっとコンプレックスを抱いていたはずだ。

親父は自分の受け持つ生徒の中に俺と似たような生徒がいると、いつもそいつに目を付けた。

そして、そういうやつにちょっとした雑用を押し付けたり、クラスメイトの前で恥をかかせたりしてた。

まぁ、所謂生徒いびりをしたり、生徒を依怙贔屓したりするような教師だったのさ。

な、カッコ悪いだろ。

……そんな親父にも、一等可愛がっているお気に入りの生徒ができた。

それが約二年前のことだ。

親父が気に入った生徒はそれはもう真面目な奴で、親父の学生時代もあんな感じだったんだろうな。

だけど親父とそいつには一つだけ決定的な違いがあった。

それは親父が出来損ないを嫌っているのに対して、そいつはむしろ出来損ないと言われるような奴らと仲良くしていたことだ。

親父はそれが気に食わなかった。

その年は、親父のクラスに俺にそっくりな出来損ないがいたらしい。

子どもの頃から何も出来なくて、何も出来ないことを言い訳に悪ガキという勲章を手にした出来損ないが。

その出来損ないと自分のお気に入りの生徒が仲良くしているんだ。

親父は酷く劣等感を持ったことだろうよ。

なんせ、同じ出来損ないなのに自分の息子でさえ受け入れられない親父に対して、そいつは赤の他人である出来損ないと友達になっているんだからな。
それも、親友だったんだとよ。

親父は自問自答しただろうな。

お気に入りと自分は一体何が違うのか。
そして、その原因は何なのか。

そんなことを繰り返す内に親父も自分自身で何が何だか分からなくなっていったんだろうな。

親父の中でお気に入りの生徒が憎々しい生徒に変わるのに、一学期の数ヶ月があれば十分だった。

親父は一学期の終わり頃からそのお気に入りの生徒をいじめ始めた。

そいつはかなり困惑したと思うぜ。
今まで良くしてもらっていた分、特に。

一番、酷いいじめだったと思う。
今までいじめてきた生徒とは違う。

だってそいつは真面目で賢くて、そしてびっくりするくらい心の広い奴だったんだから。

教師という権力でそいつの将来を脅し、クラスメイトからも孤立させ、そいつの家族からの信頼を得て、逃げ道を無くした。
それはそれは入念な準備と狡猾な計画でそいつを虐げたんだ。

そしてその年の十月、その生徒は死んだ。

自殺だった。
親父のいじめが原因だったと思う。
だけど、そいつは死ぬ時まで良い奴であり続けた。

残されていた遺書にも親父のことは何も書かれていなかった。

……酷い、親父だろ。

その生徒が死んで俺は初めて親父の生徒いじめの原因を知った。

俺が、息子の俺が、出来損ないだったせいで人が死んだ。

そう、思ったよ。
悔しくて、悲しくて、情けなかった。

親父に失望もしたけど、それ以上に自分に腹が立った。

こうなる前に親父と話し合うことはできなかったのか。
話し合ってぶつかり合っていれば、親父の生徒いじめはなくなっていたんじゃないのか。

死んでしまった生徒のことは何も知らなかった。

だからこそ、辛かった。
俺たち親子の問題に何の関係もない奴が、その未来を奪われたんだ。

でも、だからこそ、何をしたらいいのか分からなかった。
何をしても、罪滅ぼしにさえもならない気がして。

その生徒が何を望んでいたのか。
何も知らなかったから。

そんな時、俺の目の前にあんたが現れた。
まるで天使かと思った。

俺の役目がはっきりと分かった。
今にも崩れ落ちそうなぼろぼろの顔をして、その名前を呼ぶあんたに俺は感謝した。

……ありがとうな。
きっとあんたはあんたのやりたいようにやっていただけなんだろうけど。

それでも、俺はこの束の間のあんたと過ごした時間で救われた。

どうしようもない報われ方かもしれない。
ただの自己満足かもしれない。
いや、きっとそうだ。

だから次の段階に進むべきだと思ったんだ。
あんたにとって、それが一番良いことだと思ったから。

散々、良いようにあんたを利用してきた俺が言うのも何だがな、これが、お互いにとって一番良いことなんだ。

この喫茶店を出たらもう二度と俺たちが会うことはない。

それでいいんだ。
あるべき場所に、戻らなくちゃ。



「だから、俺たちはもう終わりにしよう」

すべてを話し終えた彼は最後にそう言った。

コーヒーの苦い香りはもうここには漂っておらず、レモンティーに浮かぶ透き通った氷ももうすっかり溶けてしまった。

嫌だ。まだ、一緒にいて。
そんな思いとは裏腹に私は持っていた紙袋を彼に投げつけて、喫茶店を飛び出した。

どこに帰ればいいというの。
健二のいないこの世界に、私の帰る場所なんてあるの。

「……今日は、バレンタインだったんだよ」

空しいばかりの問いかけは、桃色に彩られた恋人たちのための、今夜の空に吐き出された。

いつの間にか雪が降っていた。
私は雪を掴もうと空に手を伸ばす。

スクランブル交差点の真ん中で、私はもう死んでもいいと思っていた。
変な顔をして沢山の人が私を追い越し、追い抜いていく。

雪は私の指先に触れるも、すぐに私の熱に溶かされ、消える。
あまりにも儚いその最後が無性に悲しくて、悔しくて、私は大音量のクラクションを背中にその場から走り去った。

やっぱり死にたくはなかったから、あんな風に呆気なく消えてしまうのが怖かったから、私は走って逃げた。

死にたいのに死にたくないなんて、矛盾している。

「……ごめんなさい、健二」

寒空の下、ひとり懺悔の言葉を囁いた。


それからの日々のことはあまりよく覚えていない。
寝たり、食べたり、生きるために必要な行動はあまりとっていなかったように思う。

心配した母親がいつも様子を伺いに私の部屋を覗いていた。

時々、暴れることもあったような気がする。
ものを壊すことで自分を正当化したかったのかな。

けれど、そのすべてが遠い惑星の、違う世界の出来事のようで、私はいつまでたっても靄のかかった世界に取り残されていた。

もう二度とここから抜け出せないのだと思った。
この寂しい一人きりの惑星から。

酸素もないようなこの星には誰も助けには来られない。
そして、私もここから飛び立つ方法を知らなかった。
新しく宇宙船を造る技術も覚悟も勇気も何一つ持っていなかった。

ただ、健二がいなくなってしまったことだけは理解していた。
怖いくらいにはっきりと。

この胸のぽっかり空いた空洞が嫌でも私にそれを知らしめてきたのだから。
あまりにも風通しがいいものだから、私はいっその事涙でも溜めてしまいたかったのだけれど、涙を流すためには思いの外気力というものがいるようだった。

泣きもしなければ、お腹もすかないし、一向に眠くもならなかった。
時間さえも拒絶したこの場所で私は一体、何のために生きているのだろう。

そんな風な堂々巡りを繰り返していた私が崩壊したのは、あのバレンタインの日から二か月ほどが経とうとしていた頃だった。

それは、ほんの些細な出来事だった。
何の他愛もない、有り触れた会話。

もしかしたら、私は何かきっかけを探していたのかもしれない。
ここから消えてしまえる、そんなきっかけを。

その日、私はトイレに向かうために階段を降りていた。
階段を降りてすぐの所にはリビングに繋がる扉があって、たまたまその日は少しだけその扉が開いていた。

だから、母親が電話をしている声もその扉を通るときにはよく聞こえた。

「……あの子、もう外は春の気配を見せているのにまだ冬の格好をしているの。……一人だけ冬の世界に取り残されたみたいに」

誰と電話していたのかは分からない。
ただ私の頭の中で『春』という言葉だけがぐるぐる回っていた。

「そうか、もう、春なのか」

ぽつぽつと言葉を落とした。
その呟きは小さな刃をもって私の心に襲い掛かってくる。

部屋に戻ってもそのことばかりが気になって仕方がない。

そういえば、どことなく部屋も暖かいような気がする。
春、ということはもうホワイトデーは過ぎたのか。

漠然とそんなことに気が付いてしまった自分に腹が立った。
なぜならもう、健二はここにはいないのだから。

あのバレンタインの日に当に消えてしまったのだから。

ぼんやりと今まで健二がくれたホワイトデーのお返しのことを思い返す。

「いつも恥ずかしそうにお返しをくれていたよね、健二。……そう、去年も……。……いや、去年のバレンタインは、私は健二にチョコレートを渡さなかった。父さんの分しか作らなかった」

……どうして去年は健二にチョコレートを渡さなかったのかな。
何か、渡せない訳でもあったのかな。

突然、私は軽い頭痛に襲われる。

何も、何も思い出してはいけない。
脳内で誰かが大きな警報を鳴らしている。

「五月蠅い。……痛い」

私はふらふらと立ち上がり、部屋の窓を開ける。
空気を入れ替えたかった。

春の陽気で清々しい風が入ってきて、少しだけ頭痛が収まった。
どうやら外は夜のようで、澄んだ春の夜空が綺麗だった。

だから、始めは桜だと思った。
桜が舞い散っているのだと思った。

私はその幻想的な世界に誘われるようにして窓の外に手を出した。

桜は私の指先に触れると溶け消えた。
そこで私は空から降っているものが何かに気が付いた。

「……雪だ」

それも季節外れの。

私はポケットに携帯電話が入っているのを確認してから、窓の外に一歩踏み出した。
ただただあの日の虚しさばかりがその時の私の胸を満たしていた。
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