9 / 10
不吉列車、忍び寄る影、その兆候
多少の課題はあるものの、おおむね悪くない方に向かっている気がする。
もちろんどんな課題も一つ一つ丁寧に取り組めば必ず乗りえられる、なんて具体的な策も立てずに言い放ってしまえるほど楽観主義ではいられないし、箸が転げても笑っていられるほど素晴らしい日々だってわけでもないのだけれど。
正直なところ、まだそう思っている。
この新谷夏生の主観では、この世界以上により良い出来事の起こりそうなどこかなんて、そうそう思い浮かべられなかった。
別段、熱心に特筆すべきほど善良なことは何もしちゃいないし、反面、もしもここからここ以上にどこか悪質な方向へ行くとしても、いきなり訳の分からない漫画の敵役みたいな何者かが現れてマシンガンで撃ち殺されちゃったりするような悲劇には、万が一にも遭遇しないだろう。
たかが知れている。
そして、底も知れている。
つまり、今のところはまだ薄ぼんやりとだが、いずれにしろ大した問題にはならない、そう希望することやそう見得を切ることくらいは、絶対的に可能である。
でも、だからそれはまだあくまでもお前の主観でしかないじゃない、本当は何もうまくいっていないのに気付いてないんだって。まったくもう、何言ってんのよ。モラトリアムさんじゃあるまいし。
たとえば顔見知り以前の誰かがそんな風に、客観的に、冷酷に、一分の隙もなく厳密に断罪したくなる心理状態であったならば、あるいはそう言わせてしまう可能性も残っているかもしれない。
それにしてもそうだ。ぼくは実にどちらとも考えられ、どちらとも言えるのだ。
まだどちらかという二者択一を迫られている訳ではない今だから、そう思える。
*
銀糸町から帰ろうとする電車は、ほぼ満員だった。夕方のラッシュを過ぎて、人々の動きが少し落ち着く時刻だった。
「南夢歌さんは深く眠っています。まだしばらく眠り続けるかもしれません。ただその眠りの中で本来の自分を取り戻す力を蓄えたら、きっと再び目覚めることができるでしょう。
それまでこのお店を営むに足る人材は必ず回します。どうか頑張ってください」
ぼくは結局、その日はそれだけのことを日立美来さんに言い残し、飾り物処小夢を後にした。実質的には他に言えることがなく、一旦は距離を取らざるをえなかった。
闇と魔は何しろ引かれ合う。ゆえに、自ら、あるいは誰か関係者の手によって、無惨な争いを回避すべく遠ざけられる必要も発するし、自然冷徹に反発もするのだ。
さもなくばそれらの因子を孕む暗い過去の敗北した証にまで遡って、人心の核をズタズタに引き裂くほど深く掘り下げねばならなくなってしまう。そうなる可能性が高まるのが、闇の性質。これくらいは、現代の並のゴーストバスターなら誰でも基本的な道理と心得ていることだ。
さらに本当のことを言うと「アクセサリーショップみたいなきらめく専門店の面倒なんか、半端者のぼくの手には負えない」そう思ったし、記憶する限り、交際中だった頃、彼女にもそうはっきり言った。
夢歌さんの夢はどう聞いてもどう見積もっても善い夢で、応援したい良い夢で、その根本にある志や情熱は強く共感できる。けれどぼくにもぼくなりの夢があり、立場上の制約が複雑すぎる側面もあったから。
飾り物処小夢の立ち上げ準備はどれだけ準備に時をかけられるかかが肝心だった。が、それ以上に設計図の段階から、何をどう描けるかという現実的なセンスが必要で、そのセンスを持つ誰かの協力が必要不可欠だった。まあ、ぼくじゃ土台無理なことだった。
会社の宣伝部に「ああいう素敵なお店こそ支援しなければ、我が社の信頼性は失墜しますよね」なんて多少圧力をかけながら販促用の資料をまとめたファイルを提供するくらいのことはした。
派遣スタッフの中で販売経験のある見た目よさげな女の子に「急なお願いで申し訳ないんですが、美人にしか頼めないんです。ね、とりあえず一ヶ月だけでいいので」なんて方便を使ったりもした。
相田社長には「この件、全体的には、やはり社長にしか助けられません」なんて完全に負けを認めるようなことも言った。
要は、所詮お得意様へお得意の口出ししかしていない。責任なんてさらさら感じていない。
いや、いや、本当か?
ほかならぬ夢歌さんのためなのに、もう少し死ぬ気で働いてもいいはずなのに、死力を尽くしていなかったのではないか?
そして、当然として、普通に自己嫌悪をしたりするはめになっている。
電車の中では、優先席にどっかり座った健康そうにものっぺらぼうにも見える無関係の若者を見下ろしながら「クソが、今すぐ死ね」と言いたくなり、それを冗談抜きの紙一重でぐっと我慢していた。
ああ。自分を責めたり、袖摺り合った他人の若者への八つ当たりなんて愚行をしでかす前に、日立先輩か南専務、あるいはその両名を呪うべきなのだろうか。
そもそも彼らがぼけっとしていなければ今頃ぼくは何も考えていない。適当に働く以外、自宅かツリーハウスでのんびり健全に一人瞑想とかしていられたわけだし。
そのはずなのに、そのはずなのに、余計な苦悩の種をぶっこんできやがって。
「死にたくなきゃ、次の駅で降りな」
そう、突然、声がする。また余計な心配事が増える予感も。
雑に陰気な考え事をいらいらしながらだらだらしている、そんな夏と秋のはざまを走行中の電車内で、隣にいた初見の不気味な男からささやかれた。そんな不吉な声を聞くのは初体験だった。
「ぼく? ぼくが誰か、わかってます?」
「新谷さん。この世界に仇なさんとする、呪われた男、だろうが」
やっぱり、もっと早くツリーハウスへ戻るべきだった。ぼくは知らず知らずのうちに余計なことを考えすぎていた。せっかく手に入れた幸福な場所と、無闇にかけ離れすぎていた。
魔と闇を思うところ、否が応でも引き寄せ合い、余計なトラブルまで発生させてしまう。道筋に沿って道理が襲ってくる。
厳然たるこの世の法則が。
*
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
双葉病院小児病棟
moa
キャラ文芸
ここは双葉病院小児病棟。
病気と闘う子供たち、その病気を治すお医者さんたちの物語。
この双葉病院小児病棟には重い病気から身近な病気、たくさんの幅広い病気の子供たちが入院してきます。
すぐに治って退院していく子もいればそうでない子もいる。
メンタル面のケアも大事になってくる。
当病院は親の付き添いありでの入院は禁止とされています。
親がいると子供たちは甘えてしまうため、あえて離して治療するという方針。
【集中して治療をして早く治す】
それがこの病院のモットーです。
※この物語はフィクションです。
実際の病院、治療とは異なることもあると思いますが暖かい目で見ていただけると幸いです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
番外編更新中です!
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。