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アポロ

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不吉列車、忍び寄る影、その兆候


 多少の課題はあるものの、おおむね悪くない方に向かっている気がする。

 もちろんどんな課題も一つ一つ丁寧に取り組めば必ず乗りえられる、なんて具体的な策も立てずに言い放ってしまえるほど楽観主義ではいられないし、箸が転げても笑っていられるほど素晴らしい日々だってわけでもないのだけれど。

 正直なところ、まだそう思っている。
 この新谷夏生の主観では、この世界以上により良い出来事の起こりそうなどこかなんて、そうそう思い浮かべられなかった。

 別段、熱心に特筆すべきほど善良なことは何もしちゃいないし、反面、もしもここからここ以上にどこか悪質な方向へ行くとしても、いきなり訳の分からない漫画の敵役みたいな何者かが現れてマシンガンで撃ち殺されちゃったりするような悲劇には、万が一にも遭遇しないだろう。

 たかが知れている。
 そして、底も知れている。

 つまり、今のところはまだ薄ぼんやりとだが、いずれにしろ大した問題にはならない、そう希望することやそう見得を切ることくらいは、絶対的に可能である。

 でも、だからそれはあくまでもお前の主観でしかないじゃない、本当は何もうまくいっていないのに気付いてないんだって。まったくもう、何言ってんのよ。モラトリアムさんじゃあるまいし。

 たとえば顔見知り以前の誰かがそんな風に、客観的に、冷酷に、一分の隙もなく厳密に断罪したくなる心理状態であったならば、あるいはそう言わせてしまう可能性も残っているかもしれない。

 それにしてもそうだ。ぼくは実にどちらとも考えられ、どちらとも言えるのだ。
 まだどちらかという二者択一を迫られている訳ではない今だから、そう思える。

 *

 銀糸町から帰ろうとする電車は、ほぼ満員だった。夕方のラッシュを過ぎて、人々の動きが少し落ち着く時刻だった。

「南夢歌さんは深く眠っています。まだしばらく眠り続けるかもしれません。ただその眠りの中で本来の自分を取り戻す力を蓄えたら、きっと再び目覚めることができるでしょう。
 それまでこのお店を営むに足る人材は必ず回します。どうか頑張ってください」

 ぼくは結局、その日はそれだけのことを日立美来さんに言い残し、飾り物処小夢を後にした。実質的には他に言えることがなく、一旦は距離を取らざるをえなかった。

 闇と魔は何しろ引かれ合う。ゆえに、自ら、あるいは誰か関係者の手によって、無惨な争いを回避すべく遠ざけられる必要も発するし、自然冷徹に反発もするのだ。

 さもなくばそれらの因子を孕む暗い過去の敗北した証にまで遡って、人心の核をズタズタに引き裂くほど深く掘り下げねばならなくなってしまう。そうなる可能性が高まるのが、闇の性質。これくらいは、現代の並のゴーストバスターなら誰でも基本的な道理と心得ていることだ。

 さらに本当のことを言うと「アクセサリーショップみたいなきらめく専門店の面倒なんか、半端者のぼくの手には負えない」そう思ったし、記憶する限り、交際中だった頃、彼女にもそうはっきり言った。

 夢歌さんの夢はどう聞いてもどう見積もっても善い夢で、応援したい良い夢で、その根本にある志や情熱は強く共感できる。けれどぼくにもぼくなりの夢があり、立場上の制約が複雑すぎる側面もあったから。

 飾り物処小夢の立ち上げ準備はどれだけ準備に時をかけられるかかが肝心だった。が、それ以上に設計図の段階から、何をどう描けるかという現実的なセンスが必要で、そのセンスを持つ誰かの協力が必要不可欠だった。まあ、ぼくじゃ土台無理なことだった。

 会社の宣伝部に「ああいう素敵なお店こそ支援しなければ、我が社の信頼性は失墜しますよね」なんて多少圧力をかけながら販促用の資料をまとめたファイルを提供するくらいのことはした。

 派遣スタッフの中で販売経験のある見た目よさげな女の子に「急なお願いで申し訳ないんですが、美人にしか頼めないんです。ね、とりあえず一ヶ月だけでいいので」なんて方便を使ったりもした。

 相田社長には「この件、全体的には、やはり社長にしか助けられません」なんて完全に負けを認めるようなことも言った。

 要は、所詮お得意様へお得意の口出ししかしていない。責任なんてさらさら感じていない。

 いや、いや、本当か?
 ほかならぬ夢歌さんのためなのに、もう少し死ぬ気で働いてもいいはずなのに、死力を尽くしていなかったのではないか?

 そして、当然として、普通に自己嫌悪をしたりするはめになっている。

 電車の中では、優先席にどっかり座った健康そうにものっぺらぼうにも見える無関係の若者を見下ろしながら「クソが、今すぐ死ね」と言いたくなり、それを冗談抜きの紙一重でぐっと我慢していた。

 ああ。自分を責めたり、袖摺り合った他人の若者への八つ当たりなんて愚行をしでかす前に、日立先輩か南専務、あるいはその両名を呪うべきなのだろうか。

 そもそも彼らがぼけっとしていなければ今頃ぼくは何も考えていない。適当に働く以外、自宅かツリーハウスでのんびり健全に一人瞑想とかしていられたわけだし。
 そのはずなのに、そのはずなのに、余計な苦悩の種をぶっこんできやがって。

「死にたくなきゃ、次の駅で降りな」

 そう、突然、声がする。また余計な心配事が増える予感も。
 雑に陰気な考え事をいらいらしながらだらだらしている、そんな夏と秋のはざまを走行中の電車内で、隣にいた初見の不気味な男からささやかれた。そんな不吉な声を聞くのは初体験だった。

「ぼく? ぼくが誰か、わかってます?」

「新谷さん。この世界に仇なさんとする、呪われた男、だろうが」

 やっぱり、もっと早くツリーハウスへ戻るべきだった。ぼくは知らず知らずのうちに余計なことを考えすぎていた。せっかく手に入れた幸福な場所と、無闇にかけ離れすぎていた。

 魔と闇を思うところ、否が応でも引き寄せ合い、余計なトラブルまで発生させてしまう。道筋に沿って道理が襲ってくる。

 厳然たるこの世の法則が。
 
 *
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