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Was kiss fall morning
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記憶に残る絶品のかにたまとポニーテールを作れた人がいて、その人が木造アパートの台所で料理していた後ろ姿を今でもよく覚えている。
彼女には一九九九年の夏から二○○二年の秋にかけて、よく面倒を見てもらった。みんなから黃ちゃんと呼ばれていて、だからぼくもそう呼んでいた。
下の名前については一度も聞いたことがなかったと思う。聞く必要がないくらい、黃ちゃんは名実ともにただの黃ちゃんだったのだ。
当時の彼女はほとんどベース一本で生活を賄えているミュージシャンだった。節約下手なのに西成区からL・Aのコンドミニアムへ引っ越せるほどバンドが人気急上昇だったから、うだつの上がらない音楽仲間や後輩たちへの羽振りがよかった。
先行き不透明なデスメタルバンドのサポートと夜職にのめり込みつつあったぼくの世話も、もちろん気ままに楽しんでいたのだ。振り返るとすれば、そうだったよね、と信じたい。
*
「黃ちゃん、お腹が空いたよ」
「りんりん、あんた病気? ちゃんとお仕事してるんだからお金はあるんでしょう?」
ぼくは本当にお腹がぺこぺこだった。このままだと新しいスーツを買わなきゃならなくなるよって医者に言われるほど痩せていた。何か食べたいし、もっと食べなければダメだとは分かっていたのだけれど、その年の春夏は炊飯器やオーブンレンジを見るだけでもちょっとしんどくなった。大抵の物は頑張って口に入れたって変な味がするし、無理して胃に流し込んだら後で便器を抱えてオーマイガーだ。体重計に乗ると針が五十キロにも届かなくて、我が事ながら目を背けたくなった。
なのに、黃ちゃんの作る料理だけは不思議とちゃんと食べられた。
その中でもかにたまは格別においしく食べられた。
「まともな仕事してないよ。悪い大人たちの使いっ走りなんだ。先月分の給料なんか、付き合いで連れて行かれるクラブで三分の一は溶けたんだ」
黃ちゃんはぼくを叱ることも褒めることもせず、微妙に真実味のある作り話の追求もしなかった。大抵は何でもない、曖昧な顔で、「あっそ」と言う。
そして手早く飯の支度をしてくれた。
「りんりん、これ食べたら家に帰るのよね?」
「ううん、お客さんところ。朝だけど、夜の方のね。ああ、髪、くくってくれない?」
「あんたね。言っとくけど、私はみんなのお母さんじゃないのよ」
黃ちゃんは座卓でかにたまを食べるぼくの後ろに座って、ぼくの背中にわざとらしく大きな胸を押し当てながら髪をくくってくれた。
秋の半ばと言ってもまだ蒸す日が続く。アパートの前をうるさいバイクがとろとろ走り、部屋のちゃちな窓ガラスを振動させていた。
「あら、りんりん。顔の傷が綺麗に治ったねえ。もう化粧しなくったって、いけるわよ」
「へへへ」
「よしできた。バイトが終わったら、店に来ない? カワチが喜ぶ」
カワチ君は黃ちゃんの彼氏で、黃ちゃんのバンドのボーカルだった。二人して鶴見緑地の近くのレストランで働いていた。
「ねえ黃ちゃん。黃ちゃんはぼくを食ってみたいって思ったこと、ある?」
少しくすんだ姿見に映るぼくの頭は、髪の生え際からポニーテールのくくり部分までぴっちりと固定されている。
「うーん。そうだなあ。ないと言えば嘘になるんだろうな」
黃ちゃんのポニーテールも、それ以上どうしようもないほど完璧に整えられていた。自分の髪も人の髪も本当に上手にくくれる人なのだ。
「あっそ。そんくらいの気なら、やめといた方がいいね」
「ふふふ。冷やかしかよ」
もしぼくらがそういうことになったら、カワチ君は黃ちゃんをグーで殴るかもしれない。ぼくに食ってかかる度胸はないだろうけど、彼女にはとても偉そうな奴だった。
「じゃあ、行ってくる」
「待ちたまえ、少年」
アパートを出る時、黃ちゃんが「これくらいならいいでしょ」と囁いた。
ポニーテールをひっ捕まえられ、軽く素早いキスをされた。
後にも先にもそれ一回だけだ。
その一週間後、彼女は海の向こうの国へ引っ越した。
「うん。かにたま」
「おお。かにたま」
黃ちゃんも覚えているだろうか。
ぼくは、何年経っても褪せない思い出に上手く支えられている。
おいしいかにたまや、お揃いのポニーテールや、木造アパートの居心地、邪魔なくらい大きなベースアンプ、やかましいけれどそんなに悪くはないバイクの音。
ぼくらは、確かにあれくらいで良かったのだろう。
思い出せる光景と、あの匂いや味や音や肌触りに、ぎりぎり及ぶほどの軽い口づけをひとつしただけで。
黃ちゃんはやっぱり正しかった。
あの秋の朝の出来事がぼくみたいな人間にどれほど素敵に残るだろうか、あの人のことだから、考えてみたことはあっただろう。
今のぼくは五十五キロある。
程々で良い。
この質量と体温に近い気持ちで、向こうも生きていてほしい。
今朝の黃ちゃんも、そんな風に思ってくれているかもしれない。
彼女には一九九九年の夏から二○○二年の秋にかけて、よく面倒を見てもらった。みんなから黃ちゃんと呼ばれていて、だからぼくもそう呼んでいた。
下の名前については一度も聞いたことがなかったと思う。聞く必要がないくらい、黃ちゃんは名実ともにただの黃ちゃんだったのだ。
当時の彼女はほとんどベース一本で生活を賄えているミュージシャンだった。節約下手なのに西成区からL・Aのコンドミニアムへ引っ越せるほどバンドが人気急上昇だったから、うだつの上がらない音楽仲間や後輩たちへの羽振りがよかった。
先行き不透明なデスメタルバンドのサポートと夜職にのめり込みつつあったぼくの世話も、もちろん気ままに楽しんでいたのだ。振り返るとすれば、そうだったよね、と信じたい。
*
「黃ちゃん、お腹が空いたよ」
「りんりん、あんた病気? ちゃんとお仕事してるんだからお金はあるんでしょう?」
ぼくは本当にお腹がぺこぺこだった。このままだと新しいスーツを買わなきゃならなくなるよって医者に言われるほど痩せていた。何か食べたいし、もっと食べなければダメだとは分かっていたのだけれど、その年の春夏は炊飯器やオーブンレンジを見るだけでもちょっとしんどくなった。大抵の物は頑張って口に入れたって変な味がするし、無理して胃に流し込んだら後で便器を抱えてオーマイガーだ。体重計に乗ると針が五十キロにも届かなくて、我が事ながら目を背けたくなった。
なのに、黃ちゃんの作る料理だけは不思議とちゃんと食べられた。
その中でもかにたまは格別においしく食べられた。
「まともな仕事してないよ。悪い大人たちの使いっ走りなんだ。先月分の給料なんか、付き合いで連れて行かれるクラブで三分の一は溶けたんだ」
黃ちゃんはぼくを叱ることも褒めることもせず、微妙に真実味のある作り話の追求もしなかった。大抵は何でもない、曖昧な顔で、「あっそ」と言う。
そして手早く飯の支度をしてくれた。
「りんりん、これ食べたら家に帰るのよね?」
「ううん、お客さんところ。朝だけど、夜の方のね。ああ、髪、くくってくれない?」
「あんたね。言っとくけど、私はみんなのお母さんじゃないのよ」
黃ちゃんは座卓でかにたまを食べるぼくの後ろに座って、ぼくの背中にわざとらしく大きな胸を押し当てながら髪をくくってくれた。
秋の半ばと言ってもまだ蒸す日が続く。アパートの前をうるさいバイクがとろとろ走り、部屋のちゃちな窓ガラスを振動させていた。
「あら、りんりん。顔の傷が綺麗に治ったねえ。もう化粧しなくったって、いけるわよ」
「へへへ」
「よしできた。バイトが終わったら、店に来ない? カワチが喜ぶ」
カワチ君は黃ちゃんの彼氏で、黃ちゃんのバンドのボーカルだった。二人して鶴見緑地の近くのレストランで働いていた。
「ねえ黃ちゃん。黃ちゃんはぼくを食ってみたいって思ったこと、ある?」
少しくすんだ姿見に映るぼくの頭は、髪の生え際からポニーテールのくくり部分までぴっちりと固定されている。
「うーん。そうだなあ。ないと言えば嘘になるんだろうな」
黃ちゃんのポニーテールも、それ以上どうしようもないほど完璧に整えられていた。自分の髪も人の髪も本当に上手にくくれる人なのだ。
「あっそ。そんくらいの気なら、やめといた方がいいね」
「ふふふ。冷やかしかよ」
もしぼくらがそういうことになったら、カワチ君は黃ちゃんをグーで殴るかもしれない。ぼくに食ってかかる度胸はないだろうけど、彼女にはとても偉そうな奴だった。
「じゃあ、行ってくる」
「待ちたまえ、少年」
アパートを出る時、黃ちゃんが「これくらいならいいでしょ」と囁いた。
ポニーテールをひっ捕まえられ、軽く素早いキスをされた。
後にも先にもそれ一回だけだ。
その一週間後、彼女は海の向こうの国へ引っ越した。
「うん。かにたま」
「おお。かにたま」
黃ちゃんも覚えているだろうか。
ぼくは、何年経っても褪せない思い出に上手く支えられている。
おいしいかにたまや、お揃いのポニーテールや、木造アパートの居心地、邪魔なくらい大きなベースアンプ、やかましいけれどそんなに悪くはないバイクの音。
ぼくらは、確かにあれくらいで良かったのだろう。
思い出せる光景と、あの匂いや味や音や肌触りに、ぎりぎり及ぶほどの軽い口づけをひとつしただけで。
黃ちゃんはやっぱり正しかった。
あの秋の朝の出来事がぼくみたいな人間にどれほど素敵に残るだろうか、あの人のことだから、考えてみたことはあっただろう。
今のぼくは五十五キロある。
程々で良い。
この質量と体温に近い気持ちで、向こうも生きていてほしい。
今朝の黃ちゃんも、そんな風に思ってくれているかもしれない。
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