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第2章

夏祭りの記憶⑤

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 家の最寄り駅に着くと、どっと疲れがこみあげてきた。今日の成否がわたしにかかっていたことで、気づかないうちに負担を感じていたのかもしれない。あるいは、幸せそうな和田さんの姿に本当にあてられてしまったのかも。
 それから、祭りの雰囲気を少しだけ吸って帰ってきたせいで物足りなさも感じていた。せめて祭りっぽいものを食べて気分をあげてみよう、といつものスーパーに立ち寄る。屋台っぽいものって何だろう。焼きそば、たこ焼き、綿あめ――は難しいかな。
「あっ」
 お馴染みの総菜コーナーへ向かおうとする途中、まるでデジャヴの様な光景に出くわす。肉売り場で田野瀬くんが真剣な表情で吟味をしている。なんか急に日常に帰ってきた気がして思わず吹き出してしまう。
「お疲れ、田野瀬くん」
「あれ、三浦さん? お疲れさま」
 前回と違って迷いなく声をかけると、田野瀬くんからも驚くことなく微笑みが返ってきた。
 そういえば、料理が得意な田野瀬くんなら、屋台っぽいもののいいアイデアを持っているかもしれない。
「あのね、今日は屋台っぽいものを食べたいんだけど、何が一番いいと思う?」
「屋台っぽいもの……?」
「さっき、少しだけお祭りの会場にいて、すっかりその口になっちゃって」
「ああ、なるほど」
 田野瀬くんは笑うと、それから自分の買い物かごを見て、わたしの顔を見るということを2回くらい繰り返す。どうしたのだろう、と思っていると田野瀬くんはわたしに買い物かごの中身を見せる。キャベツににんじん、ピーマン、それから焼きそばの麺。もしやと思って田野瀬くんがさっき見ていただろうところをみると、豚肉が並んでいる。
「今夜は焼きそばの予定だったんだけど、よかったら食べにくる? 屋台っぽい味付けになるように頑張るけど」
 それは悪魔のお誘いだった。身体は疲労と空腹で一瞬で誘いに負けていた。残り僅かな理性が、今日は綾乃もいないし一人で男性の家に行くってどうなのだろうと呼び止める。
「行く」
 理性の呼びかけは空腹の前に2、3秒で崩れ去った。

 田野瀬くんの家に着くと、「疲れてそうだし休んでてよ」と声をかけてもらい、ありがたくその言葉に甘えることにした。田野瀬くんに料理を全部任せるのはどうだろうとも思ったけど、今のわたしがキッチンに立っても足手まといにしかならないと思う。
 田野瀬くんの家に来るのは二回目なのに、今日は色々あったせいかすごい落ち着く。そのままテーブルに突っ伏せたくなるのだけは尊厳を保つために辛うじて我慢した。
「それにしても、三浦さんは面白い経験ばっかりしてるんだね」
 キッチンから田野瀬くんの声。今日起きた出来事は道中で田野瀬くんに話していた。田野瀬くんは愉快そうだけど、わたしだっていつもこんな経験をしているわけじゃない。
「この二週間くらいが特別だっただけだから」
「そうなんだ、てっきり昔からこんな経験ばっかりしてるのかと」
「しーてーまーせーん」
 いよいよ楽しそうに笑い出した田野瀬くんにわたしも釣られる。いつもより田野瀬くんとの距離が近い気がするのは、わたしが疲れているせいだと思うことにする。
 そうこうしているうちに、キッチンの方から何かを炒める食欲をそそる香りと音が伝わってくる。人の身体は現金なもので、それだけでなんだか元気が湧いてくる。
 ああ、そうだ。和田さんとバスに乗っているときに思い浮かびかけたもの。もし、落ち着いた場所でお店を開きたいなら、喫茶カツヌマを案内してみてもいいかもしれない。もちろん、勝沼さんの許可をとってからだけど。
「田野瀬くんはどうなの? なにか面白い話ないの?」
「んー。秘密、かな」
「えー、何それ、ずるいっ」
 田野瀬くんには笑ってかわされてしまう。秘密ということは何かあるのだろうけど、今日は教えてくれなさそうだ。いつか聞き出してみようと心のメモ帳に書き留める。
 そんなことを話している間にも田野瀬くんは忙しそうにキッチンを動き回る。多分、複数の料理を一度に作っているんだと思う。
「それだけ料理ができるんだったら、料理を仕事にしてもよかったんじゃない?」
「あー、学生の時にそれも少し考えたんだけどね。飲食店でバイトしてみて、僕には手が届く範囲の人に料理を作るのでいっぱいいっぱいだなあって」
 飲食店でバイトしてたんだ。手際がいいのも納得だった。
「それで、大人しく修士までいって、普通に就職したんだけどね」
「えっ、田野瀬くんって院卒なの!?」
「これでも工学系だしね、そんなに珍しくもないよ」
 田野瀬くんが理系出身ということも、院卒だということも知らなかった。それなら、同期入社だけど、2つほど田野瀬くんが年上ということになる。それに、DX推進室なんていう理系色の強い部署に配属されているのも納得だった。
「知らなかった……」
「まあ、あえて話すようなことでもないしね。同期もほとんど知らないんじゃないかな……さ、できたよ」
 少し汗をにじませながら、田野瀬くんが出来上がったばかりの料理を持ってくる。焼きそばにたこ焼き、フライドポテトにチキンナゲット。皿ではなくプラスチックパックに盛り付けられていて、屋台っぽさをより一層醸し出している。
「わあ、おいしそう……」
「せっかくだし、もう少し祭りっぽくしてみようか」
 田野瀬くんは冷房を切ると窓を開け、電気の明るさを落とした。窓の外で夜の湾岸の街並みが広がり、地上の星がふわりと浮かび上がる。この場合は、街の灯でできた提灯といった方が雰囲気が出るのかもしれない。
「あと、これは大人だけの楽しみだけど」
 一度キッチンの方に戻ると、田野瀬くんはニコニコと二本の缶ビールを持ってくる。ああ、もう、これは間違いない。
 深めの紙コップにビールを注ぎ、乾杯。一口含むと疲れた体に苦みと炭酸が心地いい。
 それから、焼きそばを一気に口に運ぶ。濃厚なソースの味が溜まらない。濃い目の味わいがまたビールに合う。一日動き回って疲れていた体はそれくらいでは満足いかず、今度はたこ焼きに串を伸ばす。
「あふっ!」
 たこ焼きはフワフワとろとろで、口の中を火傷しそうになる熱ささえもおいしい。口を冷ますようにまたビールが進む。少しずつお腹が満たされてきたことで、疲れが溶けていく気がした。
 フライドポテトとチキンナゲットも味がしっかりしていて、シンプルにケチャップをつけるだけで塩気と甘み、酸味のバランスが絶妙だった。この前のナポリタンのような料理ももちろん美味しいけど、こういうジャンクなものもたまらない。明日からしばらく摂生しなきゃいけないかもだけど。
「何も気にせず茶色一色ってのもたまにはいいね」
 ビールを飲みながら田野瀬くんが笑う。
 ああ、いいなあ、こういうの。少しお酒が回ってきた頭でぼんやりと思い浮かべる。
 こうやっておいしい料理を食べて、お酒を飲んで、のんびりと話す。そうやって過ごせる日々は派手じゃなくても、ささやかな幸せに満ち溢れている気がする――。
「三浦さん、ぼうっとしてるけど、大丈夫?」
 田野瀬くんの言葉で我に返る。自分が何を考えていたか気づいて急に恥ずかしくなってしまい、顔が熱くなった。
「ちょ、ちょっと、酔っちゃったかも」
 あはは、と笑い田野瀬くんが立ち上がる。再びキッチンに向かった田野瀬くんは、お馴染みのチューブタイプのアイス――割ってシェアする例のやつ――を持ってきた。キュッとひねってそれを割ると、片方を渡してくれる。
「酔い覚ましもかねて、童心に帰ってみる?」
「あ、ありがと……」
 アイスの味はレモネードだった。冷たくて甘酸っぱい味が口いっぱいに広がる。濃い目の味を食べてきた口にも、火照ってしまった顔にも嬉しい。
 向かい側ではアイスの片割れを美味しそうに田野瀬くんが食べている。その様子は職場で見たことがない無邪気な雰囲気で、少なくとも年上には見えなかった。
 また暑くなった気がして、ちょっと視線を外して残りのアイスをもにょもにょと食べる。わたしが何に酔ったかは、深く考えないことにした。多分、今日の幸せそうな和田さんと、街の光の提灯による祭りっぽい雰囲気にあてられただけだ。
 きっと、そう。
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