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第3章

顔も思い出せぬあの味をもう一度④

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 数時間に一本のバスには、わたししか乗っていない。それはいつもの風景だった。
 窓から見えるのは途切れることのない緑。山間の細い道を右に左に曲がりながら進んでいく、学生の頃は何もないことにうんざりしていたけど、しばらく帰省していなかったせいか、胸の奥の方で郷愁のような感情がうずく。
 やがてバスが目的の停留所に停まった。停留所といっても、そこは本当にバス停があるだけで、後は二車線の車道が一本走っているだけ。ここからチヒロの家までは歩いて一時間程度。チヒロは迎えに行くと言ってくれたけど、久しぶりに地元の景色を眺めてみようと歩くことにした。
 延々と続きそうな登り坂に向かい合う。よし、と頬をパチンと両手で挟んでから、何もない道を歩き出した。
 右手側には崖崩れ対策のための擁壁がずっと続いていて、左側にはガードレールを挟んで川が流れている。地元の観光資源として清流なんて謳われていて、時期によっては釣り客でにぎわうこともある。夏の暑さのせいか、今日は人の姿は見当たらなかった。
 ほとんど車も通らず、あまり変化のない道を歩いていると、昨日のことをじくじくと思い出す。親しげに話す香織先輩と田野瀬くんの姿。ほんの一月前なら、同じ光景を見てもお似合いだねって笑えたかもしれないのに。
 そんなものを振り払うために首を振る。今日、ここまで来たのは違う理由だ。視界の先に橋が見えてくる。橋をわたらず真っすぐ進むと地元の村に入っていくことができるけど、目的地は橋を渡った先にある。
 橋を渡って山の中に入るように道を進むと、それまでは二車線あった道が一車線半くらいになり、右も左も木々に覆われるようになる。小さく息を吸ってみると、強い緑の香り。ああ、そうだ。子どもの頃はずっとこの世界に囲まれて過ごしてきた。
 バスを降りてから40分ほど歩いて、ようやく目的地が見えてきた。「白桃荘」と看板が掲げられた、閑静な山間に佇む旅館。お盆になると避暑や登山客でにぎわうのだけど、少し時期が早いせいか駐車場の車はまばらだった。
 入口の扉を引くと、カラカラという小気味いい音。
「いらっしゃ……ああ! 彩夏ちゃん! 久しぶりねえ!」
「山中さん、お久しぶりです」
「やだもう、昔みたいにおばちゃんでいいのに! さ、入って入って!」
 受付に立っていたおばちゃ――山中さんは昔から変わらず元気だった。わたしの荷物をサッと手に取ると、受付に案内される。用紙に名前や住所を書いていく様子を、山中さんはなぜだか楽しそうに眺めている。
「もう、ほんとうはお代なんてよかったのに」
「そういうわけにはいきませんって。これでもわたしも社会人ですから」
「はー。こんなに小さかったのに、すっかり大きくなってねえ」
 山中さんは「こんなに」と膝くらいに手を当ててみせる。流石にそんなに小さくはなかったと思うけど、小学生に入った頃から山中さんにはお世話になってきた。今回だって、昨日の夜に急遽お願いして予約を入れさせてもらっていた。
 受付表を書き終えると山中さんが鍵を渡して、部屋まで案内してくれる。一人用の部屋が空いていなかったとのことで、二人用の広い和室を用意してくれていた。本当に一人用の部屋が埋まっているかはちょっと怪しかったけど、そこは何も聞かずに甘えることにした。
「じゃあ、千尋呼ぶわね。狭いところだけどゆっくりしていってね」
「はい、ありがとうございます」
 山中さんを見送って、窓際に備えられた椅子に腰かける。何もない村だけど、長い道のりを上ってきただけあって絶景だった。
 地元に帰ってきたわけだけど、有休をとったわけでもなく一泊だけだったから、実家には帰らずに旅館に泊まることにした。バタバタすることもあるけど、何より、今、両親から結婚の話を出されると平静でいられる気がしない。
「おー、ほんとうに帰ってきてるー」
 ガラッとドアが開き、チヒロが入ってきた。
 この白桃荘はチヒロの両親がやってる旅館で、チヒロもここで働いている。ここまで案内してくれた山中さんがチヒロのお母さんで、ここに住んでいる頃は家が近いこともあっては何かとお世話になっていた。
「なに、疑ってたの?」
「だって、昨日の今日だし。東京から一泊二日で来る距離でもないし」
「……ほんとにね」
 チヒロが言うことはもっともだった。都会から離れたこの村は、思い立って来るような場所でも、慌ただしく行き来する場所でもない。良くも悪くもゆっくりと穏やかな時間が流れる土地だ。
「はい、これ。お土産」
「おー、スゴイ。何か高そー」
 チヒロに渡したのは、昨日田野瀬くんに渡せなかったお菓子の包みだった。自分で食べる気にはなれなかったけど、お菓子に罪はないし、捨ててしまうのはもったいない。
 丁寧にラッピングされた包みに、チヒロは何か言いたそうな顔をしたけど、すぐに無邪気な笑みに切り替わった。
「さて、と。わたしも約束のものも持ってきてるよー」
 チヒロはお土産を一度部屋の隅に置き、廊下に置いていた大きな段ボールを抱えてくる。近寄って中を見ると、小学校の頃の文集やアルバムが所狭しと詰まっていた。
「すごい、よくこれだけ残してあるね」
「土地だけは余ってるからねー。こういうのは全部蔵の奥にしまってたの」
 ということは、昨夜お願いしてから今日までの間にチヒロは蔵から目ぼしい品々を引っ張り出してきてくれたらしい。何も聞かずにそこまでしてくれたチヒロがありがたい。
「じゃ、早速サヤカの王子様の手がかりを探しますかねー。っていっても、名前も覚えてないんだよね」
「うん。わかってるのはわたしが3年生の時に、2つくらい上の学年の男子ってことと、チーズケーキを自分で作ってくるような人」
「難題だー。ま、ゆっくり探そっか」
 うん、と頷いてチヒロが持ってきてくれた段ボールの中から思い出の品々をテーブルの上に広げていく。学校で作った文集だけでなく、チヒロの家のものと思われるアルバムもあった。山間の村の小学校で全校生徒も二桁だったから、学校行事の写真でも結構全校生徒を網羅できていたりする。
 とりあえず、手近にあった3年生の時の文集を手に取る。わたしたちの小学校は山村留学を受け入れていて、1年間だけの同級生が毎年いたから、こうやって文集のような形で記録を残すことが毎年恒例となっていた。
 文集には1年間の思い出を書いた作文や、学校行事の写真が寄せられている。本来の目的を忘れて、つい懐かしさがこみあげてきた。ただ自然に囲まれて、全校生徒が知り合いの様な中で無邪気だった日々。
 しばらく黙って、思い出を浴びながら文集を読んでいく。あの男の子と出会ったのは3年生の3月だから、4年生の時の文集に何か書いているかもとそちらも一通りページを捲ったけど、目ぼしい手掛かりはなかった。
 チヒロの方を見ると、アルバムの写真に魅入っているようだった。探すといっても、ヒントはわたしの記憶しかないから、チヒロが手持無沙汰になるのはしょうがない。こうやって当てもない人探しにつきあってくれるだけでも十分すぎるほどありがたかった。
 4年生の時の文集をそっと段ボールに収めて、次の冊子を手に取る。すっかり埃をかぶったノートだった。
「あっ、こんなのまでとってたんだ」
「ん、なになにー?」
「チヒロとわたしでしばらくやってた交換ノート」
「あ、ほんとだ。懐かしー」
 小学生の頃、友達同士で交換日記をするのが流行っていた。どこの学校でもそうなのか、わたしたちの学校だけなのかはわからないけど、わたしたちの学校はクラス替えもなく同級生のことは知り尽くしていたから、交換日記で誰かとだけ秘密を共有するのが楽しかった思い出がある。
 パラパラとノートをめくっていくと、3年生の3月頃に書いたページが出てくる。3月15日に書かれたチヒロの字に目が留まる。
――女子はみんなサヤカの味方だよ。
 ああ、そうだ。思い出した。あの日、わたしは男子と喧嘩したんだ。何を言われたかまでは思い出せなかったけど、帰り際に言われた言葉がとてもショックで、わたしは泣いたまま帰られなくなってしまった。
――大丈夫。わたしには魔法のチーズケーキがあるから。
 翌日、わたしはチヒロにそう返事をしていた。その言葉に、今目の前に入るチヒロが首をかしげる。
「魔法のチーズケーキ?」
「……うん。あの男の子がそういったんだと思う」
 少しずつ、当時の記憶が蘇ってくる。期待してページをめくると、少しだけ間が空いて、3月下旬にまたやり取りが続いていた。
――よかったの? その5年生の人にありがとうって言わなくて。
――うん。いつかまた会えるって約束したから。
 そのやりとりに、チヒロと目を合わせる。
「2つくらい上って思ってたけど、本当に5年生だった……」
 ようやく、ヒントが出てきた。思い描いていたイメージ通りだけど、それが確実になったというのはわたしにとって大きな一歩だ。
「ねえ、5年生で会えなくなったってことは、その人、山村留学で来てた人じゃないの?」
「あっ!」
 そうだ。ホワイトデーの時期に話して、その後の終業式で留学が終わってしまったとしたら。それが、同じ学校に通っていたのに一度しか話せなかった理由だろうか。
「うーん、今日持ってきた文集とかだと、上の学年で留学で来てた人まではわからないかなー。うん、ちょっと戻って二個上の人にあたってみるね」
「ありがとう。わたしはもう少し何かヒントがないか探してみる」
 チヒロは慌ただしく立ち上がると、部屋を後にした。わたしは机の上に残されたノートや文集を捲る。かつての思い出に浸るうちに霞がかった記憶が、ほんのわずかだけど晴れていくのを感じた。
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