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第3章
顔も思い出せぬあの味をもう一度⑤
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――ありがとう。チーズケーキ、おいしかった。
――うん、元気になってよかった。
――あのね、おにいさん。来年のバレンタインデー。頑張ってお返しするね。
――あー……。それはちょっと難しい、かも。
――えっ? どうして?
――僕は4月が来る前に、帰らなきゃいけないから。
――あっ。そう……なんだ。
――うん。だけど、その気持ちだけで嬉しいよ。
――……いつか。
――うん。
――いつか、ちゃんとお返しするからっ!
――……。
――だから、ね、おにいさん。また、会えるかな?
――うん、会えるよ。
――ほんと?
――さっき、サヤカちゃんが食べたのは、魔法のチーズケーキだからね。
「っ!」
はっと目を覚ます。チヒロが持ってきてくれた文集やアルバムからは、男の子に関するヒントは見つからず、机を片付けると窓際に設けられた椅子から景色を眺めていた。眺めのいいこの場所からは、小学校時代の通学路も見える。そうやって懐かしい景色にひたっているうちに、うたた寝してしまったようだ。
まどろみの中であの日の出来事が、顔も形もない声だけで蘇った。
そうだ、わたしは約束したんだ。また彼に会って、お返しするって。
ふっと息が漏れて、もう一度窓から景色を見る。日が暮れかけて、山が紅に染まる。こうやって久しぶり帰ってくると、あの頃当たり前だったものがとても綺麗だったことに気づく。
「やっほー。サヤカー、開けてー」
そうやって徐々に暗くなる景色を見ていると、チヒロの声と共にドアがノックされた。どうしたんだろう、とドアを開けると、料理の乗ったお膳をもったチヒロが立っていた。
「お夕食持ってきたよー」
「えっ? 今日チヒロ休みでしょ? ごめんね」
「違う違う」
チヒロは笑いながら部屋の中に入ると、流石慣れた様子で夕食の準備を整える。あっという間に二人分の夕食が部屋に並んだ。そう、二人分。
「せっかくだから、わたしもここで食べようと思って」
「ああ。相談する前に実行するの、さすがだわ」
「でしょ。板さんに腕振るってもらったから、早速食べよー」
ニコニコと笑っているチヒロを見ていると、何を言いたかったかもわからなくなった。それに、今夜は一人で食事をするより、この方がずっといい。チヒロは手早く瓶ビールのふたを開け、2つのコップに注いでいく。
「じゃあ、カンパーイ」
「うん、乾杯」
チヒロとグラスを重ねる。一人の時はお酒は飲まないから、いつぶりだろうと考えて、田野瀬くんの部屋で飲んで以来だと気づいた。今は考える事じゃないと、グッとビールと一緒に飲み干す。
おー、という声とともにチヒロがビールを注ぎ足してくれる。チヒロの言う通り山の幸をふんだんに使った料理も絶品だった。ああ、今夜はこのまま何も気にせず飲んでしまおう――。
「うー、そいつはワルイ男だー」
気がついたら、わたしより先にチヒロの方が酔っていた。真っ赤な顔で姿勢をだらしなく崩して、でもビールの入ったコップは手放さない。
「別に、悪い人って感じじゃないよ」
「いや、ワルイ人だよ。思わせぶりに部屋にあげといて、実は付き合ってる人がいましたとか、サイアクだー」
この前電話で漏らしてしまった「いい人」のことをチヒロが聞きたがって、昨日までの田野瀬くんとのことを話したら、チヒロは自分のことのように憤っていた。
こうやって目の前で怒ってくれる人がいると、そこまでじゃないよと思えてくるから不思議だ。夏祭りの日のことだって、本当に料理を振る舞いたかっただけだったんじゃないかと思えてくる。
「むー。サヤカ、ダメ男に引っかかるタイプでしょ」
「なに、突然」
「サヤカは耐性少ないんだから、気を付けないとダメだよー」
うぐっと飲みかけていたビールを噴き出しかける。そういう経験値が低いのは自覚しているから、返す言葉がなかった。
恨みがましさも込めてチヒロを見る。のんびりしているように見えて――あるいは見えるからか、チヒロには折々のタイミングで彼氏がいた。だから、こういった話については頭が上がらない。
「まあ、それは置いといて。ねえ、サヤカ。そのチーズケーキの人に会えたらどうするの?」
急に話題が変わって、チヒロが真面目な顔になっていた。
「んー、わからない」
20年弱前にたった一日話しただけ。わたしがずっと覚えているからといって、相手の人が覚えているかもわからない。確率でいえば、忘れている可能性の方がずっと高いだろう。
もしも覚えていたとしても、20年近い時間はあまりに長い。この前の和田さんたちみたいな奇跡が起こるとは思えなかった。
「とりあえず、お礼を言って、あとは相手次第かな」
「会うのが怖かったりしない?」
もし相手がそんな昔のことを覚えていなかったら。もし、既に幸せな家庭を築いていてわたしが異物でしかなかったら。そう思ってずっと踏み出せないでいたけど、不思議と今はそんな怖さは感じなかった。
「チヒロの言ってた通り、そろそろ綺麗にしないと、前に進めなさそうだから」
どんな結末だったとしても、受け入れて前に進む。そうしないと、いつまでもわたしは同じことを繰り返しそうだから。それに、この思い出を明らかにすることで、田野瀬くんとのこともなり来られそうな気がした。根拠のない勝手な思いだけど。
「それに、チヒロにここまで手伝ってもらって、今更会わないとは言えないよ」
勝沼さんの家を前にした綾乃の立場に今はわたしが立っている。あの日、綾乃は全てを受け入れて勝沼さんの家の中に入っていった。わたしもここでなかったことにはできない。
「サヤカ……。うん、わかった! 知り合いの知り合いで二個上の人につながって、アルバムと文集を送ってもらえることになったから、受け取ったらすぐにサヤカに送るから!」
「ありがと、チヒロ」
チヒロと再び乾杯する。そうやっていつ寝たかもわからないくらい飲み明かしているうちに、いつの間にかモヤモヤとした気持ちは溶け出していた。
――うん、元気になってよかった。
――あのね、おにいさん。来年のバレンタインデー。頑張ってお返しするね。
――あー……。それはちょっと難しい、かも。
――えっ? どうして?
――僕は4月が来る前に、帰らなきゃいけないから。
――あっ。そう……なんだ。
――うん。だけど、その気持ちだけで嬉しいよ。
――……いつか。
――うん。
――いつか、ちゃんとお返しするからっ!
――……。
――だから、ね、おにいさん。また、会えるかな?
――うん、会えるよ。
――ほんと?
――さっき、サヤカちゃんが食べたのは、魔法のチーズケーキだからね。
「っ!」
はっと目を覚ます。チヒロが持ってきてくれた文集やアルバムからは、男の子に関するヒントは見つからず、机を片付けると窓際に設けられた椅子から景色を眺めていた。眺めのいいこの場所からは、小学校時代の通学路も見える。そうやって懐かしい景色にひたっているうちに、うたた寝してしまったようだ。
まどろみの中であの日の出来事が、顔も形もない声だけで蘇った。
そうだ、わたしは約束したんだ。また彼に会って、お返しするって。
ふっと息が漏れて、もう一度窓から景色を見る。日が暮れかけて、山が紅に染まる。こうやって久しぶり帰ってくると、あの頃当たり前だったものがとても綺麗だったことに気づく。
「やっほー。サヤカー、開けてー」
そうやって徐々に暗くなる景色を見ていると、チヒロの声と共にドアがノックされた。どうしたんだろう、とドアを開けると、料理の乗ったお膳をもったチヒロが立っていた。
「お夕食持ってきたよー」
「えっ? 今日チヒロ休みでしょ? ごめんね」
「違う違う」
チヒロは笑いながら部屋の中に入ると、流石慣れた様子で夕食の準備を整える。あっという間に二人分の夕食が部屋に並んだ。そう、二人分。
「せっかくだから、わたしもここで食べようと思って」
「ああ。相談する前に実行するの、さすがだわ」
「でしょ。板さんに腕振るってもらったから、早速食べよー」
ニコニコと笑っているチヒロを見ていると、何を言いたかったかもわからなくなった。それに、今夜は一人で食事をするより、この方がずっといい。チヒロは手早く瓶ビールのふたを開け、2つのコップに注いでいく。
「じゃあ、カンパーイ」
「うん、乾杯」
チヒロとグラスを重ねる。一人の時はお酒は飲まないから、いつぶりだろうと考えて、田野瀬くんの部屋で飲んで以来だと気づいた。今は考える事じゃないと、グッとビールと一緒に飲み干す。
おー、という声とともにチヒロがビールを注ぎ足してくれる。チヒロの言う通り山の幸をふんだんに使った料理も絶品だった。ああ、今夜はこのまま何も気にせず飲んでしまおう――。
「うー、そいつはワルイ男だー」
気がついたら、わたしより先にチヒロの方が酔っていた。真っ赤な顔で姿勢をだらしなく崩して、でもビールの入ったコップは手放さない。
「別に、悪い人って感じじゃないよ」
「いや、ワルイ人だよ。思わせぶりに部屋にあげといて、実は付き合ってる人がいましたとか、サイアクだー」
この前電話で漏らしてしまった「いい人」のことをチヒロが聞きたがって、昨日までの田野瀬くんとのことを話したら、チヒロは自分のことのように憤っていた。
こうやって目の前で怒ってくれる人がいると、そこまでじゃないよと思えてくるから不思議だ。夏祭りの日のことだって、本当に料理を振る舞いたかっただけだったんじゃないかと思えてくる。
「むー。サヤカ、ダメ男に引っかかるタイプでしょ」
「なに、突然」
「サヤカは耐性少ないんだから、気を付けないとダメだよー」
うぐっと飲みかけていたビールを噴き出しかける。そういう経験値が低いのは自覚しているから、返す言葉がなかった。
恨みがましさも込めてチヒロを見る。のんびりしているように見えて――あるいは見えるからか、チヒロには折々のタイミングで彼氏がいた。だから、こういった話については頭が上がらない。
「まあ、それは置いといて。ねえ、サヤカ。そのチーズケーキの人に会えたらどうするの?」
急に話題が変わって、チヒロが真面目な顔になっていた。
「んー、わからない」
20年弱前にたった一日話しただけ。わたしがずっと覚えているからといって、相手の人が覚えているかもわからない。確率でいえば、忘れている可能性の方がずっと高いだろう。
もしも覚えていたとしても、20年近い時間はあまりに長い。この前の和田さんたちみたいな奇跡が起こるとは思えなかった。
「とりあえず、お礼を言って、あとは相手次第かな」
「会うのが怖かったりしない?」
もし相手がそんな昔のことを覚えていなかったら。もし、既に幸せな家庭を築いていてわたしが異物でしかなかったら。そう思ってずっと踏み出せないでいたけど、不思議と今はそんな怖さは感じなかった。
「チヒロの言ってた通り、そろそろ綺麗にしないと、前に進めなさそうだから」
どんな結末だったとしても、受け入れて前に進む。そうしないと、いつまでもわたしは同じことを繰り返しそうだから。それに、この思い出を明らかにすることで、田野瀬くんとのこともなり来られそうな気がした。根拠のない勝手な思いだけど。
「それに、チヒロにここまで手伝ってもらって、今更会わないとは言えないよ」
勝沼さんの家を前にした綾乃の立場に今はわたしが立っている。あの日、綾乃は全てを受け入れて勝沼さんの家の中に入っていった。わたしもここでなかったことにはできない。
「サヤカ……。うん、わかった! 知り合いの知り合いで二個上の人につながって、アルバムと文集を送ってもらえることになったから、受け取ったらすぐにサヤカに送るから!」
「ありがと、チヒロ」
チヒロと再び乾杯する。そうやっていつ寝たかもわからないくらい飲み明かしているうちに、いつの間にかモヤモヤとした気持ちは溶け出していた。
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