16 / 17
第3章
顔も思い出せぬあの味をもう一度⑥
しおりを挟む
翌日、二日酔いで痛む頭を誤魔化しながら、どうにか家に帰りついた。帰りのバスも電車もずっと寝ていたのに、まだ頭はスッキリしない。わたしよりも深酒して先に寝落ちしていたはずのチヒロが朝にはぴんぴんしてたのは、日頃の鍛え方が違うのか。
そんなことを考えていると、ちょうどチヒロから電話がかかってくる。ちょっと待ってねと口ずさみながら、リビングに荷物を下ろしてスマホをとる。
「お疲れー。もう家着いたー?」
チヒロの声は二日酔いの頭に響くほど明るい。
「ちょうど今着いたとこ」
「わー、昼過ぎには出たのに。やっぱり移動大変だー」
窓から外を見ると、既に日が暮れかけている。直線距離ではそう離れていないのに、乗り継ぎなどでかかる時間が長かった。
「無事帰りつけたかの確認?」
「んー、違うよー。昨日言ってた二個上の人が文集見つかったからもうすぐ送ってくれるって連絡が来たから、そのお知らせ」
「ホント!?」
チヒロの言葉で、お酒によってどんよりとしていた頭が、目が覚めたように澄み渡る。
「それでね、2個上の人が5年生の時にいた山村留学生は『碧』って人らしいんだけど、その人が一時期やってたっていうブログを先に教えてもらったから、アドレス送るね」
電話をしながらノートパソコンを起動させ、連動させているSNSアプリを立ち上げる。チヒロから送られてきたURLをクリックすると、中学生くらいの時に流行っていたようなレイアウトのブログが開いた。
――アオイ・ロロの呟き場
ブログのタイトルを見て、息が詰まる。アオイ・ロロ、小さな声で読み上げる。一文字違いでしかない碧海ロロと別人とは思えなかった。
もしかして、ロロがあのチーズケーキの男の子なのだろうか。マウスを持つ手が震える。15年弱前に更新が止まっている。わたしの2個上の人なら、中学2年生くらいの頃だろうか。
「それでね、3月14日の記事、見てみて」
言われた通りに3月14日の記事を探す。その日の記事のタイトルは「魔法」と書かれていた。
――あの日から、いつもこの時期はチーズケーキを作ってしまう。思い出の山道。
記事に書かれていたのはその一行だけ。でも、「魔法」という言葉と「チーズケーキ」という言葉が期待を高めるのに十分だった。やっぱり、あの男の子が、今のロロなのだろうか。不思議なつながりに胸が高鳴る。
「あ、文集のデータが来た。こっちも送るね」
チヒロの声とともにパソコンの画面に通知が来る。心臓がバクバクとうるさい。深呼吸をしても息が苦しい。震えたままの手で、送られてきた写真を開く。
それは、卒業アルバムのように写真と名前が並んだページを撮影したものだった。祈るような気持ちで碧という名前を探す。
「――嘘……」
碧という名前が見つかった。写真の顔を見て、フラッシュバックするようにあの日の景色が鮮やかな色彩を持って蘇る。
そうだ、そうだった。なんで今まで思い出せなかったんだろう。
ずっと思い出したかった。
けれど、思い出した記憶がこんなに辛いなんて。
「あれ、サヤカ、大丈夫?」
「ごめん。わたし、行かなきゃ」
「え、ちょっと、サヤ――」
慌てたチヒロの声を最後まで聞かず、通話を切る。そのままスマホだけを握りしめて、わたしは家を飛び出した。
陽が沈み、暗くなっていく街を無我夢中で走り抜ける。
色々な想いが浮かんでは消えて、ぎゅっと湧き上がる切なさを握りしめる。10分以上走っていたはずなのに、目的の場所に着いたときには途中どうやって走ってきたか覚えていなかった。
建物のエントランスをちょうど中に入る人の後について潜り抜ける。エレベーターに乗ってその部屋が近づくにつれ、息が荒く胸の鼓動がうるさくなるのは、走ってきたせいだけじゃない。
七階で降りて、とある部屋の前に立つ。ここに来るのはこれで3回目。ここまできて逃げ帰りたくなるのを我慢して、インターホンを鳴らす。
「――はい」
「突然ごめん。三浦です」
ガチャリとドアが開く。
驚いた顔の田野瀬くんがそこに立っていた。
「……どうしたの?」
田野瀬くんに一歩詰め寄る。
「ねえ、田野瀬くんが、ロロなの?」
元々驚いていた田野瀬くんが、更に目を見開く。それが、答えだった。
「ここで話すのもなんだし、あがる?」
香織先輩の顔が思い浮かんで、一瞬答えに戸惑う。けれど、どうしても今聞きたいことがたくさんあった。ゆっくりと頷いて、田野瀬くんの後に続いて部屋に入る。
夏祭りの日と同じようにすすめられるままテーブル越しの田野瀬くんの正面に座る。田野瀬くんはまるで知らない部屋に来たように視線を彷徨わせて、しばらく迷うように口を開いては閉じてを繰り返した。
やがて、覚悟を決めたようにわたしをまっすぐ見据える。
「どうして、気づいたの?」
スマホにアオイ・ロロのブログのページ――3月14日の記事――を開いて、田野瀬くんに見せる。またも田野瀬くんは小さく目を見開いた。
「これがどうして僕のブログだと?」
スマホに文集の写真を映す。そこに写るのは、「田野瀬 碧」という名前と田野瀬くんの面影がある少年の写真だった。名前を知らなかったわけじゃないけど、下の名前を意識する機会なんてほとんどなかったから、碧と聞いただけじゃピンと来なかったのだけど。
田野瀬碧が中学生の頃に書いていたブログ。そのハンドルネームはアオイ・ロロ。
「ああ、やっぱり中二病時代のブログなんて、ちゃんと削除しておかなきゃだめだなあ」
田野瀬くんが苦笑しながら認める。
それなら、田野瀬くんがブログに書かれていたチーズケーキの記事は。
「じゃあ、田野瀬くんが……」
田野瀬くんがふっと微笑む。わたしはその笑顔をよく知っている。同期として会社に入る前から、ずっと知っていた。
「……久しぶりだね、サヤカちゃん」
ずっと手が届くところにいたはずなのに、どうして気づかなかったのだろう。
ずっと探していたはずなのに、何で思い出すことができなかったのだろう。
ずっと会いたかったはずなのに、こんなに胸が痛いのは何でだろう。
「わたしのこと、気づいてたの?」
「入社式で気づいた時は、奇跡だと思った。柄にもなく、運命ってあるんだなって」
「なら、どうして。どうして、教えてくれなかったの?」
すっと田野瀬くんが視線を逸らす。
「三浦さんは僕のこと気づいてなさそうだったから、あの時のこと忘れてるのかなって」
田野瀬くんの言葉に何も返せない。わたしがあの男の子を本気で探す踏ん切りがつかなかったのも同じ理由だから。それに、田野瀬くんはわたしに気づいたのに、わたしは田野瀬くんに気づけなかった。
「入社式で知らない相手から『覚えてる?』とか言われたら引くでしょ。それに、もし思い出してくれたとしても、20年くらい前に一度だけ話したことを覚えてるのも、どうなのって思われるかもしれないし――」
「……ずっと! ずっと、思い出したかった!」
思わず、田野瀬くんの言葉を遮る。
「あの日のこと、忘れたことはなかったのに。わたしにチーズケーキをくれた男の子のことがずっと思い出せなくて……。わたしから、約束したのに」
田野瀬くんの手が伸びてくる。それから、少しためらうように、頭の上に手が乗せられる。
「でも、三浦さんは思い出してくれた」
その優しい声に、あの日に帰ったような気がした。会えるよ、と笑う田野瀬くんの姿が蘇る。
それと同時に、また胸の奥の方がズキリとうずく。次の瞬間、わたしは田野瀬くんの手を振り払うように立ち上がっていた。
「今日は突然ごめん。じゃっ、じゃあ……もう帰るね」
「……えっ?」
「えっと、ほら、香織先輩に悪いし」
「え。なんで、樺澤先輩?」
キョトンとした顔の田野瀬くん。その表情が演技かどうか、判断に迷う。
「この前。職場で二人が仲良く話しているとこ見ちゃって」
「あっ……」
田野瀬くんが困ったように頬をかいて、また視線を彷徨わせる。
ズキズキとした感情が大きくなっていって、やっと会えた喜びを押し隠していく。
「まあ、樺澤先輩は一応、パートナーといえばパートナーというか……」
田野瀬くんの視線はまだ落ち着かない。その言葉も仕草も一つずつが突き刺さるように吹き寄せる。
「樺澤先輩って大学時代の先輩で、頭上がらなくてさ」
「うん」
「それに、ロロの生みの親って先輩みたいなとこあるから。いよいよ逆らえなくて」
「……うん?」
なんか、話の方向性が思っていたのと違う。
「この前も、ロロのアバターをしっかりした3Dにするって言いだして……」
「え、ちょ、ちょっと待って。香織先輩とロロが結びつかないんだけど」
わたしの言葉に対して、田野瀬くんは不思議そうに首を傾げた。
「僕らが入社してから3年くらいかな、樺澤先輩が担当したお客さんがアバター制作のビジネスやってて、軌道に乗ったお礼に先輩にアバターをプレゼントしたらしくてね。そしたら先輩、面白がって僕にアバター使って配信やれとか言い出して」
田野瀬くんが困ったように笑う。
「1か月だけって約束だったけど、やってみたら意外に面白くて、それに、チャンネル登録してくれる人もいて、それならちゃんとやってみようかなって。で、先輩としてはここらでアバターをグレードアップすることで、お客さんへのアフターサービスになるし、ロロの人気が増えればいいしって考えたらしくて。スゴイいい笑顔で盛り上がってたけど、機材用意するのは僕なんだけどなあ」
「つまり、パートナーっていうのは……」
「ビジネスパートナー的な感じの。プライベートで親密になるには、僕は先輩に弱みを握られすぎてるし……」
田野瀬くんの顔が困ったような笑みから、本当に困った子犬みたいになってしまう。田野瀬くんがいう先輩は、わたしの知ってる香織先輩と同一人物には思えなかったけど、でも、微かにお客さんから評判の先輩の片鱗もにじませている。
急に肩の力が抜けて、さっきまで座っていた椅子にそのままへたり込む。夏祭りの時は我慢したけど、今回は我慢できずにテーブルに突っ伏す。スゴイ安心して、顔が笑っているのはわかるのに、わたしは泣いていた。張りつめていたものが解き放たれたみたいにポロポロと溢れてくる。
だめ、こんな顔は田野瀬くんに見せられない。ぎゅっと目を閉じて涙を抑えて、目元を拭って顔を上げる。
「あー。なんか、ホッとしたらお腹減ってきちゃった」
とっさに出てきた言葉に、田野瀬くんが迷わず吹き出した。でも、次の瞬間には意を得たりといった様子でキッチンに向かってくれる。
深く考えた言葉じゃないけど、本当にお腹は減っていた。考えれば、二日酔いで食欲がわかなくて、朝も昼も軽く摂っただけだったし、色々考えることが多すぎた。
「ちょうど下ごしらえは終わったところだったし、せっかくだから食べてく?」
「やった。今日の晩御飯は?」
「勝沼さんのレシピのハンバーグが美味しそうだったから、それをちょっとアレンジしたやつ。余ったのを明日の弁当に入れようと思ってたから、二人分あるよ」
ビニール手袋を身に着けた田野瀬くんが冷蔵庫から取り出したのはハンバーグのタネが入ってると思しきボウル。ああ、それは絶対に美味しい。
「あれ、でも、そしたら明日のお弁当のおかずが……」
「まあ、たまには職場の1階に食べに行ってもいいかな」
何となく、田野瀬くんを連れてLala’s Kitichenにいってみようかなと思った。もしかしたら、和田さんが作った料理を食べられるかもしれない。和田さんのことはこの前田野瀬くんにも話しているし――と、そこで気づいた。
「あれ、そうだ。喫茶カツヌマってことは……」
「ん、どうかした。yoshimuraさん?」
キッチンから聞こえてきた含みのある声にガクンとうなだれる。そりゃバレるに決まってる。喫茶カツヌマの場所の相談をしたすぐ後に、そのお店のレシピを持ち込んでいるんだから。和田さんの話だって、田野瀬くんは最初から全て知っていたことになる。
それに、和田さんの相談を聞いた時に香織先輩が喫茶カツヌマでのことを知っていたのも、綾乃からの情報じゃなくてロロ経由だったのかもしれない。
「教えてくれてもよかったじゃん……」
思わずさっきと同じことを言ってしまうと、キッチンから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「さすがに、自分からVtuberですと名乗るのはハードル高いかなあ」
それはそうだけど。危うく私はロロにチーズケーキのことについて相談するところだった。それもこれも、田野瀬くんがロロで、チーズケーキの男の子だったことが悪い。
そう思うと、八つ当たり気味ないたずら心が湧き上がってきた。
キッチンからはハンバーグが焼ける音とともに食欲をそそる香りが漂ってくる。
「ねえ、おにいさん。そのハンバーグには魔法はかかってるの?」
あの日と同じように呼びかけてみる。
「まさか。これに魔法はかけられないよ」
ビニール手袋を外しながらリビングに戻ってきた田野瀬くんは、そう言ってニッと笑った。
「チーズケーキの魔法、お返しをもらうまで解けないからね」
チーズケーキにナポリタン。ポトフに焼きそば、それからハンバーグ。今後のバレンタインデーは大変そうだった。
ああ、でも、あのチーズケーキもまた食べてみたい。口の中に滑らかな甘みがほのかに浮かぶ。バレンタインデーを頑張ったら、ホワイトデーはまたチーズケーキを作ってもらおう。あの頃の、素朴なやつを。
「むう、しょうがない。覚悟しててね」
「うん。楽しみにしてる」
その笑顔をぎゅっと心に抱え込む。
もう二度と忘れることがないように。
そんなことを考えていると、ちょうどチヒロから電話がかかってくる。ちょっと待ってねと口ずさみながら、リビングに荷物を下ろしてスマホをとる。
「お疲れー。もう家着いたー?」
チヒロの声は二日酔いの頭に響くほど明るい。
「ちょうど今着いたとこ」
「わー、昼過ぎには出たのに。やっぱり移動大変だー」
窓から外を見ると、既に日が暮れかけている。直線距離ではそう離れていないのに、乗り継ぎなどでかかる時間が長かった。
「無事帰りつけたかの確認?」
「んー、違うよー。昨日言ってた二個上の人が文集見つかったからもうすぐ送ってくれるって連絡が来たから、そのお知らせ」
「ホント!?」
チヒロの言葉で、お酒によってどんよりとしていた頭が、目が覚めたように澄み渡る。
「それでね、2個上の人が5年生の時にいた山村留学生は『碧』って人らしいんだけど、その人が一時期やってたっていうブログを先に教えてもらったから、アドレス送るね」
電話をしながらノートパソコンを起動させ、連動させているSNSアプリを立ち上げる。チヒロから送られてきたURLをクリックすると、中学生くらいの時に流行っていたようなレイアウトのブログが開いた。
――アオイ・ロロの呟き場
ブログのタイトルを見て、息が詰まる。アオイ・ロロ、小さな声で読み上げる。一文字違いでしかない碧海ロロと別人とは思えなかった。
もしかして、ロロがあのチーズケーキの男の子なのだろうか。マウスを持つ手が震える。15年弱前に更新が止まっている。わたしの2個上の人なら、中学2年生くらいの頃だろうか。
「それでね、3月14日の記事、見てみて」
言われた通りに3月14日の記事を探す。その日の記事のタイトルは「魔法」と書かれていた。
――あの日から、いつもこの時期はチーズケーキを作ってしまう。思い出の山道。
記事に書かれていたのはその一行だけ。でも、「魔法」という言葉と「チーズケーキ」という言葉が期待を高めるのに十分だった。やっぱり、あの男の子が、今のロロなのだろうか。不思議なつながりに胸が高鳴る。
「あ、文集のデータが来た。こっちも送るね」
チヒロの声とともにパソコンの画面に通知が来る。心臓がバクバクとうるさい。深呼吸をしても息が苦しい。震えたままの手で、送られてきた写真を開く。
それは、卒業アルバムのように写真と名前が並んだページを撮影したものだった。祈るような気持ちで碧という名前を探す。
「――嘘……」
碧という名前が見つかった。写真の顔を見て、フラッシュバックするようにあの日の景色が鮮やかな色彩を持って蘇る。
そうだ、そうだった。なんで今まで思い出せなかったんだろう。
ずっと思い出したかった。
けれど、思い出した記憶がこんなに辛いなんて。
「あれ、サヤカ、大丈夫?」
「ごめん。わたし、行かなきゃ」
「え、ちょっと、サヤ――」
慌てたチヒロの声を最後まで聞かず、通話を切る。そのままスマホだけを握りしめて、わたしは家を飛び出した。
陽が沈み、暗くなっていく街を無我夢中で走り抜ける。
色々な想いが浮かんでは消えて、ぎゅっと湧き上がる切なさを握りしめる。10分以上走っていたはずなのに、目的の場所に着いたときには途中どうやって走ってきたか覚えていなかった。
建物のエントランスをちょうど中に入る人の後について潜り抜ける。エレベーターに乗ってその部屋が近づくにつれ、息が荒く胸の鼓動がうるさくなるのは、走ってきたせいだけじゃない。
七階で降りて、とある部屋の前に立つ。ここに来るのはこれで3回目。ここまできて逃げ帰りたくなるのを我慢して、インターホンを鳴らす。
「――はい」
「突然ごめん。三浦です」
ガチャリとドアが開く。
驚いた顔の田野瀬くんがそこに立っていた。
「……どうしたの?」
田野瀬くんに一歩詰め寄る。
「ねえ、田野瀬くんが、ロロなの?」
元々驚いていた田野瀬くんが、更に目を見開く。それが、答えだった。
「ここで話すのもなんだし、あがる?」
香織先輩の顔が思い浮かんで、一瞬答えに戸惑う。けれど、どうしても今聞きたいことがたくさんあった。ゆっくりと頷いて、田野瀬くんの後に続いて部屋に入る。
夏祭りの日と同じようにすすめられるままテーブル越しの田野瀬くんの正面に座る。田野瀬くんはまるで知らない部屋に来たように視線を彷徨わせて、しばらく迷うように口を開いては閉じてを繰り返した。
やがて、覚悟を決めたようにわたしをまっすぐ見据える。
「どうして、気づいたの?」
スマホにアオイ・ロロのブログのページ――3月14日の記事――を開いて、田野瀬くんに見せる。またも田野瀬くんは小さく目を見開いた。
「これがどうして僕のブログだと?」
スマホに文集の写真を映す。そこに写るのは、「田野瀬 碧」という名前と田野瀬くんの面影がある少年の写真だった。名前を知らなかったわけじゃないけど、下の名前を意識する機会なんてほとんどなかったから、碧と聞いただけじゃピンと来なかったのだけど。
田野瀬碧が中学生の頃に書いていたブログ。そのハンドルネームはアオイ・ロロ。
「ああ、やっぱり中二病時代のブログなんて、ちゃんと削除しておかなきゃだめだなあ」
田野瀬くんが苦笑しながら認める。
それなら、田野瀬くんがブログに書かれていたチーズケーキの記事は。
「じゃあ、田野瀬くんが……」
田野瀬くんがふっと微笑む。わたしはその笑顔をよく知っている。同期として会社に入る前から、ずっと知っていた。
「……久しぶりだね、サヤカちゃん」
ずっと手が届くところにいたはずなのに、どうして気づかなかったのだろう。
ずっと探していたはずなのに、何で思い出すことができなかったのだろう。
ずっと会いたかったはずなのに、こんなに胸が痛いのは何でだろう。
「わたしのこと、気づいてたの?」
「入社式で気づいた時は、奇跡だと思った。柄にもなく、運命ってあるんだなって」
「なら、どうして。どうして、教えてくれなかったの?」
すっと田野瀬くんが視線を逸らす。
「三浦さんは僕のこと気づいてなさそうだったから、あの時のこと忘れてるのかなって」
田野瀬くんの言葉に何も返せない。わたしがあの男の子を本気で探す踏ん切りがつかなかったのも同じ理由だから。それに、田野瀬くんはわたしに気づいたのに、わたしは田野瀬くんに気づけなかった。
「入社式で知らない相手から『覚えてる?』とか言われたら引くでしょ。それに、もし思い出してくれたとしても、20年くらい前に一度だけ話したことを覚えてるのも、どうなのって思われるかもしれないし――」
「……ずっと! ずっと、思い出したかった!」
思わず、田野瀬くんの言葉を遮る。
「あの日のこと、忘れたことはなかったのに。わたしにチーズケーキをくれた男の子のことがずっと思い出せなくて……。わたしから、約束したのに」
田野瀬くんの手が伸びてくる。それから、少しためらうように、頭の上に手が乗せられる。
「でも、三浦さんは思い出してくれた」
その優しい声に、あの日に帰ったような気がした。会えるよ、と笑う田野瀬くんの姿が蘇る。
それと同時に、また胸の奥の方がズキリとうずく。次の瞬間、わたしは田野瀬くんの手を振り払うように立ち上がっていた。
「今日は突然ごめん。じゃっ、じゃあ……もう帰るね」
「……えっ?」
「えっと、ほら、香織先輩に悪いし」
「え。なんで、樺澤先輩?」
キョトンとした顔の田野瀬くん。その表情が演技かどうか、判断に迷う。
「この前。職場で二人が仲良く話しているとこ見ちゃって」
「あっ……」
田野瀬くんが困ったように頬をかいて、また視線を彷徨わせる。
ズキズキとした感情が大きくなっていって、やっと会えた喜びを押し隠していく。
「まあ、樺澤先輩は一応、パートナーといえばパートナーというか……」
田野瀬くんの視線はまだ落ち着かない。その言葉も仕草も一つずつが突き刺さるように吹き寄せる。
「樺澤先輩って大学時代の先輩で、頭上がらなくてさ」
「うん」
「それに、ロロの生みの親って先輩みたいなとこあるから。いよいよ逆らえなくて」
「……うん?」
なんか、話の方向性が思っていたのと違う。
「この前も、ロロのアバターをしっかりした3Dにするって言いだして……」
「え、ちょ、ちょっと待って。香織先輩とロロが結びつかないんだけど」
わたしの言葉に対して、田野瀬くんは不思議そうに首を傾げた。
「僕らが入社してから3年くらいかな、樺澤先輩が担当したお客さんがアバター制作のビジネスやってて、軌道に乗ったお礼に先輩にアバターをプレゼントしたらしくてね。そしたら先輩、面白がって僕にアバター使って配信やれとか言い出して」
田野瀬くんが困ったように笑う。
「1か月だけって約束だったけど、やってみたら意外に面白くて、それに、チャンネル登録してくれる人もいて、それならちゃんとやってみようかなって。で、先輩としてはここらでアバターをグレードアップすることで、お客さんへのアフターサービスになるし、ロロの人気が増えればいいしって考えたらしくて。スゴイいい笑顔で盛り上がってたけど、機材用意するのは僕なんだけどなあ」
「つまり、パートナーっていうのは……」
「ビジネスパートナー的な感じの。プライベートで親密になるには、僕は先輩に弱みを握られすぎてるし……」
田野瀬くんの顔が困ったような笑みから、本当に困った子犬みたいになってしまう。田野瀬くんがいう先輩は、わたしの知ってる香織先輩と同一人物には思えなかったけど、でも、微かにお客さんから評判の先輩の片鱗もにじませている。
急に肩の力が抜けて、さっきまで座っていた椅子にそのままへたり込む。夏祭りの時は我慢したけど、今回は我慢できずにテーブルに突っ伏す。スゴイ安心して、顔が笑っているのはわかるのに、わたしは泣いていた。張りつめていたものが解き放たれたみたいにポロポロと溢れてくる。
だめ、こんな顔は田野瀬くんに見せられない。ぎゅっと目を閉じて涙を抑えて、目元を拭って顔を上げる。
「あー。なんか、ホッとしたらお腹減ってきちゃった」
とっさに出てきた言葉に、田野瀬くんが迷わず吹き出した。でも、次の瞬間には意を得たりといった様子でキッチンに向かってくれる。
深く考えた言葉じゃないけど、本当にお腹は減っていた。考えれば、二日酔いで食欲がわかなくて、朝も昼も軽く摂っただけだったし、色々考えることが多すぎた。
「ちょうど下ごしらえは終わったところだったし、せっかくだから食べてく?」
「やった。今日の晩御飯は?」
「勝沼さんのレシピのハンバーグが美味しそうだったから、それをちょっとアレンジしたやつ。余ったのを明日の弁当に入れようと思ってたから、二人分あるよ」
ビニール手袋を身に着けた田野瀬くんが冷蔵庫から取り出したのはハンバーグのタネが入ってると思しきボウル。ああ、それは絶対に美味しい。
「あれ、でも、そしたら明日のお弁当のおかずが……」
「まあ、たまには職場の1階に食べに行ってもいいかな」
何となく、田野瀬くんを連れてLala’s Kitichenにいってみようかなと思った。もしかしたら、和田さんが作った料理を食べられるかもしれない。和田さんのことはこの前田野瀬くんにも話しているし――と、そこで気づいた。
「あれ、そうだ。喫茶カツヌマってことは……」
「ん、どうかした。yoshimuraさん?」
キッチンから聞こえてきた含みのある声にガクンとうなだれる。そりゃバレるに決まってる。喫茶カツヌマの場所の相談をしたすぐ後に、そのお店のレシピを持ち込んでいるんだから。和田さんの話だって、田野瀬くんは最初から全て知っていたことになる。
それに、和田さんの相談を聞いた時に香織先輩が喫茶カツヌマでのことを知っていたのも、綾乃からの情報じゃなくてロロ経由だったのかもしれない。
「教えてくれてもよかったじゃん……」
思わずさっきと同じことを言ってしまうと、キッチンから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「さすがに、自分からVtuberですと名乗るのはハードル高いかなあ」
それはそうだけど。危うく私はロロにチーズケーキのことについて相談するところだった。それもこれも、田野瀬くんがロロで、チーズケーキの男の子だったことが悪い。
そう思うと、八つ当たり気味ないたずら心が湧き上がってきた。
キッチンからはハンバーグが焼ける音とともに食欲をそそる香りが漂ってくる。
「ねえ、おにいさん。そのハンバーグには魔法はかかってるの?」
あの日と同じように呼びかけてみる。
「まさか。これに魔法はかけられないよ」
ビニール手袋を外しながらリビングに戻ってきた田野瀬くんは、そう言ってニッと笑った。
「チーズケーキの魔法、お返しをもらうまで解けないからね」
チーズケーキにナポリタン。ポトフに焼きそば、それからハンバーグ。今後のバレンタインデーは大変そうだった。
ああ、でも、あのチーズケーキもまた食べてみたい。口の中に滑らかな甘みがほのかに浮かぶ。バレンタインデーを頑張ったら、ホワイトデーはまたチーズケーキを作ってもらおう。あの頃の、素朴なやつを。
「むう、しょうがない。覚悟しててね」
「うん。楽しみにしてる」
その笑顔をぎゅっと心に抱え込む。
もう二度と忘れることがないように。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
“熟年恋愛”物語
山田森湖
恋愛
妻を亡くし、独りで過ごす日々に慣れつつあった 圭介(56)。
子育てを終え、長く封じ込めていた“自分の時間”をようやく取り戻した 佳奈美(54)。
どちらも、恋を求めていたわけではない。
ただ——「誰かと話したい」「同じ時間を共有したい」、
そんな小さな願いが胸に生まれた夜。
ふたりは、50代以上限定の交流イベント“シングルナイト”で出会う。
最初の一言は、たった「こんばんは」。
それだけなのに、どこか懐かしいような安心感が、お互いの心に灯った。
週末の夜に交わした小さな会話は、
やがて食事の誘いへ、
そして“誰にも言えない本音”を語り合える関係へと変わっていく。
過去の傷、家族の距離、仕事を終えた後の空虚——
人生の後半戦だからこそ抱える孤独や不安を共有しながら、
ふたりはゆっくりと心の距離を縮めていく。
恋に臆病になった大人たちが、
無理をせず、飾らず、素のままの自分で惹かれ合う——
そんな“優しい恋”の物語。
もう恋なんてしないと思っていた。
でも、あの夜、確かに何かが始まった。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
壊れていく音を聞きながら
夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。
妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪
何気ない日常のひと幕が、
思いもよらない“ひび”を生んでいく。
母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。
誰も気づきがないまま、
家族のかたちが静かに崩れていく――。
壊れていく音を聞きながら、
それでも誰かを思うことはできるのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる