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第3話 完璧な星回りと、遠のくスローライフ
しおりを挟む「明後日の十五時。それ以外でのサインはお受けできません!」
豪華な商館の一室に、アイリス・クラークの凛とした声が響き渡った。
向かいに座る悪徳商人、ゴードンの顔が怒りで赤黒く染まる。
「小娘が……。大口の取引先である我々に逆らって、ただで済むと思っているのか!」
ゴードンが机を叩き割らんばかりの勢いで立ち上がった。
背後の護衛たちが一歩前に出ただけで、室内の空気がヒリヒリと張り詰める。
アイリスの膝の上で、両手が微かに震えていた。
今ここで彼を怒らせれば、クラーク商会は致命的な打撃を受ける。
周囲の側近たちも「会長、ここはひとまずサインを」と小声で急かしてきた。
それでも、彼女の決意は揺らがなかった。
胸元に忍ばせた、金貨一枚で買った『星の護符』。
あの不思議な占い師がくれた紙切れが、燃えるような熱を持って彼女の背中を押している気がしたのだ。
「先生は言ったわ。今日の正午は激しく星が衝突する、最悪の時間だと。もしサインをすれば、必ず後から隠された不利な条件が見つかる、と」
アイリスはゴードンを真っ直ぐに見据え、一歩も引かなかった。
その頑なな態度に、ゴードンはついに舌打ちをした。
「……後悔することになるぞ。この契約は白紙だ。二度と貴様の商会とは取引せん!」
彼が契約書を破り捨てようと手を伸ばした、まさにその時だった。
「そこまでだ、ゴードン!」
バンッ! という鼓膜を破るような音と共に、応接室の重厚な扉が蹴り開けられた。
雪崩れ込んできたのは、銀色の鎧に身を包んだ王都の治安維持部隊だった。
「な、何事だ! 貴様ら、ここをどこだと……っ!」
「黙れ。お前たちの商会が裏で行っていた、違法な魔石密輸の証拠はすでに挙がっている。大人しく同行してもらおうか!」
隊長の怒声に、ゴードンは顔面を蒼白にさせた。
「馬鹿な……! あの裏帳簿は、ダミーの書類に紛れ込ませて別の隠し金庫へ送ったはずだ! なぜ騎士団の手に渡っている!?」
「お前の部下が、書類の配送先を間違えたんだよ。ご丁寧に我々の監査局のポストにな」
その言葉を聞いた瞬間、アイリスは雷に打たれたような衝撃を受けた。
(手紙や伝言の行き違い。通信のミス……!)
それはまさに昨日、占い師が語っていた『水星逆行』のトラブルそのものではないか。
星の逆行による不運は、アイリスだけではなく、この悪徳商人にも牙を剥いていたのだ。
もしあの時、焦って契約書にサインをしていたらどうなっていたか。
クラーク商会も密輸の共犯として連行され、今頃は冷たい地下牢に放り込まれていただろう。
(先生の占いは、ここまで見通していたというの……!?)
アイリスは胸元の護符を強く握りしめた。
あの路地裏の占い師は、ただの助言者ではない。運命そのものを読み解く、真の預言者なのだ。
* * *
それから二日後の、午後十五時。
ゴードンの商会が摘発されたことで、王都の市場には大きな枠が空いた。
そこに目をつけたのが、王室御用達の超優良企業である『白百合商会』だった。
彼らは、ゴードンの圧力に屈しなかったクラーク商会の毅然とした態度を高く評価した。
そして、異例のスピードで業務提携の打診が舞い込んできたのだ。
アイリスが白百合商会の代表と握手を交わし、新たな契約書にサインをしたその時間は——占い師が『グランドトライン(大三角)』と呼んだ、まさに奇跡の吉角の瞬間だった。
この契約により、クラーク商会は莫大な利益と強固な後ろ盾を得ることになる。
星の導きは、完璧な形で現実のものとなったのである。
* * *
「いやー、美味い。やっぱり金貨で買う肉は最高だな」
同じ頃。王都の裏通りにある薄暗い占い館で、俺はご機嫌に串焼きを頬張っていた。
あのチョロい令嬢から巻き上げた、いや、正当な対価として頂いた金貨一枚。
これのおかげで、しばらくは働かずにダラダラとスローライフを満喫できる。
「占いなんて、要は相手を安心させる心理学と、ちょっとした統計学のハッタリだからな。うまく騙されてくれて助かったぜ」
あの令嬢がその後どうなったかは知らないが、まあ適当に契約を遅らせたところで、商売の波なんて運次第だ。
プラシーボ効果の護符で少しは強気になれただろうし、それで十分だろう。
俺が食後のハーブティーを淹れようとお湯を沸かしていた、その時だった。
カランカランカランッ!!
店のドアベルが、千切れるほどの勢いで鳴り響いた。
何事かと振り返った俺の目に飛び込んできたのは、眩しいほどの純白のドレスに身を包んだ、あの令嬢——いや、今は見違えるほど堂々とした風格を漂わせる美女だった。
「せ、先生ぇぇーーっ!!」
「えっ、ちょ、何!?」
彼女の背後には、屈強な護衛の騎士たちが数名、そして抱えきれないほどの木箱を持った従者たちが続いている。
木箱の中からは、まばゆい金貨や高価な宝石がこぼれ落ちそうになっていた。
「先生のおっしゃった通りでした! 水星逆行のトラブルは、私ではなく敵の商会を破滅させました!」
「……は?」
「そして明後日の十五時! 先生が指定してくださった奇跡の時間に、王室御用達の商会と歴史的な大契約を結ぶことができたのです!」
令嬢は俺の手をガシッと両手で握りしめ、目をキラキラと輝かせた。
「先生の占いは、世界の運命すら見通す神の御業です! プラシーボ効果? いいえ、これは本物の聖なる護符でした!」
(いや、それはただ俺が適当に丸を書いただけの紙切れなんだが!?)
俺は内心で盛大にツッコミを入れながら、引きつった笑顔を浮かべるしかなかった。
どうやら、俺の教えた占星術のロジックが、とんでもない偶然と重なって奇跡的な大成功を引き起こしてしまったらしい。
「私、クラーク商会会長のアイリスと申します! 先生、どうか本日から我が商会の『専属特別顧問』になってください!」
「専属……顧問?」
「はい! 報酬は月に金貨百枚! もちろん、衣食住はすべて最高級のものを商会が保証いたします! さあ、次の商談に最適な星回りを教えてください!」
アイリスは鼻息を荒くして、ドサッと分厚い契約書を机の上に叩きつけた。
月に金貨百枚。それは、この路地裏で一生遊んで暮らせるほどの額だ。
「あの、俺はただ、安全で平穏なスローライフを……」
「先生がいれば、我が商会は世界を牛耳ることも夢ではありません! さあ、共に王都の経済を支配しましょう!」
「話を聞いてくれ! 俺は裏通りで細々とやっていきたいんだ!」
俺の悲痛な叫びは、熱狂するアイリスや護衛たちの歓声にかき消されてしまった。
現代の心理学と占星術を駆使して、安全な隠居生活を目論んでいた俺。
だが、どうやら俺の異世界での運命は、星のバグによってとんでもない方向へ回り始めてしまったらしい。
俺の平穏なスローライフは、一体どこへ消えてしまったのだろうか。
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