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第1話:見知らぬ夜の森とドラゴン、そして極上のマタタビ
しおりを挟む冷たい土の感触と、むせ返るような青臭い匂いで目が覚めた。
身を起こすと、視界いっぱいに見たこともない巨大な木々が広がっている。
ここはどこだろう。少なくとも、私がいつも路上ライブをしている駅前の広場ではない。
街灯の光も、車のエンジン音も、喧騒も一切ない。
ただ、不気味なほど深い夜の森がそこにあった。
見上げれば、木々の隙間から覗く空には、赤と青の二つの月が浮かんでいる。
「……っ」
声を出そうとしたが、喉の奥がヒュッと鳴っただけで言葉にはならなかった。
怖い。どうしてこんなところにいるのか全く分からない。
私は無意識のうちに、背中に背負っていた固いケースを両手で強く抱きしめていた。
中に入っているのは、使い込まれた古いアコースティックギター。
過去のトラウマから声を出してうまく人と話せなくなってしまった私にとって、これは唯一のコミュニケーションツールだった。
言葉の代わりに感情を乗せる、大切な相棒だ。
パニックになりそうな頭を抱え、私は震える手でケースの金具を外した。
こんな得体の知れない場所で音を出すなんて、危険かもしれない。
それでも、沈黙と暗闇に押しつぶされそうで、どうしても何かにすがりたかった。
そっとギターを取り出し、丸太に腰掛けて構える。
弦に指を這わせ、いつも弾いている優しいコードを一つ、ポロリと鳴らした。
――ジャーン……。
澄んだアコースティックギターの音色が、夜の森に静かに響き渡る。
木製のボディが共鳴し、お腹に伝わるわずかな振動が、私の強張った体を少しずつ解きほぐしていった。
大丈夫。ギターの音はいつも通りだ。
私は深く息を吐き、静かなアルペジオを奏で始めた。
誰に聴かせるわけでもない、自分自身を慰めるための子守唄のようなメロディ。
少しだけ心が落ち着いてきた、その時だった。
ズシンッ!!
突然、大地を揺るがすような凄まじい轟音が響いた。
演奏の手を止め、音がした方を振り向いて、私は息を呑んだ。
木々をなぎ倒し、土煙を上げて現れたのは、見上げるほど巨大な影。
月明かりに照らされて鈍く光る爬虫類のような鱗と、蝙蝠のような巨大な翼。
絵本や映画でしか見たことのない、本物の『ドラゴン』がそこにいた。
「……!!」
ドラゴンの鋭い金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
終わった。食べられる。
頭の中が真っ白になり、足の震えが止まらず、逃げ出すことすらできない。
せめて、最期くらい――。
私はギュッと強く目を閉じ、ピックを握りしめた右手を大きく振りかぶった。
ジャカジャカジャカジャカッ!!!
悲鳴の代わりに、私は無我夢中でギターを激しくかき鳴らした。
コードなんてめちゃくちゃだ。ただひたすらに、恐怖を塗りつぶすように強いストロークで弾き続ける。
(痛いのは嫌だ! 一思いに食べて!)
心の中でそう叫びながら、私は一心不乱に弦を弾き続けた。
しかし、何秒経っても、何十秒経っても、予想していた鋭い牙の痛みはやってこない。
ドゴォォォォン!!! という、何か巨大なものが吹き飛ぶような音と、凄まじい突風が吹き荒れただけだった。
「……えっ?」
突風でボサボサになった髪を押さえながら、私は恐る恐る目を開けた。
そこには信じられない光景が広がっていた。
つい数秒前まで目の前にいたはずの巨大なドラゴンが、跡形もなく消え去っている。
代わりに、ドラゴンがいた方向の木々が数百メートルにわたって綺麗になぎ倒され、見通しの良い獣道が出来上がっていた。
「な、なに……? 今の、すごい突風……?」
呆然と呟く私の耳に、不意に野太い声が届いた。
『おい人間。今のジャカジャカした激しい曲、最高だな』
ビクッとして視線を落とす。
私の足元、ギターケースのすぐそばに、一匹の小さな黒猫がちょこんと座っていた。
「……え?」
『特にその、木箱から響く低音の振動がたまらん。俺の魂を揺さぶる極上のマタタビだ。もっと弾け』
黒猫は、黄金色の瞳を細めながら、確かに人間の言葉を喋った。
突風で吹き飛んだ謎のドラゴン。そして、目の前で偉そうに喋る黒猫。
私の頭のキャパシティはとっくに限界を超えていた。
『なんだ、言葉が通じていないのか? まあいい。俺のシマでそんな極上の音を鳴らしたんだ。お前は今日から俺の専属楽士だ』
黒猫は自慢げに胸を張り、ピンと尻尾を立てた。
『安心しろ。お前が俺にその音を捧げる限り、この俺が世界の果てまで守り抜いてやる。まずは街へ行くぞ、人間』
訳が分からない。でも、どうやらこの小さな黒猫は、私に危害を加えるつもりはないらしい。
私はただコクコクと頷き、ギターを胸に抱きしめることしかできなかった。
こうして、見知らぬ異世界での、喋る黒猫との不思議な旅が始まったのだった。
* * *
【黒猫の視点】
(ったく、どこのどいつだ。俺の安眠を邪魔する馬鹿なトカゲは)
(あの娘の奏でる、心地よい振動の木箱。あれは俺の種族にとって、脳髄が蕩けるほどの極上のマタタビだというのに)
(……ふん。あの程度のトカゲ、俺の右前足の肉球フルスイングで十分だ。遥か彼方の山まで飛んでいっただろう)
(それにしてもあの娘、トカゲにビビって目を瞑っていたな。自分が助かったことにも気づいていないとは、面白い奴だ)
(あの極上の音色、俺以外の奴には独り占めさせん。一生俺のそばで弾かせてやる)
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