銀糸の弦(アリア)と黒の爪 〜戦場に響く、少女の「こえ」と魔獣の咆哮〜

ぱすた屋さん

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第2話:言葉が通じないなら、弾くしかない! 噴水前ではじめての路上ライブ

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 あの恐ろしい夜の森から、どれくらい歩いただろうか。
 空に浮かんでいた赤と青の二つの月が沈み、代わりに眩しい朝日が木々の隙間から差し込んできた。

『おい人間、遅れるな。俺のシマの入り口はもうすぐそこだぞ』

 前を歩く小さな黒猫が、器用に振り返って私を急かす。
 私は背中のギターケースの重みを感じながら、無言でコクコクと頷いてその後を追った。

 昨夜、信じられないほどの突風が吹き荒れた後、あの巨大なドラゴンは跡形もなく消え去っていた。
 そして残されたのは、偉そうに人間の言葉を喋るこの黒猫だけだった。

 正直、まだ夢を見ているんじゃないかと疑っている。
 けれど、足を踏み出すたびに感じる土の硬さも、朝露に濡れた草の匂いも、ひどく現実的だった。

 やがて森の木々がまばらになり、視界が一気に開けた。
 思わず、私はハッと息を呑んで立ち止まってしまった。

 目の前に広がっていたのは、見上げるほど高い石造りの巨大な城壁だった。
 映画のセットのような立派な門が口を開け、そこから大勢の人々が出入りしているのが見える。

 レンガ造りの家々が立ち並び、石畳の道には木製の馬車が行き交っている。
 すれ違う人の中には、犬や猫の耳が生えた人や、全身を金属の鎧で包んだ人もいた。

 本当に、私は異世界に来てしまったんだ。
 現実味のなかった出来事が、急にずっしりとした重みを持って私にのしかかってくる。

『何をしている、人間。さっさと入るぞ』

 呆然とする私をよそに、黒猫は堂々とした足取りで門番の前を通り抜けていく。
 慌てて後を追うと、門番たちはなぜか私たちを気にする素振りも見せず、あっさりと街の中へ入ることができた。

 城壁の中は、外から見る以上に活気に満ちた別世界だった。
 香ばしいパンの匂いや、鉄を打つ高い音がそこかしこから聞こえてくる。

「リンゴはいらんかね! 新鮮な赤果実だよ!」
「そこのお嬢ちゃん、焼きたての串肉はどうだい! 安くしとくよ!」

 露店の商人たちが大声で客引きをしているが、何を言っているのか全く聞き取れない。
 日本語でも英語でもない、完全に未知の言語が耳の中を滑っていく。

 私は昔から、人と話すのがひどく苦手だ。
 過去のトラウマで、いざ声を出そうとすると喉がギュッと締まり、言葉が奥でつっかえてしまう。
 元の世界でさえコミュニケーションに苦労していたのに、言葉すら通じない異世界なんて。

 急に心細さが押し寄せて、足がすくんでしまった。
 孤独感で視界が滲みそうになった時、私の足元に黒猫がスリリと体を擦り寄せてきた。

『ビビるな人間。お前には俺がついているだろうが』
「……っ」
『言葉が分からんなら、俺が通訳してやる。だが、まずは飯と寝床だ。腹が減っては極上の音は奏でられんからな』

 黒猫の言葉に、私のお腹がグゥッと小さく、でもはっきりと鳴った。
 そういえば、昨日の夜から何も食べていないし、一睡もしていない。

 でも、私にはこの世界のお金なんて一銭もないのだ。
 制服のポケットに入っているのはハンカチくらいで、スマートフォンすら持っていない。
 どうやってご飯を食べればいいんだろう。

 戸惑う私をよそに、黒猫はトコトコと広場の中央へ向かって歩き出した。
 そこには、美しい女神の彫像から水が流れ落ちる、大きな噴水があった。

『ここだ。ここがお前のステージだ、人間』

 黒猫は噴水の縁にヒョイと飛び乗ると、私の背中のギターケースを前足でポンポンと叩いた。

『俺はここで寝る。お前はあの極上のマタタビを響かせて、この街の連中から路銀を巻き上げろ』
「……!」

 その言葉に、私はハッと気がついた。
 お金がないなら、稼げばいい。言葉が通じないなら、音で伝えればいいんだ。

 元の世界でも、私はそうやって生きてきた。
 教室に馴染めず、放課後はいつも駅前の広場でひとりギターを弾いていた。
 私の心を外の世界と繋いでくれるのは、いつだってこの古いアコースティックギターだった。

 私は大きく深呼吸をして、噴水前にギターケースを広げた。
 ケースの中に敷かれた赤いベルベットの生地が、朝の光を浴びて鮮やかに見える。

 見慣れない制服姿の少女が何かを始めたと、道行く人々がチラチラと不思議そうな視線を向けてくる。
 緊張で指先が冷たくなるのを感じながら、私は丸太の椅子代わりに噴水の縁に腰掛け、ギターを抱えた。

 ペグを回してチューニングを合わせる。
 ポロン、ポロンという単音が広場に響き、周囲の雑踏が少しだけ遠のいた気がした。

 よし、大丈夫。いつもの私の音だ。
 私はゆっくりと目を閉じ、最初のコードをそっと押さえた。

 選んだのは、ゆったりとしたテンポのインストゥルメンタル曲。
 声を出せない私が、メロディだけで感情を伝えるためにずっと練習してきた大切な曲だ。

 親指で低音の弦を弾き、残りの指で高音のメロディを優しく紡いでいく。
 木製のボディが共鳴し、温かくて澄んだ音色が、冷たい石畳の広場に広がっていく。

 最初は恐る恐るだった指先も、曲が進むにつれて滑らかに動き始めた。
 不安も恐怖も、こうしてギターを弾いている間だけは不思議と忘れることができる。

 ふと目を開けると、私のすぐ隣で黒猫が目を細め、気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。
 その無防備な姿に少しだけクスッとして、私はさらに心を込めて演奏を続ける。

 曲のサビに入り、少しだけストロークの力を強める。
 チャカチャカというリズミカルな音が、噴水の水の音と混ざり合って心地よく響いた。

 気がつくと、私の周りには十数人の人だかりができていた。
 荷馬車を引くのを止めたおじさんや、買い物カゴを持ったおばさん。
 犬の耳を持った子供たちが、目を輝かせて私の手元を見つめている。

 誰も言葉を発しない。
 ただ静かに、私の奏でるギターの音色に耳を傾けてくれていた。

 曲の終盤、アルペジオでゆっくりと音を落としていく。
 最後の和音をジャーンと優しく鳴らし、私は弦の上に手を置いてそっと音を止めた。

 一瞬の静寂の後。

「おおっ……!」
「なんて美しい音色なんだ!」
「見たこともない不思議な楽器だが、心が洗われるようだよ!」

 ワッ、と広場に温かい歓声と拍手が湧き上がった。
 言葉は分からないけれど、彼らの表情や声のトーンで、好意的な反応だとすぐに分かった。

 チャリン、チャリン。

 足元に広げたギターケースの中に、鈍く光る銅貨や銀貨が次々と投げ込まれていく。
 異世界のお金だ。
 私の演奏が、この見知らぬ世界の人々にしっかりと届いた瞬間だった。

「……っ!」

 嬉しくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 私は立ち上がり、深々と頭を下げた。声は出ないけれど、精一杯の「ありがとう」の気持ちを込めて。

『ふん、当然の反応だな』

 隣の黒猫が、パッチリと目を開けて誇らしげに鼻を鳴らす。

『俺の選んだ専属楽士なんだからな。さあ人間、次はもう少しテンポのいい曲を頼むぞ』

 言葉の通じない、右も左も分からない異世界。
 でも、私にはこの古いギターと、偉そうな黒猫がついている。

 私は涙を拭うと、再び噴水の縁に腰掛け、次の曲の準備を始めた。
 異世界での初めての路上ライブは、こうして大成功の幕開けとなったのだった。

 * * *

【黒猫の視点】

(ふむ。やはりこの娘の奏でる音色は格別だ)

(弦の震えが木箱の中で反響し、大気を揺らす。この絶妙な周波数が、俺たち魔獣の神経を極限までリラックスさせるのだ)

(集まってきた人間のオス共やメス共も、すっかりこのマタタビの虜になっているようだな。悪くない光景だ)

(……ん?)

(おいおい、せっかくの心地よい演奏中に、汚いネズミが一匹紛れ込んでいるじゃないか)

(あの薄汚いフードの男。音色を楽しむふりをして、俺の楽士のケースに投げ込まれた銅貨に熱い視線を向けてやがる)

(俺の専属楽士の初めての稼ぎを、掠め取ろうって腹か? ……いい度胸だ)

(演奏の邪魔にならないよう、路地裏に引きずり込んで、みっちりと教育してやらねばなるまい)

(俺の極上のマタタビタイムを邪魔する奴は、指の骨の一本も残らんと思え)
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