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12 自業自得、届いた想い
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ティーアは額に触れる冷たさに目を覚ます。触ってみると、濡らしたタオルだった。
重たい瞼を押し上げる。外はすでに暗く、室内には眠りを妨げない程度の淡い明かりのみ灯っていた。
扉の軋む音がして、部屋の入り口を振り返る。湯気の立った食事を持ったノエルが立っていた。
「っ……あ、食事、置くだけですから」
彼の態度はどこかよそよそしく、わずかに怯えているように見えた。
「薬、飲みますか?」
笑顔で問うてくるが、決してティーアの眠るベッドへは近付かない。
「大丈夫。寝たらだいぶ良くなったから」
まだ気怠い体を緩慢に起こす。ノエルが動く気配がしたが、伸ばしかけた手を引っ込めた後はそれ以上動くことはなかった。
「食事、食べられそうなら、是非」
トレイを置いたノエルは足早に扉へ向かう。
「なにかあれば呼んでください。おやすみなさい」
「あっノエ……」
呼び止める前にノエルは立ち去った。あきらかに様子がおかしい。まるでティーアを避けているよう。
原因はわかりきっていた。
倒れる前、ティーアがノエルを拒絶したこと。今まであんなに強く突き放したことはなかった。誰でもあれだけ拒否を示されれば態度が変わって当然だ。
鼻の奥がつんと痛む。みるみる視界はぼやけ、涙が次々に溢れた。
自身の気持ちの整理が追い付かなかったとはいえ、相手に酷い態度を取っていい理由にはならない。悔しくて情けなくて、強く握りしめた掌に爪が食い込む。
ノエルにどんな思いをさせてしまっただろう。いつも優しくティーアを一番に考え尽くしてくれた彼。なんの落ち度もないのに、自分を責めてしまうかもしれない。夕飯を運んできた時に必要以上に近付いてこなかった。ティーアがノエルと距離を詰めることに怯えていると思ったのかもしれない。触れたり近付くことを拒まれたことによって、ノエルの中で“食事”の提供のことで気に病ませたかもしれない。
後悔と涙が溢れ、胸が裂けそうなほど苦しい。
折角ノエルが準備してくれた食事に手を付ける余裕もなく、押し寄せる嗚咽と悔いに潰されそうになりながら、今にも詰まってしまいそうな息を必死で落ち着かせることしか出来なかった。
◇
「出来た分、置いておきますね」
「うん、ありがとう」
ティーアが倒れた日以降、何事もなかったかのようにノエルはいつも通り働いている。ティーアへも優しい笑顔を向け、食事の準備や洗濯など、これまで通り家事も分担して行っていた。
「お茶、準備しますね」
ひとこと言い残し足早にノエルは作業部屋を出ていく。
変化はあった。同じ部屋で過ごす時間が減った。ティーアと同じ空間で過ごすことを避けているのは明白だった。あからさまではなく、自然にその場を立ち去る。だが、ティーアと一緒に過ごすことに嫌悪を抱いている様子は感じられない。
「……自分がそう思いたいだけだったりして」
独り言が空しく作業部屋に響く。
深夜、ノエルが外出することも増えた。たまに遅くまで寝室で作業している時、決まって彼が外出する物音が聞こえる。
そのたびにぎゅっと心臓のあたりが痛む。
あれから“食事”を提供していない。ノエルからも申し出はない。もしかしたら街で相手を見付けたのかもしれない。
考えれば考えるほど息が詰まってくる。
他の人に触れてほしくない。ごちゃごちゃした思考の中、明確な言葉が浮かぶ。独占欲だった。
誤魔化しようがなかった。彼に対しての想いを考えないようにしてきたが、もう取り繕うことは難しい。ノエルが好き。友達でもただの同居人でもなく、男性として恋焦がれている。
気付かない振りをしていればやり過ごせると、心のどこかで思っていた。そんな次元はとうに越えている。うっすらと視界を涙が覆っていく。
「どう、しよっかな……」
明るく言ってみるが感情は簡単には誤魔化されてくれない。
この想いを伝えるのか。このままか。
好意を聞かされた彼が“食事”以外の感情をティーアに持っていなかったら。誠実な彼のことだ。言葉を濁して逃げるようなことはせず、真正面から向き合ってくれるだろう。ただ、まっすぐな拒絶は、よりつらい。
かと言ってこのままの生活を続けるのか。突き放したことを謝罪し、なんでもないと取り繕うのか。いくらティーアが平気と言い張ったところで、ノエルは遠慮して他で“食事”を済ませるだろう。
どちらもティーアにとっては耐えがたい。
「準備出来ました」
ノエルが軽くノックをして扉を開ける。表情は笑顔だが、室内に入らず廊下から声をかけてくる。微笑みを崩さないまま、彼は足早にキッチンへと降りて行った。
また胸が苦しい。早くこの痛みから逃れたい。けれど、ティーアにはあと一歩を踏み出す勇気が出せないままだった。
遠くで物音がする。
深夜、ノエルの部屋からした音で目が覚めた。窓を開けた気配の後、羽ばたく音がわずかに聞こえた。
今日も出掛けるのか。つきんと心臓が痛んだ。潤みかける視界を強制的に閉じ、わざと勢いをつけてベッドに潜り込む。
硬く目を閉じ体を縮こまらせる。いつもならいつの間にか眠っているのに、今日に限ってなかなか寝られない。何度も寝返りを打ち収まりのいいところを探す。
どんな体勢になってもまったく眠くならない。何度か体の向きを変えたところで悟り、すぐに眠ることは諦めた。
まだ外は暗い。ノエルが出て行ってからそう時間は経っていない。
キッチンに降りてハーブティーの準備をする。少しでも眠気が来るよう願って安眠効果のあるカモミールを選んだ。
温かいカップをもってソファへ腰掛ける。ハーブティーの甘い香りを肺いっぱいに吸い込んだ。優しい匂いにほっとする。力んでいた体がゆるみ、背中からソファに沈み込んだ。
少し涙が出た。
「うそ、やだ。気のせい気のせい」
言い聞かせ頭を左右に振り誤魔化す。
ぐっとお茶を煽る。まだ熱い。その温度でもやもやする感情も洗い流してしまいたくて一気に飲み干した。
ほんの少し気が紛れた。空のカップをテーブルへ避難させ、ソファへ体を横たえた。
ベッドより硬いし寝心地も良くない。無骨な生地が頬に当たる。
このまま寝たら顔に跡が残るな、などと考えながら目を閉じた。
耳を澄ます。やけに静かで虫の声すら聞こえない。
いっそ騒音でもあれば余計なことを考えなくていいのに。そう思うときに限って静寂に包まれてしまう。
温かい飲み物で安心したのか、わずかに意識がまどろむ。浅い眠りを繰り返しながら、瞼に淡い光を感じた。
もう夜明けなのか。そうぼんやりと考えながらも重たい瞼と体は動かない。
もう少しだけ、と二度寝を決め込んだ時、体が浮き上がる感覚がした。
背中を支える腕、膝の下に回された手。良く知っている感触。ノエルだとすぐわかった。
歓喜で胸が震えた途端、ふっと馴染みのない匂いがする。女物の、随分と甘ったるい香水の匂い。
「い、や……」
覚醒しきっていない意識は考える前に拒絶した。
自身を抱えている腕がわずかに震える。
他の女になんか渡したくない。不快な嫉妬心に無理矢理目覚めさせられる。
重い瞼を強制的に押し上げた。驚き目を見開くノエルと視線が交わる。
「あっ……ごめんなさい、運ぼうと。すぐ降ろしますから」
慌てて目を逸らしたノエルは、焦った様子でソファへティーアを戻そうとする。
今を逃してしまうと、もう彼に謝れない気がした。腕を彼の首に回し力を込める。
「ごめん、ごめんノエル」
言葉と一緒に、一筋涙が零れた。言いたくても言えなかった感情が荒波のように押し寄せる。
「……好き」
消え入りそうな声で呟く。
「ごめん……好き。ノエルが、好き」
想いが溢れてしまった。一度決壊してしまえば、もう止めることはできなかった。
「ノエルにとってはただの“家主”で“食事”かもしれない。ごめんね、でも好きになっちゃった。好き、ノエル。大好き」
ただただ彼にすがり涙を流した。嗚咽が洩れ、もううまく言葉が出てこない。
「……そんな、急に」
戸惑う声がする。ああ、やっぱりか。どこか他人事のように考えた。
少しずつ腕の力を抜いて、彼の体を開放する。彼も察したようにティーアの体をソファへ降ろした。
まともにノエルの顔を見れる気がしない。これ以上同じ空間にいるのはつらい。目を伏せたまま彼の横を通り過ぎようとする。
「大丈夫。恋人になれだなんて言わない。ここには住んでていいし、今まで通り……っ!」
背後から逞しい腕に抱き締められ言葉が途切れる。限界だった涙腺がゆるんでしまい、ぽろぽろと溢れる。
「……ですか」
かすれたノエルの声がうまく聞こえない。
「本当、ですか」
家のことか、と思い答える。
「うんそう。住んでて大丈……」
「そこじゃないです」
強く遮られる。なんのことかわからず、思考は混乱するばかりだ。
「好きって……ほんとに?」
彼の声が急に弱々しくなる。わずかに震えているのが触れ合う肌から伝わった。
声を出せば嗚咽が漏れてしまいそうで、小さく頷くことが精一杯だった。折角強がっていたのに、これでは台無しだ。
呼吸を飲み込み嗚咽をなだめていると体が反転させられた。驚く間もなくノエルに唇を奪われた。
強引に押し入ってきた舌が無遠慮に口内を犯す。背に腕を回され体を離すことも許されない。
餓えた獣のごとく粘膜がねぶられていく。受け止めきれなかった唾液が口端から溢れた。苦しさに彼の胸を押しやるがびくともしない。
「んんっ、う、んっ」
ティーアが苦しげに呻いたところでやっと解放された。
「好きです」
鼻先が触れそうな距離、ノエルのまっすぐな視線に射抜かれ動けなくなる。
「食事とか家のこととか、関係ないです。僕はティーアさんが大切で、大好きです」
すぐには言葉の意味が理解できなかった。
「え……いや……そ、そういうの、いいから。気を使ってるなら……」
「使ってません!」
激しい剣幕で迫られる。聞いたことのない荒々しい声だった。
「好きなんです、ティーアさんのこと……」
途端に声は弱くなり、彼の頭が肩口に埋まる。わずかに声が揺れている。
「あ……ごめん、泣かないで……」
「泣いてないです」
あきらかに涙声だ。なだめようと彼の頭と背中を撫でてみる。体に巻き付く腕により力が込められた。
「ティーアさんは優しいから僕の面倒を見てくれてるだけなのに……。でも、恋しい気持ちはどうにもならなくて。せめてティーアさんの役に立って、いっぱい尽くして、側に置いてもらえるだけで幸せだって思おうとしたのに……」
ノエルが頬をすり寄せてくる。彼の髪が首筋をかすめてくすぐったい。
「でもだめでした。好きな人には、触れたい」
顔を上げたノエルは涙でぐしゃぐしゃだった。
「許してくれるティーアさんに甘えていました。可愛くて素敵で、触れるたびにもっともっと愛したくて。でも、その僕の想いが迷惑をかけてたんだって、ティーアさんが倒れた時に気付いて……。なのに今も、ティーアさんの優しさにつけこんで、こんな、無理矢理……」
止まりかけていたノエルの涙が再び溢れ出す。
ノエルも自身に好意を寄せてくれていた事実が嬉しい。でも彼は勘違いしている。迷惑だなんて思ったことはなかった。
誤解を解きたくて喋ろうとするが、思考が混乱してすぐに言葉が出てこない。
「でも離れないと、って。“食事”をさせてくれる人を外で見付ければ、ティーアさんへの想いにも蓋をできるって……思ったのに……」
親指で流れる涙を拭うが追いつかない。
「誰にも、触れなかった。匂いも感じない。食べたいとも思わない。もう……ティーアさん以外、無理なんです」
ティーアの手にノエルの手が重なる。濡れた睫毛を伏せ、掌に唇が寄せられる。
「好き、です……」
流れた涙がティーアの掌に落ちた。
嬉しい。そう思う気持ちと、早く彼を安心させたいという焦りで思考がうまくまとまらない。なにも言葉が出てこなくて自分に苛々する。
衝動的に体が動いていた。掌に口付ける彼から手を取り上げ頬を拘束する。強引に引き寄せ唇を奪った。
ノエルは体をこわばらせて動かない。それをいいことに、仕返しとばかりに強引に舌を差し込んでやる。好き勝手に口腔をねぶり彼の舌を味わう。
彼の腕がゆるみ後退る。離れることを許さず体を寄せる。
「私もノエルが好きなの! そう言ったでしょ!」
唇を開放した瞬間声を荒げる。
「好きって……言ったじゃん……」
他にももっと伝えたいことがたくさんあったのに、それ以上言葉が続かなかった。
ティーアの目からも涙が溢れ、瞬く間にぐしゃぐしゃと頬を濡らした。
それ以上言葉が続かず、彼の肩に額を預け、ただ嗚咽を漏らし泣き続けることしか出来なかった。
「ティーアさん……」
頭上からかすれたノエルの声がする。
「抱き上げます」
言葉の直後に体が浮いた。背と膝裏を支えられ抱き上げられていた。
「ぅぁっ」
間の抜けた声が出てしまう。驚きで涙が止まった。
ノエルはティーアを抱きかかえたままソファへ座る。ティーアを降ろすわけでもなく膝に抱いている。
「ティーアさん……」
濡れた瞳と視線が絡む。互いに吸い寄せられるように近付き唇が触れる。
「好きって、ほんとに?」
ノエルはまだ不安げに眉を寄せている。
「ほんとだってば」
今度はティーアから唇を寄せる。
「僕は、ティーアさんの特別になれますか?」
ティーアの気持ちを受け止めきれないのか、ノエルは遠慮がちに問う。
「もうなってるよ」
まだ信じられないという顔をしているノエルに精一杯笑って見せた。
ノエルの瞳がみるみる見開かれる。オレンジの瞳が煌めく星を散らしたように輝いた。
「っ大好きです! 絶対、絶対に大切にしますから!」
力強く抱き寄せられた。触れ合う胸から彼の鼓動が伝わる。速くて強く脈打っている。それはティーアも同じだった。
彼の背に腕を回し強く抱きしめる。少し高い体温が心地いい。
窓の外からわずかに小鳥の声が聞こえる。本格的に夜が明けたようだ。
カーテンの隙間から零れる陽光に照らされながら、互いの体温を全身で確かめ合った。
重たい瞼を押し上げる。外はすでに暗く、室内には眠りを妨げない程度の淡い明かりのみ灯っていた。
扉の軋む音がして、部屋の入り口を振り返る。湯気の立った食事を持ったノエルが立っていた。
「っ……あ、食事、置くだけですから」
彼の態度はどこかよそよそしく、わずかに怯えているように見えた。
「薬、飲みますか?」
笑顔で問うてくるが、決してティーアの眠るベッドへは近付かない。
「大丈夫。寝たらだいぶ良くなったから」
まだ気怠い体を緩慢に起こす。ノエルが動く気配がしたが、伸ばしかけた手を引っ込めた後はそれ以上動くことはなかった。
「食事、食べられそうなら、是非」
トレイを置いたノエルは足早に扉へ向かう。
「なにかあれば呼んでください。おやすみなさい」
「あっノエ……」
呼び止める前にノエルは立ち去った。あきらかに様子がおかしい。まるでティーアを避けているよう。
原因はわかりきっていた。
倒れる前、ティーアがノエルを拒絶したこと。今まであんなに強く突き放したことはなかった。誰でもあれだけ拒否を示されれば態度が変わって当然だ。
鼻の奥がつんと痛む。みるみる視界はぼやけ、涙が次々に溢れた。
自身の気持ちの整理が追い付かなかったとはいえ、相手に酷い態度を取っていい理由にはならない。悔しくて情けなくて、強く握りしめた掌に爪が食い込む。
ノエルにどんな思いをさせてしまっただろう。いつも優しくティーアを一番に考え尽くしてくれた彼。なんの落ち度もないのに、自分を責めてしまうかもしれない。夕飯を運んできた時に必要以上に近付いてこなかった。ティーアがノエルと距離を詰めることに怯えていると思ったのかもしれない。触れたり近付くことを拒まれたことによって、ノエルの中で“食事”の提供のことで気に病ませたかもしれない。
後悔と涙が溢れ、胸が裂けそうなほど苦しい。
折角ノエルが準備してくれた食事に手を付ける余裕もなく、押し寄せる嗚咽と悔いに潰されそうになりながら、今にも詰まってしまいそうな息を必死で落ち着かせることしか出来なかった。
◇
「出来た分、置いておきますね」
「うん、ありがとう」
ティーアが倒れた日以降、何事もなかったかのようにノエルはいつも通り働いている。ティーアへも優しい笑顔を向け、食事の準備や洗濯など、これまで通り家事も分担して行っていた。
「お茶、準備しますね」
ひとこと言い残し足早にノエルは作業部屋を出ていく。
変化はあった。同じ部屋で過ごす時間が減った。ティーアと同じ空間で過ごすことを避けているのは明白だった。あからさまではなく、自然にその場を立ち去る。だが、ティーアと一緒に過ごすことに嫌悪を抱いている様子は感じられない。
「……自分がそう思いたいだけだったりして」
独り言が空しく作業部屋に響く。
深夜、ノエルが外出することも増えた。たまに遅くまで寝室で作業している時、決まって彼が外出する物音が聞こえる。
そのたびにぎゅっと心臓のあたりが痛む。
あれから“食事”を提供していない。ノエルからも申し出はない。もしかしたら街で相手を見付けたのかもしれない。
考えれば考えるほど息が詰まってくる。
他の人に触れてほしくない。ごちゃごちゃした思考の中、明確な言葉が浮かぶ。独占欲だった。
誤魔化しようがなかった。彼に対しての想いを考えないようにしてきたが、もう取り繕うことは難しい。ノエルが好き。友達でもただの同居人でもなく、男性として恋焦がれている。
気付かない振りをしていればやり過ごせると、心のどこかで思っていた。そんな次元はとうに越えている。うっすらと視界を涙が覆っていく。
「どう、しよっかな……」
明るく言ってみるが感情は簡単には誤魔化されてくれない。
この想いを伝えるのか。このままか。
好意を聞かされた彼が“食事”以外の感情をティーアに持っていなかったら。誠実な彼のことだ。言葉を濁して逃げるようなことはせず、真正面から向き合ってくれるだろう。ただ、まっすぐな拒絶は、よりつらい。
かと言ってこのままの生活を続けるのか。突き放したことを謝罪し、なんでもないと取り繕うのか。いくらティーアが平気と言い張ったところで、ノエルは遠慮して他で“食事”を済ませるだろう。
どちらもティーアにとっては耐えがたい。
「準備出来ました」
ノエルが軽くノックをして扉を開ける。表情は笑顔だが、室内に入らず廊下から声をかけてくる。微笑みを崩さないまま、彼は足早にキッチンへと降りて行った。
また胸が苦しい。早くこの痛みから逃れたい。けれど、ティーアにはあと一歩を踏み出す勇気が出せないままだった。
遠くで物音がする。
深夜、ノエルの部屋からした音で目が覚めた。窓を開けた気配の後、羽ばたく音がわずかに聞こえた。
今日も出掛けるのか。つきんと心臓が痛んだ。潤みかける視界を強制的に閉じ、わざと勢いをつけてベッドに潜り込む。
硬く目を閉じ体を縮こまらせる。いつもならいつの間にか眠っているのに、今日に限ってなかなか寝られない。何度も寝返りを打ち収まりのいいところを探す。
どんな体勢になってもまったく眠くならない。何度か体の向きを変えたところで悟り、すぐに眠ることは諦めた。
まだ外は暗い。ノエルが出て行ってからそう時間は経っていない。
キッチンに降りてハーブティーの準備をする。少しでも眠気が来るよう願って安眠効果のあるカモミールを選んだ。
温かいカップをもってソファへ腰掛ける。ハーブティーの甘い香りを肺いっぱいに吸い込んだ。優しい匂いにほっとする。力んでいた体がゆるみ、背中からソファに沈み込んだ。
少し涙が出た。
「うそ、やだ。気のせい気のせい」
言い聞かせ頭を左右に振り誤魔化す。
ぐっとお茶を煽る。まだ熱い。その温度でもやもやする感情も洗い流してしまいたくて一気に飲み干した。
ほんの少し気が紛れた。空のカップをテーブルへ避難させ、ソファへ体を横たえた。
ベッドより硬いし寝心地も良くない。無骨な生地が頬に当たる。
このまま寝たら顔に跡が残るな、などと考えながら目を閉じた。
耳を澄ます。やけに静かで虫の声すら聞こえない。
いっそ騒音でもあれば余計なことを考えなくていいのに。そう思うときに限って静寂に包まれてしまう。
温かい飲み物で安心したのか、わずかに意識がまどろむ。浅い眠りを繰り返しながら、瞼に淡い光を感じた。
もう夜明けなのか。そうぼんやりと考えながらも重たい瞼と体は動かない。
もう少しだけ、と二度寝を決め込んだ時、体が浮き上がる感覚がした。
背中を支える腕、膝の下に回された手。良く知っている感触。ノエルだとすぐわかった。
歓喜で胸が震えた途端、ふっと馴染みのない匂いがする。女物の、随分と甘ったるい香水の匂い。
「い、や……」
覚醒しきっていない意識は考える前に拒絶した。
自身を抱えている腕がわずかに震える。
他の女になんか渡したくない。不快な嫉妬心に無理矢理目覚めさせられる。
重い瞼を強制的に押し上げた。驚き目を見開くノエルと視線が交わる。
「あっ……ごめんなさい、運ぼうと。すぐ降ろしますから」
慌てて目を逸らしたノエルは、焦った様子でソファへティーアを戻そうとする。
今を逃してしまうと、もう彼に謝れない気がした。腕を彼の首に回し力を込める。
「ごめん、ごめんノエル」
言葉と一緒に、一筋涙が零れた。言いたくても言えなかった感情が荒波のように押し寄せる。
「……好き」
消え入りそうな声で呟く。
「ごめん……好き。ノエルが、好き」
想いが溢れてしまった。一度決壊してしまえば、もう止めることはできなかった。
「ノエルにとってはただの“家主”で“食事”かもしれない。ごめんね、でも好きになっちゃった。好き、ノエル。大好き」
ただただ彼にすがり涙を流した。嗚咽が洩れ、もううまく言葉が出てこない。
「……そんな、急に」
戸惑う声がする。ああ、やっぱりか。どこか他人事のように考えた。
少しずつ腕の力を抜いて、彼の体を開放する。彼も察したようにティーアの体をソファへ降ろした。
まともにノエルの顔を見れる気がしない。これ以上同じ空間にいるのはつらい。目を伏せたまま彼の横を通り過ぎようとする。
「大丈夫。恋人になれだなんて言わない。ここには住んでていいし、今まで通り……っ!」
背後から逞しい腕に抱き締められ言葉が途切れる。限界だった涙腺がゆるんでしまい、ぽろぽろと溢れる。
「……ですか」
かすれたノエルの声がうまく聞こえない。
「本当、ですか」
家のことか、と思い答える。
「うんそう。住んでて大丈……」
「そこじゃないです」
強く遮られる。なんのことかわからず、思考は混乱するばかりだ。
「好きって……ほんとに?」
彼の声が急に弱々しくなる。わずかに震えているのが触れ合う肌から伝わった。
声を出せば嗚咽が漏れてしまいそうで、小さく頷くことが精一杯だった。折角強がっていたのに、これでは台無しだ。
呼吸を飲み込み嗚咽をなだめていると体が反転させられた。驚く間もなくノエルに唇を奪われた。
強引に押し入ってきた舌が無遠慮に口内を犯す。背に腕を回され体を離すことも許されない。
餓えた獣のごとく粘膜がねぶられていく。受け止めきれなかった唾液が口端から溢れた。苦しさに彼の胸を押しやるがびくともしない。
「んんっ、う、んっ」
ティーアが苦しげに呻いたところでやっと解放された。
「好きです」
鼻先が触れそうな距離、ノエルのまっすぐな視線に射抜かれ動けなくなる。
「食事とか家のこととか、関係ないです。僕はティーアさんが大切で、大好きです」
すぐには言葉の意味が理解できなかった。
「え……いや……そ、そういうの、いいから。気を使ってるなら……」
「使ってません!」
激しい剣幕で迫られる。聞いたことのない荒々しい声だった。
「好きなんです、ティーアさんのこと……」
途端に声は弱くなり、彼の頭が肩口に埋まる。わずかに声が揺れている。
「あ……ごめん、泣かないで……」
「泣いてないです」
あきらかに涙声だ。なだめようと彼の頭と背中を撫でてみる。体に巻き付く腕により力が込められた。
「ティーアさんは優しいから僕の面倒を見てくれてるだけなのに……。でも、恋しい気持ちはどうにもならなくて。せめてティーアさんの役に立って、いっぱい尽くして、側に置いてもらえるだけで幸せだって思おうとしたのに……」
ノエルが頬をすり寄せてくる。彼の髪が首筋をかすめてくすぐったい。
「でもだめでした。好きな人には、触れたい」
顔を上げたノエルは涙でぐしゃぐしゃだった。
「許してくれるティーアさんに甘えていました。可愛くて素敵で、触れるたびにもっともっと愛したくて。でも、その僕の想いが迷惑をかけてたんだって、ティーアさんが倒れた時に気付いて……。なのに今も、ティーアさんの優しさにつけこんで、こんな、無理矢理……」
止まりかけていたノエルの涙が再び溢れ出す。
ノエルも自身に好意を寄せてくれていた事実が嬉しい。でも彼は勘違いしている。迷惑だなんて思ったことはなかった。
誤解を解きたくて喋ろうとするが、思考が混乱してすぐに言葉が出てこない。
「でも離れないと、って。“食事”をさせてくれる人を外で見付ければ、ティーアさんへの想いにも蓋をできるって……思ったのに……」
親指で流れる涙を拭うが追いつかない。
「誰にも、触れなかった。匂いも感じない。食べたいとも思わない。もう……ティーアさん以外、無理なんです」
ティーアの手にノエルの手が重なる。濡れた睫毛を伏せ、掌に唇が寄せられる。
「好き、です……」
流れた涙がティーアの掌に落ちた。
嬉しい。そう思う気持ちと、早く彼を安心させたいという焦りで思考がうまくまとまらない。なにも言葉が出てこなくて自分に苛々する。
衝動的に体が動いていた。掌に口付ける彼から手を取り上げ頬を拘束する。強引に引き寄せ唇を奪った。
ノエルは体をこわばらせて動かない。それをいいことに、仕返しとばかりに強引に舌を差し込んでやる。好き勝手に口腔をねぶり彼の舌を味わう。
彼の腕がゆるみ後退る。離れることを許さず体を寄せる。
「私もノエルが好きなの! そう言ったでしょ!」
唇を開放した瞬間声を荒げる。
「好きって……言ったじゃん……」
他にももっと伝えたいことがたくさんあったのに、それ以上言葉が続かなかった。
ティーアの目からも涙が溢れ、瞬く間にぐしゃぐしゃと頬を濡らした。
それ以上言葉が続かず、彼の肩に額を預け、ただ嗚咽を漏らし泣き続けることしか出来なかった。
「ティーアさん……」
頭上からかすれたノエルの声がする。
「抱き上げます」
言葉の直後に体が浮いた。背と膝裏を支えられ抱き上げられていた。
「ぅぁっ」
間の抜けた声が出てしまう。驚きで涙が止まった。
ノエルはティーアを抱きかかえたままソファへ座る。ティーアを降ろすわけでもなく膝に抱いている。
「ティーアさん……」
濡れた瞳と視線が絡む。互いに吸い寄せられるように近付き唇が触れる。
「好きって、ほんとに?」
ノエルはまだ不安げに眉を寄せている。
「ほんとだってば」
今度はティーアから唇を寄せる。
「僕は、ティーアさんの特別になれますか?」
ティーアの気持ちを受け止めきれないのか、ノエルは遠慮がちに問う。
「もうなってるよ」
まだ信じられないという顔をしているノエルに精一杯笑って見せた。
ノエルの瞳がみるみる見開かれる。オレンジの瞳が煌めく星を散らしたように輝いた。
「っ大好きです! 絶対、絶対に大切にしますから!」
力強く抱き寄せられた。触れ合う胸から彼の鼓動が伝わる。速くて強く脈打っている。それはティーアも同じだった。
彼の背に腕を回し強く抱きしめる。少し高い体温が心地いい。
窓の外からわずかに小鳥の声が聞こえる。本格的に夜が明けたようだ。
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