呪われ作家と、小さなワケあり霊能者

餡玉(あんたま)

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17 幻影

 律が何日彷徨ったかわからない道のりを夜見はあっという間に駆けてゆく。
 そしてほどなくすると、どうどうと流れる水の音が聞こえてきた。
 天緒のうしろで夜見の乗りこなしに苦労しつつ首を伸ばしてみると、乳白色の靄の中に横たわる黒々とした河のシルエットが見えてきた。

「あぁ、あれは……」
「ええ、見えてきましたね。三途の川です」

 律が指差した方向へ、夜見がいっそうスピードを上げた。振り落とされないようにしがみつき、頬を叩く風の匂いに律は少し顔を顰めた。
 以前ここへきたときは、花のようないい香りがしていたような覚えがあるのに、川が近づくにつれて、律の鼻腔を満たす空気の臭いに血生臭さが混じるようになってきた。
 じっとりと湿った風が頬を打つ。これが夜見の言っていた『死者の臭い』というやつなのだろう。けっして長居したいと思えるような場所じゃない。

 前回ここへきたときとは状況が違うせいだろう。
 今の律は、生死の境を彷徨っていない。現し世で生きている。

 ——なるほどな。今の僕がいるべき世界じゃないということか。

 そう思い至った瞬間、夜見がスピードを緩めて立ち止まった。思わずつんのめりかけたが何とか堪え、ぐるりとあたりを見回した。

「ああ……ここは」

 足元には、律の手の中にある白い石と同じような石がたくさん転がっていた。引き寄せられるように夜見の背中から滑り降りる。 
 靴下を履いた足の下に、つるりと丸く削れた石の感覚がある。裸足で踏みしめたときとは違う感触ながら、どこか懐かしい。

「これを、ここに置いていけばいいんだな?」

 夜見の背に乗ったままの天緒を見上げ、律は静かにそう尋ねた。

「そうです。さあ、戻して」 
「ああ、わかった」

 ……わかっている。ここに置いていけばいい。あとはこの石を手から離せばいいだけなのだ。
 だが、律の手はなぜか石を手放そうとしない。焦燥感で胸が灼けつく。
 ここへきてからずっと、律の心の奥底から込み上げてくる何か大きなものが、川の流れる音と共に増幅していく。

 そのとき。

「——律」
「……えっ」

 聞き馴染んだ懐かしい声が、律の鼓膜を震わせた。
 息を飲み、弾かれたように振り返った律の視線の先に——……ひとりの女が佇んでいた。

「ひ……比奈子……?」

 背の高い女が律の視線の先に佇んでいる。
 白い浴衣を身につけた女だ。ショートヘアの黒髪が、川から吹き抜ける生ぬるい風で微かに乱れている。
 強さと明るさを備えた目力の強い二重まぶたが、ゆっくりとまばたきした。

「律。……待ってた。やっと来てくれたんだ」
「……え。……な、なんで。どうして、比奈子がここに……?」
「ずっと待ってた。さみしかったよ」

 比奈子は泣き笑いの表情を浮かべ、律に向かって腕を伸ばした。白い袖が揺れ、彼女の細い手首が露わになる。


 ——どうして。どうして今まで忘れていられた。


 比奈子は、律の妻だ。
 彼女は理想高き警察官で、律とは比べ物にならないくらい心身ともに健やかで強く、なにより明るい女性だった。

 あの殺人未遂事件の日、律は比奈子と出版社の前で待ち合わせをしていた。
 三回目の結婚記念日を祝うために、比奈子がレストランを予約しておいてくれたのだ。あの日あんな事件に遭わなければ、律と比奈子は雰囲気のいいレストランで夕食を共にするはずだった。

 だが、そんな夜は訪れなかった。

 腹を刺され崩れ落ちた律を通行人に任せ、比奈子は走り去る犯人を反射的に追いかけた。
 道路を横切ろうとした犯人に、彼女は追いついた。
 そして犯人の上着を掴んだそのとき——……彼女は大型トラックと衝突し、犯人もろとも死んでしまった。

「比奈子。……こんなところに」

 律は、妻の最期を目の当たりにしている。 
 脇腹を押さえ、無謀な行動に出る妻を呼び戻そうと、声にならない声を上げた。
 脇目も振らず犯人を追った彼女が交通量の多い道路に飛び出していく後ろ姿に向かって、律は血に濡れた手を伸ばした。

 だが律の声も、手も、彼女には届かなかった。

 ——そうだ、以前ここで彷徨っていたとき……僕はここで、ずっと比奈子を探していた。きっとここにいるはずだと思ったからだ。

 じゃり、と石を踏んで比奈子の伸べた手を握ろうと手を伸ばす。あのとき届かなかった手を。
 だが、ぐんとシャツを掴まれて、律はその場でたたらを踏んだ。

「先生。だめです」
「……離せ、離してくれ」
「先生、さっきも言ったでしょう。それは先生の見ている幻影です」
「幻影なもんか。はっきり声が聞こえるだろう? すぐそこに僕の妻がいるんだ。彼女も一緒に連れて帰ろう」
「いませんよ、女性なんて」
「……なに?」

 律のシャツを掴んでいる天緒を振り返ると、揺らぐことのないまっすぐな瞳が、じっと律を見上げていた。

「誰もいません、そこには」
「な、なにを言ってるんだ! いるよ!! 比奈子はここにいる! 彼女は川を渡っていない、ということは、僕のように生き返ることができるということだろう!?」
「彼女の肉体はもうありません。生き返ることは、不可能です」
「……いいよ、肉体がなくたっていい! ほ、ほら……僕はさんざん心霊現象に悩まされてただろ? 僕のまわりには、たくさんの霊がいたってことだ! それなら、彼女も連れて帰ろう。たとえ幽霊でも、比奈子がいてくれるならそれでいい!! 幽霊だってなんだって、彼女が僕のそばにいてくれるなら……!」
「——しっかりしろ!! 深澄律!!」

 身が竦むほどの鋭い声があたりに響いた。
 子どもの声とは思えないほどに重く厳しい天緒の声に、律は頬を張られたようにハッとする。
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