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18 輪廻の輪
「奥さんはもうこの川を超え、輪廻の輪に戻っておられます」
「そ……そんなのわからないじゃないか!! 輪廻なんて知らない。彼女は僕の目の前にいるんだ!! どうして見えないんだよ!!」
「いいですか、先生。この河原に落ちている石は、すべて人の未練でできています」
「……未練?」
律はふたたび、手の中にある白い石を見た。
ここへ来た時よりもいっそう熱く、放つ光も強さを帯びているそれを。
「先生は、目の前で奥様を亡くされた。ショックのあまり受け入れられなかったその事実と、奥様を止められなかった自分への怒り、後悔——その全てを内包しているのが、その石なんです」
天緒の言葉に、律の双眸からどっと涙が溢れた。
瞳の中にこびりついている妻の最期。
もっと強く、比奈子を制止できていたら。腹を刺されたからなんだというのだ。まだ意識はあったのだから、彼女の服を掴んで、「行くな」と言うくらいできたはずだ。でもできなかった。常に肉体を鍛えていた彼女と違い、律が弱かったから。
後悔はある。いくらでも。
——身の丈に合わない状況に舞い上がっていなければ、僕は殺されずに済んだのに。求められるまま取材を受けて、褒められて、有頂天になって、馬鹿みたいに踊っていた自分に腹が立つ。
あれをしなければ、あのときああしておけば——いくらでも後悔は生まれてくる。
「律。ねえ、律。いっしょに行こう?」
「……あ」
「あたし、律が来るのをずっと待ってた。寂しかった。ほら、早く行こう?」
比奈子が律を呼ぶ。天緒の姿など見えていないかのように、律だけをまっすぐに見つめている。
強い眼差しが好きだった。律がブラック企業に勤めていたときも、彼女は律以上に律の置かれた状況に怒ってくれた。
もう辞めちゃえ! あたしが養ってあげるって! そんな場所にしがみつく必要なんてないよ! 律の小説は面白いんだから、ぜったい認めてもらえるって!! と。そう言って律を慰め、励ましてくれた。そうして力強い言葉をもらうたび、もうちょっと頑張ってみるかと思えていた。
でも、彼女の言う通りだったかもしれない。さっさとあの会社を辞めていれば、こんな事件に巻き込まれることもなかったかもしれない。
差し伸べられた比奈子の手を、じっと見つめる。まるで白魚のような、細く白い指先を……。
——違う。
比奈子の手は、もっと大きくて逞しい。
警察官として訓練を怠らなかった彼女の手は、律のそれよりもずっと太く骨張っていたし、手のひらには竹刀だこがあった。
律の手の方がずっと綺麗だなーと自虐する彼女の手が好きだった。
警察官としてのプライドを持つ彼女のかっこよさに惚れていた。どうして彼女が自分みたいな軟弱な男を夫として認めてくれたのか謎だった。
すると彼女は、「律の繊細なとこが好き。守ってあげたくなるから」と笑っていた。男としてそれはどうなんだ? とも思ったが、家でふたりきりで過ごすときの彼女は可愛かった。
家事が苦手な彼女は、律の作る料理をいつもベタ褒めしてくれた。いつも感謝の言葉を与えてくれた。
明るくて、強くて、不器用な彼女を愛していた。
「……そうか、僕の未練か」
律の手から、するりと石が落ちてゆく。かつん、と微かな音が響いた。
「もし比奈子がここにいたとしたら……ダッシュで僕に駆け寄ってきて、そのまま抱きついてきたはずだ。寂しかった、待ってたなんて彼女は言わない。遅いじゃないか何やってたんだ! って、彼女は怒りながら笑うんだ」
——僕の妻は、そういう人だ。
「これは比奈子じゃない。……比奈子はきっと、自分のしたことに後悔をしていないと思う。身自らの手で僕を刺した犯人を捕まえた。それで……」
それ以上は、何も言えなかった。
とめどなく溢れる涙で視界が歪む。堪えきれない嗚咽で呼吸が乱れる。
「……先生」
天緒の声がする。律は眼鏡を外して、ぐいと拳で涙を拭った。
目の前に、比奈子の姿はもうなかった。
「先生、石はあるべき場所に戻りました。……帰りましょう。ここは長居すべき場所ではありません」
「……ああ、そうだな。帰ろう」
涙声で律が応じると、天緒がほっとしたように表情を緩めた。
そっと差し伸べられた小さな手を掴むと、ぎゅっと強く握られた。
これまで握りしめていた石の痛いような熱さとは違う、たしかなぬくもりがそこにある。
柔らかく小さな天緒の手を、律はしっかりと握り返した。
「乗れ。戻るぞ」
伏せられた夜見の背に跨って、もう一度、比奈子の幻影が佇んていた場所を振り返る。
そこにはもう誰もいない。
律は静かに息を吐き、目を閉じて合掌した。
——偽物でも、幻影でも、もう一度顔が見られてよかったよ。
どうどうと流れる大河の音が、だんだんと遠ざかる。
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