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第四幕 ー魔境へのいざないー
十七、戒めの鬼
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申の刻になり、辺りは暮れゆく夕日によって、都は長い影に沈み始めていた。
紫宸殿の前庭では、五人の陰陽師たちが五芒星を描くように立ち並んでいる。足元には鬼道を開くための陣が完成していた
陣の中心部には、舜海と宇月が立つ。千珠が魔境へと攫われぬよう、護りの結界を成すためである。
千珠は、承明門の上に腕を組んで立ち、夕闇に暮れていく都を見下ろしていた。
冷たい風が、千珠の結い上げた銀髪を乱して吹き抜ける。今宵は、自分の妖力を物質化した白い狩衣を身に纏い、その身の守りをさらに強めていた。
千瑛を始めとする神祇官たちは、陰陽師たちの背後に立ち、市中へと影響が出ぬようにするための結界を張る。更に承明門、建礼門の外では、数多の衛士たちが佐々木派の者たちを内裏に入れぬよう、護りを固めている。
皆、緊張しながら鬼が現れるのを待っていた。夜暗に備え、あちこちで松明が焚かれ始め、ぱちぱちと薪の爆ぜる音が、静寂した御苑に響く。
千珠は、ふと血の匂いを嗅ぎ取った。
すると、先ほどまではすっきりと澄んでいた冬の空気が、急に烟り始める。
昨日と同じ、濃い霧が立ち込め始めた。その場にいた者たちが全員、息を呑む。
千珠は数珠を外すと、その掌から宝刀を抜いた。それを合図に、陰陽師衆による術式の詠唱が始まった。
黒い影が、ゆっくりと建礼門に近づいてくるのをその目に認めると、千珠は承明門から健礼門の上へとひらりと飛び移り、陀羅尼を待つ。
巨体を引きずりながら、白い砂利道を進んでくる陀羅尼は千珠の姿を認めると、低い唸り声を響かせた。昨日千珠に切り裂かれた傷はまだ塞がっておらず、肉が露わになり柘榴のような赤い色を覗かせていた。そして、忌々しげに目を眇めて、言った。
「……またお前か」
千珠は冷たい風に髪をなびかせながら、風の音に負けじと声を張った。
「今日は、お前の邪魔はしない。今宵、この扉の向こうに鬼道が開く。お前を魔境に帰してやる。大人しくするがいい」
陀羅尼はぴくりと眉を動かし、唸り声を止めた。
「……何だと」
「お前は無理に召喚されたのだろう、俺にはお前を殺す理由がない」
千珠と陀羅尼は向い合って、視線を交じらわせた。陀羅尼の黄色い瞳が、千珠の言葉の真偽を疑うように、その琥珀色の瞳をじっと窺っている。
「……偽りではないようだな」
陀羅尼はそう言うと、するすると人の姿になった。千珠は健礼門から飛び降りて、数歩、陀羅尼に近付く。
近くで並んでみると、千珠よりほんの少し大きいくらいの身の丈である。ごわごわとした黒く長い髪を風に乱されながら、陀羅尼はじっと千珠から視線を外さない。
肌の色は土気色で、まるで死人のように乾いている。口から覗く鋭い牙と、額から飛び出る二本の短い角。そして指にあるのは、千珠のものとは比べ物にならないほど大きな鉤爪だ。
「つくづく分からんやつだ。お前は何がしたい?」
陀羅尼はそう言った。
「……別に。俺はとある人間と盟約を交わしている。そいつの敵は斬り、味方は護る。それだけだ」
「はっ! ぬくぬくと飼われて、歯牙を抜かれたか。すぐに俺を殺せば話は早かったものを」
「殺す相手はお前ではないと判断した」
陀羅尼は初めて瞬きをすると、ゆっくりと、額を覆う髪の毛をかき上げてみせた。
「それは……」
陀羅尼の額には、六芒星の呪印が焼き付いていた。それは妖鬼を戒め縛しつける、呪術の証だ。
「もうすぐあの忌々しい人間もここへ来るぞ。さて……操られ自我を失った俺に、お前はどこまでそんな悠長なことが言えるかな」
「……ねじ伏せるまでだ。そのまま魔境へ帰るがいい」
「ふん……言うではないか」
陀羅尼は、そう言って少し唇を釣り上げ、笑みのような表情を作った。その表情が、急に意思を失ったように凍りつくと、陀羅尼はがくっと膝を折ってその場に崩れ落ちる。
千珠がじっとその様子を窺っていると、倒れ伏した陀羅尼の背後に、陰陽師の群れの気配を感じた。大勢の足音と気配があたりを囲い、霧の中に黒い影が並ぶ。
霧の向こうから、佐々木猿之助が現れ、千珠に向かってにやりと笑った。
「やれやれ、鬼同士通じるものがあるのかな。すっかり私のしたことがばれてしまった様子」
「すぐに分かったさ。お前の手に負えないんだろ? 俺が地獄に返品しといてやる」
千珠がそう言うと、佐々木猿之助はまた低く笑った。
「こいつはこれから、帝を殺めに参るところ。それが済みましたら、どうぞお好きに」
「!」
千珠は表情を険しくした。
「鬼退治を仕損じ、帝のお命を奪われたとあっては、神祇省もおしまいです。……そこで再び、我ら陰陽師がこの国の政を動かすのだ。そのための道具なのですよ、この鬼は」
猿之助は恐れるふうも無く陀羅尼の傍らに立つと、印を結んで一息、息を吹きかけた。すると、陀羅尼はびくんと身体を蠢かした後、むくりと起き上がる。
黄色い目は淀み、まるで何も見てはいない。半開きになった口からは、だらりと長い舌がはみ出し、涎が流れる。千珠は険しい顔をして猿之助を睨みつけた。
「道具だと……おのれ、貴様らのような人風情が、ふざけた真似を」
「おや、妖鬼らしい口調になってこられたではないか。千珠どの」
再び猿之助が異なる手印を結ぶと、陀羅尼は狂ったように四肢をばたつかせながら、千珠の懐に飛び込んできた。その不気味な動きに驚かされ、反応が遅れた千珠は、その胸を鉤爪で切り裂かれてしまう。
「ぐっ……!!」
千珠は脚で陀羅尼を蹴り、その反動で飛び退った。狩衣が裂け、真っ赤な血が吹き出す。陀羅尼は四足になり、再び巨大な獣の姿へと変貌を遂げ、千珠の方に顔を向ける。そしてまた、千珠に踊りかかってきた。
千珠は宝刀で陀羅尼の鉤爪を受け止め防いだものの、あまりの力の強さに押し負けそうであった。地面に踵がめり込み、白砂利が跳ねる。千珠は歯を食い縛り、雄叫びを上げて妖力の全てを解放した。
「おおおおおお!!」
千珠の圧倒的な力に陀羅尼は弾き飛ばされ、建礼門を突き破った。立ち昇る土煙が、霧を更に濃いものにしてゆく。
すると千珠の背後で、ぎぎぎぎ……と承明門の開く重たい音が響いた。
結界と、鬼道の開放の仕度が整った。
紫宸殿の前庭では、五人の陰陽師たちが五芒星を描くように立ち並んでいる。足元には鬼道を開くための陣が完成していた
陣の中心部には、舜海と宇月が立つ。千珠が魔境へと攫われぬよう、護りの結界を成すためである。
千珠は、承明門の上に腕を組んで立ち、夕闇に暮れていく都を見下ろしていた。
冷たい風が、千珠の結い上げた銀髪を乱して吹き抜ける。今宵は、自分の妖力を物質化した白い狩衣を身に纏い、その身の守りをさらに強めていた。
千瑛を始めとする神祇官たちは、陰陽師たちの背後に立ち、市中へと影響が出ぬようにするための結界を張る。更に承明門、建礼門の外では、数多の衛士たちが佐々木派の者たちを内裏に入れぬよう、護りを固めている。
皆、緊張しながら鬼が現れるのを待っていた。夜暗に備え、あちこちで松明が焚かれ始め、ぱちぱちと薪の爆ぜる音が、静寂した御苑に響く。
千珠は、ふと血の匂いを嗅ぎ取った。
すると、先ほどまではすっきりと澄んでいた冬の空気が、急に烟り始める。
昨日と同じ、濃い霧が立ち込め始めた。その場にいた者たちが全員、息を呑む。
千珠は数珠を外すと、その掌から宝刀を抜いた。それを合図に、陰陽師衆による術式の詠唱が始まった。
黒い影が、ゆっくりと建礼門に近づいてくるのをその目に認めると、千珠は承明門から健礼門の上へとひらりと飛び移り、陀羅尼を待つ。
巨体を引きずりながら、白い砂利道を進んでくる陀羅尼は千珠の姿を認めると、低い唸り声を響かせた。昨日千珠に切り裂かれた傷はまだ塞がっておらず、肉が露わになり柘榴のような赤い色を覗かせていた。そして、忌々しげに目を眇めて、言った。
「……またお前か」
千珠は冷たい風に髪をなびかせながら、風の音に負けじと声を張った。
「今日は、お前の邪魔はしない。今宵、この扉の向こうに鬼道が開く。お前を魔境に帰してやる。大人しくするがいい」
陀羅尼はぴくりと眉を動かし、唸り声を止めた。
「……何だと」
「お前は無理に召喚されたのだろう、俺にはお前を殺す理由がない」
千珠と陀羅尼は向い合って、視線を交じらわせた。陀羅尼の黄色い瞳が、千珠の言葉の真偽を疑うように、その琥珀色の瞳をじっと窺っている。
「……偽りではないようだな」
陀羅尼はそう言うと、するすると人の姿になった。千珠は健礼門から飛び降りて、数歩、陀羅尼に近付く。
近くで並んでみると、千珠よりほんの少し大きいくらいの身の丈である。ごわごわとした黒く長い髪を風に乱されながら、陀羅尼はじっと千珠から視線を外さない。
肌の色は土気色で、まるで死人のように乾いている。口から覗く鋭い牙と、額から飛び出る二本の短い角。そして指にあるのは、千珠のものとは比べ物にならないほど大きな鉤爪だ。
「つくづく分からんやつだ。お前は何がしたい?」
陀羅尼はそう言った。
「……別に。俺はとある人間と盟約を交わしている。そいつの敵は斬り、味方は護る。それだけだ」
「はっ! ぬくぬくと飼われて、歯牙を抜かれたか。すぐに俺を殺せば話は早かったものを」
「殺す相手はお前ではないと判断した」
陀羅尼は初めて瞬きをすると、ゆっくりと、額を覆う髪の毛をかき上げてみせた。
「それは……」
陀羅尼の額には、六芒星の呪印が焼き付いていた。それは妖鬼を戒め縛しつける、呪術の証だ。
「もうすぐあの忌々しい人間もここへ来るぞ。さて……操られ自我を失った俺に、お前はどこまでそんな悠長なことが言えるかな」
「……ねじ伏せるまでだ。そのまま魔境へ帰るがいい」
「ふん……言うではないか」
陀羅尼は、そう言って少し唇を釣り上げ、笑みのような表情を作った。その表情が、急に意思を失ったように凍りつくと、陀羅尼はがくっと膝を折ってその場に崩れ落ちる。
千珠がじっとその様子を窺っていると、倒れ伏した陀羅尼の背後に、陰陽師の群れの気配を感じた。大勢の足音と気配があたりを囲い、霧の中に黒い影が並ぶ。
霧の向こうから、佐々木猿之助が現れ、千珠に向かってにやりと笑った。
「やれやれ、鬼同士通じるものがあるのかな。すっかり私のしたことがばれてしまった様子」
「すぐに分かったさ。お前の手に負えないんだろ? 俺が地獄に返品しといてやる」
千珠がそう言うと、佐々木猿之助はまた低く笑った。
「こいつはこれから、帝を殺めに参るところ。それが済みましたら、どうぞお好きに」
「!」
千珠は表情を険しくした。
「鬼退治を仕損じ、帝のお命を奪われたとあっては、神祇省もおしまいです。……そこで再び、我ら陰陽師がこの国の政を動かすのだ。そのための道具なのですよ、この鬼は」
猿之助は恐れるふうも無く陀羅尼の傍らに立つと、印を結んで一息、息を吹きかけた。すると、陀羅尼はびくんと身体を蠢かした後、むくりと起き上がる。
黄色い目は淀み、まるで何も見てはいない。半開きになった口からは、だらりと長い舌がはみ出し、涎が流れる。千珠は険しい顔をして猿之助を睨みつけた。
「道具だと……おのれ、貴様らのような人風情が、ふざけた真似を」
「おや、妖鬼らしい口調になってこられたではないか。千珠どの」
再び猿之助が異なる手印を結ぶと、陀羅尼は狂ったように四肢をばたつかせながら、千珠の懐に飛び込んできた。その不気味な動きに驚かされ、反応が遅れた千珠は、その胸を鉤爪で切り裂かれてしまう。
「ぐっ……!!」
千珠は脚で陀羅尼を蹴り、その反動で飛び退った。狩衣が裂け、真っ赤な血が吹き出す。陀羅尼は四足になり、再び巨大な獣の姿へと変貌を遂げ、千珠の方に顔を向ける。そしてまた、千珠に踊りかかってきた。
千珠は宝刀で陀羅尼の鉤爪を受け止め防いだものの、あまりの力の強さに押し負けそうであった。地面に踵がめり込み、白砂利が跳ねる。千珠は歯を食い縛り、雄叫びを上げて妖力の全てを解放した。
「おおおおおお!!」
千珠の圧倒的な力に陀羅尼は弾き飛ばされ、建礼門を突き破った。立ち昇る土煙が、霧を更に濃いものにしてゆく。
すると千珠の背後で、ぎぎぎぎ……と承明門の開く重たい音が響いた。
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