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24、後輩

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 何となくその場に取り残されてしまった一季は、同じく研究室に居残っている美青年をちらりと見た。

 ついさきほどまで泉水に迫っていた相手である。正直心穏やかではいられないが、相手は学生で、自分は大学職員だ。大人の対応をしなくてはならない。

 青年は、一季など眼中にないといいたげな様子で、黙って上着を着直している。恋人を寝取られそうになった身としては、何か一言、釘を刺してやれそうなことを言えたらいいのだが……。


 ——う、うわ、すごい美形……。ハーフかなぁ。こ、こんなにきれいでたおやかそうな学生が、本当にビッチなんだろうか……。嵐山さんは卑屈だから、あんなこと言ってただけなのかもしれないけど……。


 相手があまりに美形なので、一季も思わずごくりと息を飲んだ。どことなく浮世離れしたような雰囲気のある青年で、自分のような一般庶民が口をきいてはいけないようなオーラに包まれているように感じられ、腰が引ける。

 しかし、青年はブルゾンのポケットに手を突っ込み、ひょいと目線を上げた。そして、挑みかかるような目つきで一季を見据えている。一季はぎょっとした。

「あなた、嶋崎先輩ですよね。沢北高校の、陸上部の」
「……えっ? そ、そうですけど」

 ついさっき泉水に甘えていた声とは打って変わった低い声色で、美青年は一季にそう言った。突然母校の名前を持ち出され、驚いてしまう。

「僕も同じ高校だったんで、あなたのこと知ってます。一学年下の、渡瀬里斗といいます」
「あ……あ、そうなんだ。すごい偶然ですね」
「僕のこと、知りません? 学校内じゃそこそこ有名人だったと思うんですけど」
「うーん……ごめん。部活の後輩くらいしか、下の子たちと話すことなかったから……」
「なるほど。そりゃそっか。小篠先輩のことしか見えてなかった、って感じですよね、きっと」
「……えっ……」


 心臓が、止まるかと思った。
 里斗の口から飛び出して来たのは、一季の初恋の相手の名だ。一季はやや目を見開き、探るように里斗を見た。


「……な、なんで……知ってるの」
「嶋崎先輩って、すごいですよね~。涼しい顔して、ハイスペックな人ばかり落としちゃって。羨ましいなぁ」

 一季の問いには答えず、里斗は歌うような口調でそんなことを言った。小首を傾げて微笑む姿は愛らしい天使のようだが、その目はどことなく薄暗く、まるで笑っていないことに気づかされる。

「いっつもいっつも、僕の狙ってるもの、取ってっちゃうんですから。……それってすごい才能ですよ」
「狙ってるものって……」
「嵐山先生も、最初はちょっといいかなぁと思ってたんですけどね。今じゃあの人もすっかりネコだからなぁ~。あの営業マンのことだって、僕にとっちゃただの遊びなのにあんなにムキになって、ヒステリー起こしちゃって」
「……」

 里斗はくくっと喉の奥で笑ったあと、男にしては赤みの強い唇に、そっと自らの指先を触れた。妖艶な目つきになった里斗の姿を見ていると、本能を逆撫でされるような心地がして、ひやりとさせられる。

「塔真先生って、素敵ですよね。ゲイだとは思ってなかったんでびっくりしましたけど、あんなにかっこいいのに、純情で、優しくて、ほんっとかわいい。ああいう人のセックスって、どんな感じなんだろうなぁ。もっと興味が湧いちゃいました」
「っ……」
「どうなんですか実際? エッチも優しいんですか? それとも、夜はすごくサディスティックとか? うわ~そうだったらすごくイイなぁ~」
「まっ……待ってください……!」

 泉水のことを、そんなふうに言ってほしくない——里斗の言葉を遮った理由は、ただそれだけだ。里斗の中で泉水のイメージが性的に弄ばれることが、何だかとても許せないことのように思えた。

 里斗は一季の反応を見るや、唇の片端を釣り上げてニヤリと笑った。目つきが突然鋭くなり、挑発的な目つきで一季を下から見上げてくる。

「何ですか? 何か言いたいことでも?」
「……塔真先生には、手を出さないでください」
「ええ? ははっ、先輩もすっごく純情なんですね。んー……どうしようかなぁ」
「あの人は今、僕と交際しているんです。だから、君のような人には近づいて欲しくありません」
「ふーん、僕のような人、ねぇ」

 里斗はそう言って、肩を揺すって低く笑った。
 嵐山の台詞が、急に生々しく思い出される。『泥棒猫のクソビッチ』……それは、あながち嘘ではないのかもしれない。一季は何だかぞっとして、ぎゅっと拳を握りしめた。

「ほんっと、贅沢ですよね。嶋崎先輩って」
「えっ……?」
「先輩、うちの学年ですごく人気あったんですよ。『儚げな美少年』で、『品行方正』で『頭も良く』て、『走ってる姿が爽やかでカッコいい』って、女の子たちがきゃっきゃ言ってました。あなたはそんな評判なんて、まるで関心なさそうでしたけど」
「……」
「その陰で、学内一番人気の小篠先輩と付き合ってたんでしょ? 僕はゲイだから、すぐに気付いちゃいました。何で別れちゃったんです? もったいないなぁ~人気者同士で、お似合いだったのに」
「何で、って……」


 高校二年生の頃にそういう評判が立っていたことは、一季自身も知っている。
 それをネタに、部の仲間たちは、奥手で大人しい一季をからかっていたものでだった。

 仕方のないことだ。同性愛者である一季が、女子生徒に対して興味を抱けるはずもない。それにその頃、一季はすでに小篠卓哉に惚れていた。それに高二の初夏のあたりには、卓哉とひそやかな交際を始めていたのだ。卓哉にベタ惚れしていた一季にとって、後輩の女子たちからの黄色い声援は、ひどく遠いものだった。

 そして、夏休み以降。
 一季は卓哉との冷たいセックスのことで、深く深く悩んでいた。気をぬくと、そう悩みばかりが心を占め、かなり視野が狭くなっていたように思う。部活動でも精彩を欠くようになり、顧問や部長にひどく心配されたものだった。

 その頃一季は、地区大会に向け、短距離と走高跳のトレーニングを行なっていた。だが、不慣れなセックスや萎れ切ったメンタリティのせいか、いくらトレーニングを重ねても、記録はまるで伸びてはくれなかった。

 卓哉と別れ、高校三年生に進級する頃になると、再び部活にも集中できるようになった。おかげで、好記録を残せるようにもなった。地区予選大会を勝ち抜き、全国への道が見えかけたものの、結局準決勝で敗れインターハイへの道は閉ざされた。しかし同時期、卓哉の所属するサッカー部は全国へと駒を進め、しかもベスト4に残る快挙を成し遂げたのである。

 キャプテンを務めていた卓哉は、これまで以上に女子からの人気を集め、日々違う女子生徒を侍らせていたものだった。学校中の女子生徒が、敬うように卓哉を見つめた。教職員たちでさえ、卓哉にどこか気を遣っているようにさえ見えたものだった。高三の頃はクラスが変わっていたけれど、遠目に見ても、卓哉は有頂天になっているように見えた。

 そして噂に聞こえて来るのは、卓哉の軽薄な女遊びの武勇伝ばかり……。

 あんな男に初恋を捧げ、身体を捧げ、挙げ句捨てられてしまった自分が情けなくて、悔しかった。
 そんな過去など亡きものにしたかったが、一季の心にはくっきりと、卓哉の痕跡が刻まれてしまっている。


 そんな過去を唐突に思い出し、一季は抑えようのない不快感を胸に覚えた。
 ぎゅ、とワイシャツの胸を掴んで呼吸を整え、こっちを睨みつけている里斗をじっと見返す。


「……そんな昔のこと、もうどうだっていいでしょう」
「あれぇ? 円満な別れ方じゃなかったんですか?」
「それは、君には関係ないことです。それより、塔真先生に妙なちょっかいを出さないでください。いいですね」
「……」

 冷や汗や声の震えに気づかれないよう、一季はあえてのように高圧的な口調でそう言った。里斗は澄んだ色の瞳でじっと一季を観察しつつ、やがて降参するように両手を上げる。

「まぁ、ひとまずは退いておきます。でも、僕は工学研究科の院生ですよ? 今後も、塔真先生には何かとお世話になると思うんですけどね~」
「……っ」
「ま、お二人がどんなおつきあいの仕方をされているのか知りませんけど、先輩があの人をしっかり繋ぎ止めておいでなら、僕が何をしたって先生が揺らぐことはないでしょ? こうして僕を牽制してるってことは……先輩、ひょっとして、自信がないんじゃないですか?」
「自信……って、そんなこと……」
「ま、同じ高校の出身者同士ですし、これからも仲良くしてくださいね♡ 先輩」


 里斗はあざとらしく可愛らしい笑みを浮かべ、すっと一季の脇を通り過ぎて行く。
 

 一季は硬い表情で床を見据えたまま、ぎゅっと拳を握りしめた。
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