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第二章
凍りついた時間の融解
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診療所の奥、陽光が柔らかく差し込む一室で、佐藤と黒崎の静かな、けれど途方もなく根気のいる日々が始まった。
黒崎は相変わらず、少しでも大きな音がしたり佐藤が急に動いたりするたびに、ビクッと肩を震わせて床に跪こうとする。
そのたびに佐藤は、同じ目線になるまで腰を落とし穏やかな声で語りかけた。
「黒崎くん、大丈夫だよ。
ここは台座の上じゃない。床に跪かなくていいんだ。
椅子に座って、私と一緒に外の景色を見てみようか」
ある日の昼下がり。
佐藤は自分で作った温かいスープを運んできた。
これまでの黒崎にとって、食事とは「コレクションとしての艶を保つための栄養補給」であり、鼻から管を通されるか、あるいは天童の足元で与えられる屈辱的な儀式でしかなかった。
佐藤はスプーンですくい、ゆっくりと黒崎の口元へ運ぶ。
「ゆっくりでいい、黒崎くん。
これは君を太らせるための薬じゃない。
君に『美味しい』と感じてほしくて作ったんだ」
「……おいしい……?」
黒崎は唇に残された銀のリングを震わせながら、おそるおそるスープを口に含んだ。
じわりと広がる野菜の甘みと温かさ。
天童の元では決して感じることのなかった、誰かの「体温」が混じった味。
「……あ、……ぁ…………」
黒崎の瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。
「どうしたんだい? 痛むかな? 唇のピアスのせいで食べにくいなら、もっと細かくしようか」
「……いえ、……。
……温かい、です……。ご主人、様……」
「……佐藤、だよ。黒崎くん。
私は君の主人じゃない。ただの、君の味方だ」
佐藤は否定する時も、決して強い口調は使わない。
ただ、眉を下げた困ったような、それでいて深い慈愛に満ちた笑みを浮かべて黒崎の涙をそっと指先で拭う。
着替えも、黒崎にとっては「展示の準備」を意味する苦痛な時間だった。
佐藤が新しい綿のシャツを差し出すと、黒崎は反射的に自分から服を脱ぎ捨てて四つん這いになろうとする。
「黒崎くん、違うんだ。自分を差し出さなくていい」
佐藤は優しくその手を止め、黒崎の背中にそっと柔らかいシャツを掛けた。
「これは君を守るための服だ。
誰かに見せるためのものじゃない。君が、寒くないように……。
さあ、袖に手を通してみよう。お手伝いするよ」
佐藤の指先が、偶然、黒崎の腕に触れる。
天童の冷たく支配的な手つきとは違う、どこまでも柔らかく、壊れ物を扱うような慎重な触れ方。
黒崎はその温もりに、言いようのない恐怖と、それ以上の安らぎを感じて動揺した。
「……どうして、……私のような壊れたものに……こんなに、優しくするのですか……?」
「壊れてなんかいないよ、黒崎くん。
君は少しひどい嵐に遭って、羽が傷ついてしまっただけだ。
……時間はかかるけれど、必ずまた、自分の足で歩けるようになる」
佐藤は毎日、黒崎が「黒崎くん」という名前に怯えなくなるまで、何度も、何度もその名を呼び続けた。
天童が刻んだ「物」としての記憶を、佐藤は「日常」という名の穏やかな波で、少しずつ、少しずつ洗い流そうとしていたのだ。
「今日はお庭のヒナギクが咲いたんだ。
黒崎くん、あとで一緒に見に行かないかい?」
「……ひなぎく……。
……はい、……佐、藤……さん……」
初めて黒崎の口から「ご主人様」ではない、佐藤の名が零れた。
まだ喉に引っかかるような、たどたどしい呼び方だったが、佐藤はその瞬間、誰にも見られないように目元を緩ませ、深く深く安堵の息をついた。
黒崎は相変わらず、少しでも大きな音がしたり佐藤が急に動いたりするたびに、ビクッと肩を震わせて床に跪こうとする。
そのたびに佐藤は、同じ目線になるまで腰を落とし穏やかな声で語りかけた。
「黒崎くん、大丈夫だよ。
ここは台座の上じゃない。床に跪かなくていいんだ。
椅子に座って、私と一緒に外の景色を見てみようか」
ある日の昼下がり。
佐藤は自分で作った温かいスープを運んできた。
これまでの黒崎にとって、食事とは「コレクションとしての艶を保つための栄養補給」であり、鼻から管を通されるか、あるいは天童の足元で与えられる屈辱的な儀式でしかなかった。
佐藤はスプーンですくい、ゆっくりと黒崎の口元へ運ぶ。
「ゆっくりでいい、黒崎くん。
これは君を太らせるための薬じゃない。
君に『美味しい』と感じてほしくて作ったんだ」
「……おいしい……?」
黒崎は唇に残された銀のリングを震わせながら、おそるおそるスープを口に含んだ。
じわりと広がる野菜の甘みと温かさ。
天童の元では決して感じることのなかった、誰かの「体温」が混じった味。
「……あ、……ぁ…………」
黒崎の瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。
「どうしたんだい? 痛むかな? 唇のピアスのせいで食べにくいなら、もっと細かくしようか」
「……いえ、……。
……温かい、です……。ご主人、様……」
「……佐藤、だよ。黒崎くん。
私は君の主人じゃない。ただの、君の味方だ」
佐藤は否定する時も、決して強い口調は使わない。
ただ、眉を下げた困ったような、それでいて深い慈愛に満ちた笑みを浮かべて黒崎の涙をそっと指先で拭う。
着替えも、黒崎にとっては「展示の準備」を意味する苦痛な時間だった。
佐藤が新しい綿のシャツを差し出すと、黒崎は反射的に自分から服を脱ぎ捨てて四つん這いになろうとする。
「黒崎くん、違うんだ。自分を差し出さなくていい」
佐藤は優しくその手を止め、黒崎の背中にそっと柔らかいシャツを掛けた。
「これは君を守るための服だ。
誰かに見せるためのものじゃない。君が、寒くないように……。
さあ、袖に手を通してみよう。お手伝いするよ」
佐藤の指先が、偶然、黒崎の腕に触れる。
天童の冷たく支配的な手つきとは違う、どこまでも柔らかく、壊れ物を扱うような慎重な触れ方。
黒崎はその温もりに、言いようのない恐怖と、それ以上の安らぎを感じて動揺した。
「……どうして、……私のような壊れたものに……こんなに、優しくするのですか……?」
「壊れてなんかいないよ、黒崎くん。
君は少しひどい嵐に遭って、羽が傷ついてしまっただけだ。
……時間はかかるけれど、必ずまた、自分の足で歩けるようになる」
佐藤は毎日、黒崎が「黒崎くん」という名前に怯えなくなるまで、何度も、何度もその名を呼び続けた。
天童が刻んだ「物」としての記憶を、佐藤は「日常」という名の穏やかな波で、少しずつ、少しずつ洗い流そうとしていたのだ。
「今日はお庭のヒナギクが咲いたんだ。
黒崎くん、あとで一緒に見に行かないかい?」
「……ひなぎく……。
……はい、……佐、藤……さん……」
初めて黒崎の口から「ご主人様」ではない、佐藤の名が零れた。
まだ喉に引っかかるような、たどたどしい呼び方だったが、佐藤はその瞬間、誰にも見られないように目元を緩ませ、深く深く安堵の息をついた。
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