黒崎くんと佐藤さん

金魚

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第二章

「嫌だ」という権利

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佐藤の診療所での日々は、天童の邸宅とは正反対の、静謐で穏やかなものだった。

しかし、黒崎の魂に刻み込まれた「奴隷としての習性」は、そう簡単に消えるものではなかった。

​黒崎は、佐藤が部屋に入ってくると瞬時に背筋を完璧に伸ばし、指先までピンと揃えて直立不動で控える。

佐藤が動けばその数歩後ろを音もなく付き従い、佐藤が椅子に座ろうとすれば、命令される前にその動きを察知して椅子を引こうとする。

​「黒崎くん、そんなに固くならなくていいんだよ。椅子も自分で引けるから、君も隣に座りなさい」

​「……いえ。私はお側に控えているのが務めですから。……佐藤さん、何か、私に命じることはございませんか?
 お茶でしょうか、それとも……」

​黒崎の瞳には、常に「正解を探る」ような怯えと必死さが混じっていた。

天童の元では、主人の望みを察知できないことは「罰」を意味する。
何も命じられず、ただ「自由にしていい」と言われる空白の時間は、彼にとって、いつ飛んでくるかわからない鞭を待つような、耐え難い不安な時間だったのだ。

​ある日、佐藤は診察の手を止め、落ち着かない様子で立ち尽くす黒崎の手をそっと取った。

かつて天童が力任せに掴んだのと同じ場所。

しかし、佐藤の掌は驚くほど柔らかく、温かいものだった。

​「黒崎くん。
……君はいつも、私を喜ばせようと一生懸命だね。
その優しさは嬉しいけれど、私は君の主人じゃない。

君の心を守る、一人の人間でありたいんだ」

​佐藤は黒崎の目を見つめ、諭すようにゆっくりと言葉を紡ぐ。

​「いいかい。これからは、私の言うことに従わなくていい。
もし私が君の望まないことをしたり、君が辛いと思った時は……『嫌だ』と言っていいんだ」

​「……いや、だ……?」

​黒崎は、生まれて初めて聞く単語のように、その言葉を繰り返した。

拒絶は死を意味していた。
否定はさらなる蹂躙を招くだけだった。

そんな彼にとって「嫌だ」と言う権利を認められることは、銀のピアスを外されること以上に恐ろしい、未知の概念だった。

​「そう。嫌な時は嫌だと言っていい。
怒ったりしないし、君を見捨てたりもしない。

私が君に一番望んでいるのは、君が君自身の心を取り戻すことなんだ」

​佐藤は黒崎の冷え切った手を自分の両手で包み込んだ。
しかし、決して力は込めず、黒崎がその気になればいつでも指の間から逃げ出せるような、羽のように軽い触れ方だった。

​「今、私がこうして握っているこの手も、嫌だと思ったらすぐに振り払ってくれていい。
……君が拒めば、私は二度と君の許可なく触れたりはしない。

約束するよ」

​佐藤は黒崎が自らの意思で手を引けるだけの十分な隙間を残し、あえて無防備に手のひらを晒した。

​「……嫌だと、言っても……、捨てられない、ですか? 振り払っても…。
…私は、……おもちゃ、ではなく……一人の、人間、なのですか……?」

​黒崎の唇のピアスが、チリ、と小さく震えた。
佐藤は微笑み、深く頷いた。

​「そうだよ。
君は、世界に一人しかいない『黒崎くん』だ。
誰の所有物でもない」

​黒崎はその瞬間、呼吸をすることさえ忘れたように佐藤を見つめた。

自分という存在が、誰かを悦ばせるための「道具」ではなく、ただそこにいるだけで許される「人間」であるという事実。

佐藤の温かな手が、黒崎の心の中に張り巡らされた氷のような銀の鎖を、ほんの少しずつ、静かに溶かし始めていた。

​黒崎の目から溢れ出した涙が、佐藤の手の甲に落ちる。

それは悲しみでも屈辱でもなく、生まれて初めて「自分」を認められた、震えるような戸惑いの涙だった。

彼は結局、佐藤の手を振り払うことはしなかった。

それどころか震える指先で、生まれて初めて「自分から」佐藤の温もりを握り返そうとしていた。



​───佐藤の診療所に来てから、数週間が経った。

黒崎の体力の回復に合わせ、佐藤は「残された銀」を一つずつ外すための準備を慎重に進めていた。

​その日は黒崎の最奥に最後まで残っていた、後ろの数個のリングを一つ外す予定の日だった。

​処置室のベッドに座る黒崎の肩は、目に見えて震えている。

佐藤が器具をトレイに置く「カチャリ」という小さな金属音。
それが聞こえるたび、黒崎は反射的に四つん這いになり、自分を差し出そうとしてしまう。

​「黒崎くん、大丈夫だ。
今日は四つん這いにならなくていい。横向きに寝て、私の手を握っていなさい」

​佐藤は穏やかに、そしてあくまで事務的にではなく一人の友人に接するように語りかけた。

​しかし、佐藤の手が黒崎の腰に触れ処置のために肌を露出させようとした瞬間、黒崎の脳裏に最悪の記憶がフラッシュバックした。

​天童に無理やり広げられた時の激痛。

八つの銀が互いに擦れ合い、肉を削り、快楽と痛みが泥沼のように混じり合った、あの地獄のような夜。

​「っ……、あ、……ぁ……っ!!」

​黒崎の顔から、さあっと血の気が引いていく。
呼吸が浅くなり、視界がチカチカと点滅する。

いつもなら、ここで彼は「どうぞ私をお使いください」と、自分を殺して受け入れるはずだった。

​けれど、佐藤が教えてくれた言葉が、彼の震える胸の奥で小さく木霊した。


​(嫌な時は……嫌だと言っていいんだよ)



​「……、……あ……」

​黒崎は自分を抑え込もうとする佐藤の手を、無意識に掴み返していた。
これまではされるがままに力なく投げ出していた手が、初めて佐藤の白衣をぎゅっと掴んだのだ。

​「………黒崎くん?」

​「……い……いや……です……」

​それは、蚊の鳴くような、掠れた声だった。

​「……怖い……っ、……嫌だ……! 佐藤さん、……怖い……っ、外さないで……っ!!」

​一度言葉が零れると、それは堰を切ったように溢れ出した。
黒崎はベッドの上で丸まり、自分を抱きしめるようにして激しく泣きじゃくる。

​「外したら、またあの痛みがくる……っ!
 また別のものが、もっと太いのが入ってくる……っ! 

嫌だ、怖い……っ、痛いのはもう……っ!!」

​それは、主人の不興を恐れる「玩具」の言葉ではなかった。
ただの傷つき、怯えきった、一人の青年としての本心からの叫びだった。

​佐藤は驚きに目を見開いた後、すぐに、眉を下げたこの上なく優しい表情で黒崎を抱きしめた。

​「……言えたね、黒崎くん。
よく、言ってくれた」

​「……っ、……ぁ……はぁ……っ……」

​「怖いね。嫌だよね。
いいんだ、今日はもうやめよう。
君が『嫌だ』と言えたことが、何よりも素晴らしい進歩なんだから」

​佐藤は処置の手を止め、黒崎の背中を落ち着くまで何度もさすり続けた。

黒崎は佐藤の胸の中で、嗚咽を漏らし続けた。

自分の意志を伝えても、
怒られない。
激痛はこない。
捨てられない。

それどころか、主従ではない「信頼」という名の絆で、より強く抱きしめてもらえる。

​黒崎にとって、この「嫌だ」という一言は、天童に刻まれたどの銀のリングよりも重く、そして彼を「人間」へと連れ戻すための、最も輝かしい一歩となった。
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