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第三章
蘇る「最悪の客席」
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診療所の穏やかな日常。
佐藤が自室で熱心に論文を読み込み、カルテを整理する背中を黒崎はドアの影からじっと見つめていた。
展示会のあの日以来、佐藤は一度も「支配」の顔を見せず、ただ献身的に、一人の人間として黒崎を慈しんできた。
しかし心と身体が安らぎを取り戻すにつれ、黒崎の脳裏にはある一つの「光景」が呪いのように蘇るようになる。
あの日、眩いスポットライトに晒され、銀の鎖に繋がれたまま台座で喘いでいた時。
意識が朦朧とする中で、確かに見たはずの顔。
(……どうして、あそこにいたんだろう……?)
天童に「コレクション」として披露されていた自分を、佐藤もまた、あの歪んだ富豪たちと同じ場所で見つめていた。
その事実が、一度気になり始めると暗い澱のように黒崎の胸に溜まっていった。
「佐藤さんは、あそこにいた…。
俺が、あんなに惨めな姿を晒しているのを、見ていたんだ……」
自分の身体の穴をひとつひとつ丁寧にケアしてくれる佐藤の指先を思い出すたびに、感謝と共に、背筋を凍らせるような疑惑が過る。
佐藤さんは、俺を救いたいから抱いてくれたのか?
それとも、あの会場で見た「玩具」の感触を、手に入れたくなっただけなのか?
「黒崎くん? どうしたんだい、そこに立って」
佐藤がふと振り返り、眼鏡を外して優しく微笑んだ。
その誠実な瞳に射抜かれると、黒崎は自分の疑念がひどく卑しいものに思えて咄嗟に視線を逸らしてしまう。
「……あ、いえ。……佐藤さん、お仕事、お忙しそうだから……」
「いや、一段落ついたところだ。お茶でも淹れようか」
佐藤が立ち上がり、近づいてくる。
その一歩一歩が、あの日、台座に向かってくる客たちの足音と重なって聞こえる。
黒崎の指先が、無意識にシャツの下にある鎖骨の「穴の跡」をなぞった。
「……あの、佐藤さん。一つだけ……聞いてもいいですか?」
黒崎の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「……あの、展示会の日。
……どうして、佐藤さんはあそこにいたんですか?
あなたも、他の人たちと同じように……俺を…あんな風になるのを、楽しみにしていたんですか……?」
佐藤は手に持っていた眼鏡を落としそうになり、そのまま力なく机に置いた。
彼の背中が、見たこともないほど小さく震えている。
長い沈黙の後、佐藤はゆっくりと黒崎の方を向き、その瞳には溢れんばかりの苦渋と後悔が滲んでいた。
「……私は、君を救ったふりをしながら、私があの地獄の一部にいたという事実は、ずっと私の喉元に突き刺さった刃だった」
佐藤は一歩踏み出そうとして、自らの足の汚れを自覚したかのように踏みとどまった。
「大学時代の恩師からの招待だった。
ただの社交場だ、最新の芸術や資産家の集まりだと聞かされていたんだ。
だが……ライトが点いた瞬間、そこに君が現れた時、私は自分の目を疑った」
佐藤の視線が、かつて銀に貫かれていた黒崎の体へと注がれる。
その目は、欲望ではなく、深い哀しみに濡れていた。
「君は、誰の目から見ても完璧に装飾されていた。
けれど、私には分かったんだ。
君が痛みに耐え、呼吸することさえ苦しんでいることが。
……一人の人間があんなにも無残に、誇りも尊厳も肉体もズタズタにされている光景を見て、私は……胃の中のものをすべてぶちまけたいほどの吐き気に襲われた」
佐藤は顔を覆い、掠れた声で言葉を絞り出した。
「周囲は君を『芸術だ』と称賛していた。
でも、私はただ、今すぐにあの台座へ駆け寄って君をその鎖から解き放ちたかった。
君を包み隠し、これ以上誰の目にも触れさせたくなかった。
……でも私はあの日、座り込んでしばらく震えることしかできなかったんだ。
天童という怪物の前で、私は無力な『観客』の一人でしかなかった」
佐藤の目から、一粒の涙が頬を伝った。
「君を譲り受けた時……天童に同類だと思わせるために君を傷つけた時、私の心も死んだ。
君に施したすべてのケアは、君を救うためだけじゃない。
あの日すぐさま君を救えなかった自分、君が踏みにじられるのをしばらく見ていた自分を、私が許したかっただけなんだ」
佐藤は黒崎の前に膝をつき、祈るようにその手を見上げた。
「黒崎くん。君を『器』だなんて思ったことは、ただの一瞬も、万分の一秒もない。
……私はただ、あの日壊されてしまった君の誇りを、一つずつ拾い集めて、君の心に戻したかったんだ。
……私があの日あの場所にいたことは、一生消えない罪だ。
……君がそれを許せないなら、私は君の前から去る覚悟もできている」
佐藤は拒絶を待つ死刑囚のように、静かに俯いた。
佐藤が自室で熱心に論文を読み込み、カルテを整理する背中を黒崎はドアの影からじっと見つめていた。
展示会のあの日以来、佐藤は一度も「支配」の顔を見せず、ただ献身的に、一人の人間として黒崎を慈しんできた。
しかし心と身体が安らぎを取り戻すにつれ、黒崎の脳裏にはある一つの「光景」が呪いのように蘇るようになる。
あの日、眩いスポットライトに晒され、銀の鎖に繋がれたまま台座で喘いでいた時。
意識が朦朧とする中で、確かに見たはずの顔。
(……どうして、あそこにいたんだろう……?)
天童に「コレクション」として披露されていた自分を、佐藤もまた、あの歪んだ富豪たちと同じ場所で見つめていた。
その事実が、一度気になり始めると暗い澱のように黒崎の胸に溜まっていった。
「佐藤さんは、あそこにいた…。
俺が、あんなに惨めな姿を晒しているのを、見ていたんだ……」
自分の身体の穴をひとつひとつ丁寧にケアしてくれる佐藤の指先を思い出すたびに、感謝と共に、背筋を凍らせるような疑惑が過る。
佐藤さんは、俺を救いたいから抱いてくれたのか?
それとも、あの会場で見た「玩具」の感触を、手に入れたくなっただけなのか?
「黒崎くん? どうしたんだい、そこに立って」
佐藤がふと振り返り、眼鏡を外して優しく微笑んだ。
その誠実な瞳に射抜かれると、黒崎は自分の疑念がひどく卑しいものに思えて咄嗟に視線を逸らしてしまう。
「……あ、いえ。……佐藤さん、お仕事、お忙しそうだから……」
「いや、一段落ついたところだ。お茶でも淹れようか」
佐藤が立ち上がり、近づいてくる。
その一歩一歩が、あの日、台座に向かってくる客たちの足音と重なって聞こえる。
黒崎の指先が、無意識にシャツの下にある鎖骨の「穴の跡」をなぞった。
「……あの、佐藤さん。一つだけ……聞いてもいいですか?」
黒崎の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「……あの、展示会の日。
……どうして、佐藤さんはあそこにいたんですか?
あなたも、他の人たちと同じように……俺を…あんな風になるのを、楽しみにしていたんですか……?」
佐藤は手に持っていた眼鏡を落としそうになり、そのまま力なく机に置いた。
彼の背中が、見たこともないほど小さく震えている。
長い沈黙の後、佐藤はゆっくりと黒崎の方を向き、その瞳には溢れんばかりの苦渋と後悔が滲んでいた。
「……私は、君を救ったふりをしながら、私があの地獄の一部にいたという事実は、ずっと私の喉元に突き刺さった刃だった」
佐藤は一歩踏み出そうとして、自らの足の汚れを自覚したかのように踏みとどまった。
「大学時代の恩師からの招待だった。
ただの社交場だ、最新の芸術や資産家の集まりだと聞かされていたんだ。
だが……ライトが点いた瞬間、そこに君が現れた時、私は自分の目を疑った」
佐藤の視線が、かつて銀に貫かれていた黒崎の体へと注がれる。
その目は、欲望ではなく、深い哀しみに濡れていた。
「君は、誰の目から見ても完璧に装飾されていた。
けれど、私には分かったんだ。
君が痛みに耐え、呼吸することさえ苦しんでいることが。
……一人の人間があんなにも無残に、誇りも尊厳も肉体もズタズタにされている光景を見て、私は……胃の中のものをすべてぶちまけたいほどの吐き気に襲われた」
佐藤は顔を覆い、掠れた声で言葉を絞り出した。
「周囲は君を『芸術だ』と称賛していた。
でも、私はただ、今すぐにあの台座へ駆け寄って君をその鎖から解き放ちたかった。
君を包み隠し、これ以上誰の目にも触れさせたくなかった。
……でも私はあの日、座り込んでしばらく震えることしかできなかったんだ。
天童という怪物の前で、私は無力な『観客』の一人でしかなかった」
佐藤の目から、一粒の涙が頬を伝った。
「君を譲り受けた時……天童に同類だと思わせるために君を傷つけた時、私の心も死んだ。
君に施したすべてのケアは、君を救うためだけじゃない。
あの日すぐさま君を救えなかった自分、君が踏みにじられるのをしばらく見ていた自分を、私が許したかっただけなんだ」
佐藤は黒崎の前に膝をつき、祈るようにその手を見上げた。
「黒崎くん。君を『器』だなんて思ったことは、ただの一瞬も、万分の一秒もない。
……私はただ、あの日壊されてしまった君の誇りを、一つずつ拾い集めて、君の心に戻したかったんだ。
……私があの日あの場所にいたことは、一生消えない罪だ。
……君がそれを許せないなら、私は君の前から去る覚悟もできている」
佐藤は拒絶を待つ死刑囚のように、静かに俯いた。
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