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しおりを挟むシャロン=モーフェットが、自分から距離を取っている。
それに気づいたのは、もう随分前だ。
そして同時に悟った。
それは、気まぐれでも、成長の過程でもない。
――彼女は、意図的にそうしている。
ヴァージルは書類の山から顔を上げ、深く息を吐いた。
皇太子の執務室は広く、整えられている。だが、最近はその静けさが、妙に重い。
「……やはり、集中できていませんね」
背後からかけられた声に、ヴァージルは振り返る。
そこに立っていたのは、同年代の少年だった。
ミラー=ハーグリーヴ。
伯爵家の次男であり、幼少期から皇宮で共に学んできた、数少ない“友人”の一人。
形式上は側近だが、二人きりの時だけは、遠慮のない口を利くことを許している。
「顔に出ていたか」
「ええ。分かりやすく」
ミラーは肩をすくめ、机の端に腰を預ける。
「原因は、最近皇宮にお渡りになられない公女様ですか?」
ヴァージルは、書類から視線を上げずに答えた。
「必要がなければ、来ないだろう」
「以前は、“必要がなくても”いらしていました」
ペン先が、わずかに止まる。
「……距離を置かれている」
「でしょうね」
即答だった。
「むしろ、遅いくらいだと思っていました」
ミラーの言葉に、ヴァージルは眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「殿下は、シャロン様を“大人”として扱いすぎです」
少し言いにくそうにしながらも、ミラーは続ける。
「彼女は十三歳です。が、殿下の隣に立つ覚悟も、理解力も、同年代よりずっとある。だからこそ、無意識に期待していたでしょう?」
その言葉を否定する理由を、ヴァージルは持っていなかった。
彼女は落ち着いていて、言葉を選び、場を読む。
皇后とも自然に会話を交わし、貴族社会の空気を正確に掴んでいた。
――だが、それは「できてしまう」だけだ。
「それなのに殿下は、彼女に踏み込みませんでしたよね」
踏み込まなかったのは、彼女を尊重していたからだ。
だが同時に、それは責任から逃げていたとも言える。
自分が彼女にとって、どういう存在なのか。
その問いに、向き合わずに済ませていた。
ミラーは、少し視線を落とす。
「殿下の前での彼女は、他の方に見せる態度とは違いました」
確かに彼女は、誰に対しても礼儀正しかった。
だが、自分に向ける視線だけは、どこか違っていた。
期待。
信頼。
そして、微かな――不安。
「……だから、距離を取ったと?」
「自分を守るためでしょう」
ミラーはそう言い切った。
「殿下が何も与えないのなら、期待を手放すしかない。十三歳で、それができる人間は、そう多くありません」
ヴァージルは、無意識に指を握りしめていた。
彼女は、拒絶しなかった。
怒りもしなかった。
ただ、静かに、自分の立ち位置を変えた。
――それが、最も残酷だった。
「追わないのですか?命じれば、会えますよ」
分かっている。
皇太子として、それは簡単なことだ。
だが。
「それでは、意味がない」
そう答えた瞬間、自分の中で何かがはっきりした。
彼女が離れたのは、自由意思だ。
それを権力で引き戻すことは、彼女を否定することになる。
ミラーは、少しだけ微笑んだ。
「まったく、手のかかる方たちだ」
ヴァージルは窓の外を見る。そこには、彼女の姿はない。それでも、確かに“不在”を意識してしまう。
名を呼ばなくなった日々。
視線を探してしまう癖。
理由のない焦燥。
これを、何と呼ぶのか。
まだ、分からない。
だが一つだけ、確かなことがある。
彼女が距離を取ったあの日から、自分の世界は、わずかに静かになった。
それは、失ったからではない。
――失ったことに、ようやく気づいたからだ。
ヴァージルは、机に戻り、書類を整える。
皇太子としての役割は、待ってくれない。
だが胸の奥に、小さく灯った感情だけは、まだ、名前を持たないまま残っていた。
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