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しおりを挟むデュクセルの誕生祭も終わり、街もずいぶんと静かになった。
祝祭の名残を惜しむように、通りにはまだ色とりどりの旗が残されているが、人の流れはすでに元の速さへ戻っている。浮き足立っていた空気も、潮が引くように落ち着きを取り戻し、皇都もまた、いつもの秩序へと帰ろうとしていた。
私――シャロン・モーフェットにとっても、それは同じだ。
誕生祭という非日常が終わり、ようやく胸の奥に溜まっていた緊張がほどけ始めた、その矢先だった。
「公女様!公女様!公女様ぁ~!!」
廊下の向こうから、明らかに使用人らしからぬ慌ただしい足音が近づいてくる。反射的に、私はこめかみを押さえた。
「リエッタ……少しは落ち着きなさい」
三つも年下の私にそんなことを言われて、恥ずかしくならないのだろうか。リエッタは息を切らしながらも、へらへらと笑って頭を下げた。
「申し訳ございません~、ですが、ですが!」
「ですが?」
「とんでもない噂を聞いてしまいまして!」
その言い方に、嫌な予感が胸をよぎる。
祝い事が終わった直後というのは、噂が最も増幅されやすい時期だ。誰かが誰と踊った、誰が誰に声を掛けた、そんな些細な出来事が、いつの間にか“未来の確定事項”のように語られる。
「……噂話なら、ほどほどにしなさいと言ったでしょう」
「それが、ほどほどじゃないんです!」
リエッタは身を乗り出し、声をひそめた。
「ヴァージル殿下の、良い人のお話なんです」
その瞬間、心臓がひとつ、強く打った。
――来た。
「……お相手は?」
声が震えないように、意識して平坦に尋ねる。
「モエナ嬢、だそうです」
視界が、一瞬白くなった。
前世でも、何度も耳にした名前。
そして、最終的に私の命を奪う引き金になった名前。
金の髪。
オレンジの瞳。
誰もが可愛いと口を揃える、愛らしい少女。
前世の記憶が、否応なく蘇る。
――ヴァージル殿下には、モエナという愛人がいる。
誰から聞いたのか、正確には覚えていない。ただ、その名前だけは、胸に棘のように残っていた。彼女は貴族ではない。けれど、皇后陛下と血の繋がりがある商家の娘。だからこそ、宮廷に出入りすることができ、殿下の傍にいられたのだろう。
(……やっぱり)
胸の奥が、奇妙なほど静かだった。
怒りも、嫉妬も、なかった。
あるのは、――安堵。
(ヴァージルは、今回は好きだった人と一緒になれるのね)
きっと、私が彼と距離を置いたのが効果的だったのだろう。今までの私は、彼のことが大好きで、何がなんでも彼のそばにいようとしたから。きっとヴァージルも、公爵家の娘を無下にできなかったのだろう。
けれど、それなら。
(……それなら、私は)
私は、今度は殺されなくて済む。
前世の私は、彼らにとって邪魔だった。
公女として、政治的に利用価値があり、そして彼の“本命”ではない存在だった。だから、排除されたのだ。
でも今世では違う。
彼は最初から、彼女の手を取ることができる。
モエナ嬢と婚約し、彼女と共に未来を歩むのなら。
私という存在は、最初から彼らの邪魔にはならないのだから。
それは、ひどく寂しい考えであるはずなのに、胸の奥に広がったのは、確かな安らぎだった。
「公女様……?」
リエッタが、不安そうに私を見上げている。
「大丈夫よ」
そう答えた声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「殿下が幸せになるなら、それでいいわ」
嘘ではない。
少なくとも、そう思おうとした。
それが、最も安全で、最も正しい選択だから。
「ねえ、リエッタ。お茶を用意してくれる?」
私の言葉に、彼女はぎこちなく返事をし、部屋を出る。
1人になった途端、頬を熱い何かが流れ落ち、すっと冷めた。
これで、よかったのだ。
私は、生きたいのだから。
陽の光が、いつもよりも眩しく目を届く。
幸せになって、ヴァージル。
今度こそ、誰にも邪魔されない世界で。
私も、貴方の傍ではない場所で、きっと幸せに生きるから。
――この時の私は、まだ知らなかった。
その“婚約の噂”が、誰の意志によって流されているのかを。
そして、ヴァージルがその噂の中心で、何を守ろうとしているのかを。
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