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しおりを挟むそれは、夢にしては生々しすぎた。
ヴァージルは、自分がいつ眠りに落ちたのかを覚えていない。執務室で書類を整理していたはずだ。夜更けまで机に向かい、ふと目を閉じた、その一瞬だったのかもしれない。
だが次の瞬間、彼の意識は――別の場所にあった。
鼻を突く、鉄の匂い。
濃く、重く、肺の奥まで入り込んでくる血の臭い。
「……っ」
息を吸った拍子に、喉が焼けるような錯覚を覚える。視界が揺れ、足元が定まらない。まるで、急激に多くの魔力を使った直後のような感覚だった。
違う。
これは、俺の身体じゃない。
そう理解した瞬間、視界の端に“それ”が映った。
真っ白なフロアタイルの上に、倒れている人影。
細い肢体。広がる血。動かない指先。そして、その花嫁姿。……彼女に、似ている。その桃色の柔らかい髪も、陶器のように透き通る肌も。
「……シャ……」
声が漏れた。
けれどそれは、ヴァージル自身の声ではなかった。
低く、掠れ、焦りに満ちた声。
自分よりも年上で、しかし今にも壊れてしまいそうな――そんな声。
視界が、走る。
足が勝手に動き、床を蹴り、倒れた人物へと駆け寄る。膝をついた衝撃で、血が滲む。そして手のひらで、花嫁のウェディングドレスに広がる血に触れた。温かい。まだ、温度が残っている。
「シャロン……!」
その名を呼んだ瞬間、ヴァージルの胸が強く締め付けられた。
やはり、シャロンだ。今、俺の目の前で倒れているのは。
白いドレスは赤く染まり、呼吸は浅く、ほとんど感じられない。閉じられた瞼の下で、微かに眼球が動いたような気がした。
「目を……目を開けてくれ……!」
必死に声をかける。
魔力が溢れ出す。制御もせず、ただ叩き込むように。
治癒魔術。そうか、これは、キャスパーの――
――効かない。
彼の焦りと絶望が痛いくらいに伝わってくる。
どれほど優れた魔術であろうと、どうにもならない“境界”がある。その事実を、この身体の主は、誰よりも理解していた。
「……嘘だ、シャロン、こんなの……」
声が震える。
「……死ぬのか……?」
その理解が下った瞬間、胸の奥に沈殿していた感情が一気に噴き出した。
悔恨。
自責。
怒り。
誰に向けたものか、ヴァージルには分からない。ただ、その感情の濁流に呑まれ、息が詰まる。
――まだ、温かいのに。
――魔力は、残っているのに。
――どうして。
視界が滲む。
それでも、必死にシャロンの顔を覗き込む。
その時だった。
閉じられていたはずの彼女の瞼が、かすかに開いた。
焦点の合わない瞳。
何かを探すように、彷徨う視線。
「……に……い……」
音にならない声。
けれど、はっきりと“意味”だけが伝わってくる。
お兄様。
その瞬間、視界の主の記憶が流れ込んでくる。彼女を愛し、愛された思い出が。
「……ああ」
低い声が、震える。
「……兄だ……お前の兄様だよ……」
温かさを失いかけている彼女の手を強く握ると、シャロンはホッとしたように口元を緩ませる。
何故シャロンがこんな目に。
これは、夢なのか?それとも――
キャスパーの怒りが、確かな輪郭を持って燃え上がる。
「……陛下……」
握りしめた拳が、血で染まっていく感覚。
「……ヴァージル陛下!あなたがいながら何故……!」
その言葉を最後まで聞くことはできなかった。
世界が、唐突に引き裂かれる。
引き剥がされるような感覚。
視界が反転し、砕け、光に溶けていく。
「……ッ!」
ヴァージルは、ベッドの上で跳ね起きた。
荒い呼吸。
額から流れる冷や汗。
胸の奥が、焼け付くように痛む。
夢――ではない。
そう直感していた。
あまりにも具体的で、あまりにも感情が重すぎる。
「……今のは……」
自分の知らない記憶。
自分の知らない“未来”。
だが、はっきりと分かることがある。
シャロンは、死んだ。
そして、その死を看取った者がいる。恐らく、キャスパーだ。あの最上級の治癒魔法は、彼ほどの魔術師でないと簡単には使えない。
ヴァージルは、無意識のうちに自分の胸を掴んでいた。まるで、そこに答えがあるかのように。
「……俺が……いながら……?」
彼女は、誰と結婚したんだ?
キャスパーが俺の名を呼んだということは、俺もあの場に招待されていたんだろう。
いや、それとも……
俺が、彼女と?
ヴァージルは静かに息を吐く。
まるで――自分が、その場にいたかのような錯覚だけが、消えずに残っている。
そして彼女の血の温かさが、まだ手のひらに残っている気さえした。
彼女が死ぬとしたら、何故?
誰が殺したんだ?
あらゆる疑問の答えは、まだ出ない。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――このまま、何も知らずにはいられない。
あの記憶がキャスパーの物だとすれば、俺に見せたのも彼のはずだ。
魔塔のある方向に目をやり、振り返って上着を手に取る。
「行くか、友人に会いに」
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