今さら戻れと言われても....

きららののん

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ガタガタと激しく揺れる馬車の振動が、私の体に絶え間なく打ちつけられる。

クッションもない硬い床板の上で、私は泥に汚れたドレスを抱きしめるようにして座り込んでいた。

「おい、生きてるか? 公爵令嬢様よ」

御者台からの冷ややかな声が、小さな小窓を通じて聞こえてくる。

御者は、父が雇った無頼漢のような男だった。

「ええ、生きていますわ。残念ながら」

私は声を振り絞って答えた。

喉が焼けるように渇き、唇は乾燥してひび割れている。

「ふん、しぶとい女だ。まあ、ここから先は魔物の領域だ。せいぜい喉を鳴らして怯えてろ」

男は下卑た笑い声を上げ、馬に鞭を当てた。

窓のない荷台からは、外の景色は見えない。

ただ、急激に気温が下がっていくのだけは、肌に刺さるような冷気で分かった。

アステリア王国の王都は、年中温暖な気候に恵まれていた。

けれど、これから向かうヴォルガード領は、一年の大半を雪に閉ざされた極寒の地。

「……寒い。けれど、あの場所よりはマシね」

私は震える手で、薄い毛布を肩にかけた。

豪華なドレスも、今やただの汚れた布切れだ。

王宮で浴びせられた罵声や、ジュリアン殿下の冷酷な瞳、セアラの歪んだ笑い。

それらを思い出すたびに、胸の奥がキリリと痛む。

けれど、不思議と涙は出なかった。

絶望のどん底まで叩き落とされたことで、私の中にあった「令嬢としての矜持」が、別の何かに形を変えたような気がした。

「泥を啜ってでも、生き延びてやるわ……」

私は暗闇の中で、誰に聞かせるでもなく誓った。

もし私がここで野垂れ死ねば、セアラたちは泣き真似をしながら喜ぶだろう。

そんな無様な結末だけは、死んでも御免だった。

突然、馬車が激しく揺れ、急停止した。

「ヒヒィーン!」

馬のいななきと共に、外から何かが激突する鈍い音が響く。

「な、なんだ! 魔物か!? ひっ、助けてくれ!」

御者の悲鳴が聞こえた直後、ドスンという大きな衝撃が荷台を襲った。

私は転がるようにして床に伏せ、息を殺した。

外では獣のような低い唸り声と、肉を裂く不気味な音が響いている。

(ここまでなの……? 辺境に着く前に、魔物の餌食になるなんて)

私は死を覚悟し、目を閉じた。

しかし、そのとき。

空気を震わせるような、重厚な金属音が響いた。

「……邪魔だ。失せろ」

低く、けれど氷のように冷徹な男の声。

直後、鋭い剣閃が空を切り裂くような音が聞こえ、魔物の断末魔が響き渡った。

静寂が戻る。

ただ、風の音と、ザッ、ザッという雪を踏みしめる足音だけが近づいてくる。

馬車の扉が、外から力任せに抉じ開けられた。

眩しい光が差し込み、私は思わず目を細める。

逆光の中に立っていたのは、漆黒の毛皮を纏い、血に濡れた大剣を手にした騎士だった。

「……クロムウェル公爵家からの『荷物』というのは、貴様のことか?」

男の瞳は、燃えるような赤色をしていた。

その冷たい視線に射抜かれ、私は息を呑む。

「……荷物、ではありません。私はエリシア。エリシア・ヴァン・クロムウェルです」

私は震える足を叱咤し、泥にまみれた姿のまま、ゆっくりと立ち上がった。

男は忌々しそうに鼻を鳴らし、剣を鞘に収めた。

「名乗る必要はない。どうせすぐに死ぬ身だ」

彼こそが、北の辺境を統治する「氷の死神」。

カシアン・ド・ヴォルガード辺境伯その人であった。
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