どうぞ婚約破棄なさってください

きららののん

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第一話【祝福の夜に響く破棄の言葉】

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きらびやかなシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床を照らし出す。

王立学園の卒業記念パーティーは、この国を担う若き貴族たちで溢れかえっていた。色とりどりのドレスをまとった令嬢たちは花のように咲き誇り、真新しい正装に身を包んだ子息たちは、未来への希望に満ちた顔で談笑している。

その喧騒の中心から少し離れた場所で、一人の令嬢が静かにグラスを傾けていた。

「リノエル様、本日も本当にお美しいですわ」

「ありがとうございます、マルグリット様。その真紅のドレスも、とてもよくお似合いです」

完璧な微笑み。完璧な所作。

子爵令嬢でありながら、王太子アレス・フォン・エルグランド殿下の婚約者であるリノエル・フォーミュラーは、今日も『完璧な淑女』を演じていた。

誰に声をかけられても淀みなく言葉を返し、相手を立てることを忘れない。その姿は、未来の国母として申し分ないと、誰もが口を揃えて評価していた。

けれど、その評価には、いつも微かな棘が含まれていることをリノエルは知っている。

『氷の令嬢』

『感情の読めない、美しい人形』

そう囁かれていることも。

(……また、あの視線)

リノエルは内心でため息をつきながら、視線が注がれる先をさりげなく目で追った。

そこには、数人の令嬢に囲まれながらも、明らかにこちらを意識している一人の女性がいた。庇護欲をそそる可憐な容姿。潤んだ瞳。今にも泣き出しそうな表情で、リノエルの方をちらりと見ては、慌てて目を伏せている。

男爵令嬢、エミリア・ブラウン。

王都を離れた地方領から、鳴り物入りで学園に編入してきた『悲劇のヒロイン』。そして、リノエルの婚約者であるアレス殿下が、今最もご執心のご令嬢。

(お芝居がお上手なこと)

リノエルは心の中で呟き、表情には一切出さずにシャンパンを一口含んだ。

その時だった。

それまで会場を彩っていた優雅なワルツが、不自然に途切れ、ぴたりと止んだ。

人々の楽しげな会話が波のように引いていき、シン、と静寂がホールを支配する。誰もが何事かと視線を彷徨わせ、やがて入り口の一点に釘付けになった。

そこには、毅然とした態度で立つ王太子アレスと、その腕に怯えるようにしがみつくエミリアの姿があった。

「まあ……!」

「なんてこと……リノエル様がいらっしゃるというのに」

ひそひそと交わされる声が、リノエルの耳にも届く。

同情、好奇、侮蔑、そして歓喜。様々な感情を含んだ視線が、刃のようにリノエルに突き刺さった。

本来、アレス殿下の隣に立つべきエスコート相手は、長年の婚約者である自分のはず。それを承知の上での、あからさまな示威行為。

だが、リノエルは動じなかった。

まるで舞台の上に立つ役者を見つめる観客のように、ただ静かに二人を見つめている。その表情は能面のように変わらず、内心の動揺など微塵も感じさせない。

(さあ、始めなさいませ、殿下。あなたの茶番を)

アレスは、集まった注目を一身に浴びることに満足したのか、ゆっくりとリノエルの方へ歩みを進めてくる。一歩、また一歩と近づくたびに、周囲の貴族たちがモーゼの海割れのように道を開けた。

エミリアはアレスの腕の中で、か弱く震えている。その姿は、まるでこれから起こるであろう悲劇に耐えられない、心優しき少女そのものだ。

やがて、アレスはリノエルの目の前で足を止めた。

「皆、聞いてくれ!」

静まり返ったホールに、朗々とした声が響き渡る。

「私が、どれほど苦悩してきたか! そして、ここにいるエミリアが、どれほどか弱い存在であるか!」

芝居がかった口上に、リノエルは思わず口の端が吊り上がりそうになるのを必死でこらえた。

「リノエル・フォーミュラー!」

アレスが、糾弾するようにリノエルの名を叫ぶ。

「お前のその氷のような心に、私はもう耐えられない! お前は私の愛するエミリアを、その家柄を盾に虐げてきた! そうだろ!?」

アレスが同意を求めると、エミリアは待っていましたとばかりに顔を伏せ、か細い声で呟いた。

「そんな……私はただ、殿下と真実の愛を……っ」

その言葉に、アレスは一層勢いづく。

「そうだ! 我々は真実の愛で結ばれた! 家柄や政略のためではない、純粋な愛だ! それをお前は……! 嫉妬に駆られ、エミリアに数々の嫌がらせを行った!」

周囲の貴族たちが、ざわめき始める。「やはりそうだったのか」「なんて酷いことを……」。彼らの多くは、王太子の言葉を疑うことなどしない。子爵令嬢が男爵令嬢をいじめるなど、よくある話だとでも思っているのだろう。

リノエルは、ただ黙ってアレスを見つめ返していた。

その蒼い瞳には、何の感情も浮かんでいない。怒りも、悲しみも、絶望も。

まるで、嵐が過ぎ去るのを待つ凪いだ海面のようだった。

その静寂が、アレスをさらに苛立たせた。彼は、リノエルが泣いて許しを請うか、あるいは怒りに震える姿を想像していたのだ。

だが、目の前の女は、ただ美しい人形のようにそこに佇んでいるだけ。

自尊心を傷つけられたアレスは、ついに、この茶番のクライマックスを叫んだ。

「よって私は、真実の愛のために! リノエル・フォーミュラー! お前との婚約を、今この場で破棄する!」

祝福されるべき卒業の夜に響き渡った、決別の言葉。

その言葉を、リノエルは、まるで待ちわびていたかのように、静かに受け止めていた。

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