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第二話【用意していた言葉】
しおりを挟むシン、とホールは水を打ったように静まり返っていた。
誰もが息をのみ、壇上の悲劇のヒロインを演じる王太子と、その断罪の言葉を浴びせられた子爵令嬢を凝視している。
やがて、渦中のリノエルが、ふわりとスカートの裾を持ち上げた。
その動きは、まるでスローモーションのように、そこにいる全ての者の目に焼き付く。焦りも、怒りも、悲しみもない。ただ、長年体に染み付いた、完璧で流麗なカーテシー。
深く、優雅に頭を下げたリノエルは、ゆっくりと顔を上げた。
その唇には、先ほどまで浮かべていた社交用の微笑みではなく、見る者を射抜くような、どこか挑戦的な笑みが浮かんでいた。
「謹んで、お受けいたしますわ。アレス殿下」
凛、と張りのある声が、静寂を切り裂いた。
予想外の言葉に、アレスが虚を突かれたように目を見開く。
「なっ……」
「婚約破棄、確かに拝聴いたしました。これまで長きにわたり、お心にもない婚約を続けさせてしまいましたこと、大変申し訳なく思います」
リノエルはアレスからエミリアへと視線を移し、再び完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
「そしてエミリア様。アレス殿下の『真実の愛』の御相手がお優しいあなたで、私も安心いたしましたわ。どうぞ、末永くお幸せに」
完璧な祝福。完璧な皮肉。
リノエルの言葉には、一片の未練も感じられなかった。それどころか、まるで厄介払いでもするかのような、清々しささえ漂っている。
「き、貴様……! 悔しくないのか!」
ようやく我に返ったアレスが、震える声で叫ぶ。自分の思い描いた脚本通りに進まないことに、彼のプライドはひどく傷つけられたようだった。
リノエルはそんなアレスを憐れむように見つめ、小さく首を傾げた。
「悔しい、とは? 殿下とエミリア様の崇高な愛の成就を、私が邪魔立てするとでもお思いで?」
「そ、それは……」
「ご心配には及びません。私は物分かりの悪い女ではございませんから。むしろ、ようやく肩の荷が下りました」
そう言って、リノエルは心からの笑みを浮かべたように見せた。
「それでは皆様、わたくしはこれにて失礼いたします。どうぞパーティーをお続けくださいませ。今宵は、お二人の輝かしい未来を祝う、記念すべき夜なのですから」
リノエルはその場にいる全ての貴族たちに向かって優雅に一礼すると、くるりとアレスに背を向けた。
その背筋は、まっすぐに伸びている。
迷いも、躊躇も、一切感じさせない足取りで、彼女はホールの出口へと向かって歩き始めた。
「ま、待て! リノエル! 逃げるのか!」
背後からアレスの焦った声が飛んでくる。
だが、リノエルは振り返らなかった。
(逃げる? いいえ、殿下。わたくしは、ここから羽ばたくのです)
唇の端に浮かんだ本当の笑みを誰にも見せることなく、リノエル・フォーミュラーは、自らの意思で、偽りの婚約という名の鳥籠から飛び立った。
その華麗すぎる退場劇を、ホールにいた誰もが、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
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