どうぞ婚約破棄なさってください

きららののん

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十四話【商人との駆け引き】

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領地が活気づき、特産品である『月の雫』の評判が立つと、噂を聞きつけた行商人が、初めてフォーミュラー領を訪れた。

男はマルタンと名乗り、人の良さそうな笑顔を浮かべていたが、その目の奥には、辺境の地を侮る狡猾な光が宿っていた。

「いやあ、素晴らしいですな、領主代行様! この『月の雫』、まさしく奇跡の薬です! つきましては、このマルタンが、ぜひとも買い取らせていただきたい!」

応接室で、マルタンは大げさな身振り手振りでリノエルを褒めちぎる。

リノエルは、表情を変えずに紅茶を一口飲んだ。

「お褒めにあずかり光栄ですわ、マルタン殿。それで、お値段は?」

「はい! これほどの品ですからね、私も精一杯、勉強させていただきます! こちらの小瓶一つにつき、銀貨一枚でいかがでしょう!」

マルタンは、自信満々にそう言った。

その瞬間、リノエルの隣に控えていたクロエが、思わず「えっ」と声を漏らしそうになるのを、リノエルは視線で制した。

銀貨一枚。

それは、あまりにも安すぎる値段だった。材料費を考えれば、ほとんど利益は出ない。この商人は、リノエルが世間知らずの若い女だと完全に高を括り、足元を見ているのだ。

リノエルは、静かにカップを置いた。

「マルタン殿。冗談がお上手ですこと」

その声は穏やかだったが、空気がぴり、と引き締まった。

「え……?」

「この香油の主成分である『月光草』が、どれほど希少なものか、ご存じないはずはありますまい。それに、この治癒効果。王都で売られている並のポーションよりも、ずっと効果が高いことも、お調べ済みでしょう?」

リノエルは、マルタンの目をまっすぐに見据えた。

「王都のギルドに持ち込めば、この小瓶一つ、安くとも金貨一枚の値はつきますわ。それを銀貨一枚とは。わたくしを、ずいぶんと見くびられたものですね」

マルタンの額に、じわりと汗が滲む。

目の前の若い令嬢は、ただ美しいだけの人形ではなかった。薬草の知識も、王都の相場も、全てを把握している。

「い、いや、これはその……辺境の地ということで、輸送費などもかかりますので……」

しどろもどろになるマルタンに、リノエルは追い打ちをかける。

「その輸送費とやらを差し引いても、銀貨一枚はありえませんわね。交渉の余地もないようです。お話は、これまでにいたしましょう」

リノエルが冷たく言い放ち、席を立とうとした。

「ま、お待ちください!」

マルタンが、慌てて声を上げる。

この香油が、莫大な利益を生む金の卵であることは間違いない。このまま手ぶらで帰るわけにはいかなかった。

「わ、分かりました! では、金貨一枚で! いや、当方の利益を考え、銀貨八枚でいかがでしょう!?」

ここからが、本当の交渉だった。

結局、一時間にわたる駆け引きの末、リノエルは『月の雫』一瓶を銀貨五枚で売るという、当初の目標以上の価格で契約を成立させた。

さらには、今後、マルタンの商会が独占的にこの香油を扱う代わりに、領地に必要な物資を優先的に、かつ安価で卸すという有利な条件まで引き出したのだ。

マルタンが、汗だくになって引き上げていく。

その背中を見送りながら、クロエは興奮した様子で言った。

「やりましたね、リノエル様! あの商人、たじたじでした!」

「ふふ。商売は、情報戦ですもの。相手を知り、己を知れば、百戦危うからず、よ」

リノエルは、してやったりという顔で微笑んだ。

王宮で学んだ経済学や交渉術が、今、この辺境の地で、大きな武器となっていた。

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