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最終話【epilogue】
しおりを挟むあれから、五年。
かつてフォーミュラー子爵領と呼ばれた土地は、今や『月の公爵領』として、王国で最も豊かで、美しい場所として知られていた。
領主の館の執務室。
公爵となったカイは、山積みの書類に目を通していた。その隣では、公爵夫人となったリノエルが、新しい薬草の研究報告書をチェックしている。
「リノエル。隣国の商人から、新しい品種の小麦を買い付けたいと申し出があったが、どう思う?」
「まあ、素敵ですわね。ですが、その前に、私たちの畑の土壌に合うかどうか、専門家の意見を聞くべきですわ。すぐに人を手配します」
二人のやり取りは、実にスムーズで、阿吽の呼吸だった。
コンコン、と扉がノックされる。
「お父様、お母様!」
入ってきたのは、カイの鋼色の髪と、リノエルの蒼い瞳を受け継いだ、五歳になる息子のアルフレッドだった。
「アルフ。お仕事の邪魔をしてはいけませんよ」
後から、侍女のクロエが、苦笑しながら追いかけてくる。
「いいんだ、クロエ。ちょうど休憩にしようと思っていたところだ」
カイは、アルフレッドをひょいと抱き上げ、高い高いをした。きゃっきゃっと、子供の明るい笑い声が部屋に響く。
リノエルは、その光景を、愛おしそうに見つめていた。
(こんな日が来るなんて、あの頃は、夢にも思わなかったわ)
ふと、クロエが思い出したように言った。
「そういえば奥様。先日、王都から来た商人から、噂話を聞きましたわ」
「なあに?」
「北の、そのまた先の辺境の地で、元王太子殿下が、農場を始めたそうです。奥様も、ご自身で……」
「エミリア、でしたかしら」
「はい。その方と、ご夫婦で、細々と暮らしていらっしゃるとか」
その名を聞いても、リノエルの心は、何の波も立たなかった。
かつて自分を捨て、絶望の淵に追いやった男と女。
だが、今となっては、遠い世界の、どうでもいい物語の登場人物でしかなかった。
リノエルは、窓の外に広がる、青い空を見上げた。
豊かに広がる緑の大地。人々の楽しげな声。腕の中で笑う、愛する夫と息子。
自分の幸せは、全てここにある。
「そう。……どうぞ、お幸せに」
その言葉は、もう、皮肉ではなかった。
何の感情もこもっていない、ただ、穏やかな風の中に消えていく、独り言。
リノエル・アスフォード公爵夫人は、過去を振り返ることなく、今ここにある幸せを胸に、優しく微笑んだ。
彼女の、本当の物語は、これからも、この愛する土地と、愛する家族と共に、続いていく。
【完】
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