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王都を出発して、三日目のことでした。
辺境へ向かう道は、王都のそれとは比べ物にならないほど整備がされておらず、馬車は常にガタガタと不快な揺れをわたくしに与え続けています。
「……」
そんな揺れなど意にも介さず、わたくしは窓の外を流れる景色を眺めながら、侍女が持たせてくれた特製の焼き菓子を頬張っておりました。
サクサクとした歯ごたえと、口の中に広がるバターの香り。ああ、幸せですわ。
馬車の外では、護衛であるゼノン騎士団長が、常に馬上で厳しい表情を崩さずに周囲を警戒しています。
時折、馬車の窓から彼と目が合いますが、彼はすぐに興味がなさそうに視線を逸らしてしまいます。
実にお堅い方。もう少し愛想というものを……いえ、彼にそれを求めるのは、カボチャにメロンの味を期待するようなものですわね。
そんなことを考えておりましたら、突然、ゴトンッという大きな衝撃と共に、馬車が大きく傾き、止まりました。
「きゃっ」
思わず、淑女らしい小さな悲鳴を上げてしまいます。
手から滑り落ちた焼き菓子が、無残にも床に転がってしまいましたわ。あぁ、わたくしの幸せが……。
「どうしたのです!?」
わたくしが声を上げると、すぐに外から御者の慌てた声が聞こえてきました。
「申し上げます! 昨晩の雨でできたぬかるみに、左の後輪が完全にはまってしまいました!」
扉が開けられ、ゼノン騎士団長が忌々しげな顔で状況を報告します。
「かなり深く食い込んでいる。このままでは動かせん」
「まあ、大変ですわね」
わたくしは、床に落ちた焼き菓子に別れを告げ、淑女らしく心配そうな顔を作って見せました。
外では、御者と数人の供の者たちが、車輪を動かそうと躍起になっています。
「せーの!」「うりゃあ!」
ですが、一度深くはまり込んでしまった車輪は、大の男たちが数人がかりで押しても引いても、びくともしません。
ゼノン騎士団長も馬から降り、自ら車輪の具合を確かめていますが、その表情は険しいままでした。
「……だめだ。これでは埒が明かん。今夜はここで野営する。明日、近隣の村から人を呼んで助力を請うしかない」
騎士団長のその決定に、皆ががっくりと肩を落としました。
わたくしは、馬車の窓からそっとため息をつきます。
(まったく、殿方は頼りになりませんわね。これでは、明日になっても美味しい朝の紅茶がいただけませんわ)
その夜。
皆が焚き火を囲み、簡素な食事をとった後、早々に眠りにつきました。
長旅の疲れと、今日の無駄骨で、皆すっかり疲弊しているのでしょう。
馬車の中の寝台に横になりながら、わたくしは、外で番をしているゼノン騎士団長の気配が遠のくのを、じっと待っていました。
やがて、辺りが完全な静寂に包まれた頃。
わたくしは、音を立てないようにそっと馬車を降りました。
ひんやりとした夜気が、薄いナイトドレスの生地を通して肌を撫でます。
「さて、と」
わたくしは、問題の左後輪の前に屈みこみました。
見事に、車軸の近くまで泥に埋まっています。これでは、確かに男性数人の力ではどうにもなりませんわね。
わたくしは、誰にも見られていないことを確認すると、スカートの裾をたくし上げ、ぐっと腰を落としました。
そして、馬車の底、車軸の硬い部分に両手をかけます。
「ふんっ……!」
淑女にあるまじき声が、小さく喉から漏れました。
ずぶずぶと泥に沈んでいた車輪が、ゆっくりと持ち上がっていくのを感じます。
成人男性が五人は乗れるこの巨大な馬車も、わたくしの手にかかれば、少し重いテーブルを持ち上げるのと大差ありません。
わたくしは、馬車を片手で軽々と持ち上げたまま、もう片方の手で車輪を掴み、ぬかるみから引きずり出しました。
そして、硬い地面の上まで移動させると、ゆっくりと馬車を下ろします。
ついでに、馬車全体を少しだけ前に押し、もうぬかるみにはまらない安全な場所まで動かしておきました。
「ふう。良い運動になりましたわ」
額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭い、泥で汚れた手を清めるために近くの小川へ向かいます。
証拠は、決して残してはなりません。
自分の手とナイトドレスの裾を綺麗に洗い、何事もなかったかのように馬車の中に戻ると、わたくしは満足のため息をつきながら、再び眠りについたのでした。
翌朝。
「な、なんだこれは!?」「車輪が!」「馬車が動いているぞ!」
外の騒がしさに、わたくしは目を覚ましました。
窓から覗くと、御者たちが信じられないといった表情で、ぬかるみから脱出している馬車を囲んでいます。
「一体、どういうことだ……」
報告を受けたゼノン騎士団長が、険しい顔で現場を検証していました。
地面には、車輪が動いた跡がくっきりと残っています。ですが、それを動かしたであろう人や、獣の足跡はどこにも見当たりません。
「……まるで、馬車が自分で動いたみたいだ……」
誰かが、そんな非現実的なことを呟きました。
その時、ふと、ゼノン騎士団長の鋭い翡翠の瞳が、こちらを向きました。
馬車の中で優雅に紅茶を飲んでいたわたくしと、ばっちりと目が合います。
彼の瞳に、初めて疑念の色が浮かんだのを、わたくしは見逃しませんでした。
ですが、もちろん、知らぬ存ぜぬを貫きますわ。
わたくしは、彼に向かって、天使のように無垢な笑みを浮かべてみせたのでした。
辺境へ向かう道は、王都のそれとは比べ物にならないほど整備がされておらず、馬車は常にガタガタと不快な揺れをわたくしに与え続けています。
「……」
そんな揺れなど意にも介さず、わたくしは窓の外を流れる景色を眺めながら、侍女が持たせてくれた特製の焼き菓子を頬張っておりました。
サクサクとした歯ごたえと、口の中に広がるバターの香り。ああ、幸せですわ。
馬車の外では、護衛であるゼノン騎士団長が、常に馬上で厳しい表情を崩さずに周囲を警戒しています。
時折、馬車の窓から彼と目が合いますが、彼はすぐに興味がなさそうに視線を逸らしてしまいます。
実にお堅い方。もう少し愛想というものを……いえ、彼にそれを求めるのは、カボチャにメロンの味を期待するようなものですわね。
そんなことを考えておりましたら、突然、ゴトンッという大きな衝撃と共に、馬車が大きく傾き、止まりました。
「きゃっ」
思わず、淑女らしい小さな悲鳴を上げてしまいます。
手から滑り落ちた焼き菓子が、無残にも床に転がってしまいましたわ。あぁ、わたくしの幸せが……。
「どうしたのです!?」
わたくしが声を上げると、すぐに外から御者の慌てた声が聞こえてきました。
「申し上げます! 昨晩の雨でできたぬかるみに、左の後輪が完全にはまってしまいました!」
扉が開けられ、ゼノン騎士団長が忌々しげな顔で状況を報告します。
「かなり深く食い込んでいる。このままでは動かせん」
「まあ、大変ですわね」
わたくしは、床に落ちた焼き菓子に別れを告げ、淑女らしく心配そうな顔を作って見せました。
外では、御者と数人の供の者たちが、車輪を動かそうと躍起になっています。
「せーの!」「うりゃあ!」
ですが、一度深くはまり込んでしまった車輪は、大の男たちが数人がかりで押しても引いても、びくともしません。
ゼノン騎士団長も馬から降り、自ら車輪の具合を確かめていますが、その表情は険しいままでした。
「……だめだ。これでは埒が明かん。今夜はここで野営する。明日、近隣の村から人を呼んで助力を請うしかない」
騎士団長のその決定に、皆ががっくりと肩を落としました。
わたくしは、馬車の窓からそっとため息をつきます。
(まったく、殿方は頼りになりませんわね。これでは、明日になっても美味しい朝の紅茶がいただけませんわ)
その夜。
皆が焚き火を囲み、簡素な食事をとった後、早々に眠りにつきました。
長旅の疲れと、今日の無駄骨で、皆すっかり疲弊しているのでしょう。
馬車の中の寝台に横になりながら、わたくしは、外で番をしているゼノン騎士団長の気配が遠のくのを、じっと待っていました。
やがて、辺りが完全な静寂に包まれた頃。
わたくしは、音を立てないようにそっと馬車を降りました。
ひんやりとした夜気が、薄いナイトドレスの生地を通して肌を撫でます。
「さて、と」
わたくしは、問題の左後輪の前に屈みこみました。
見事に、車軸の近くまで泥に埋まっています。これでは、確かに男性数人の力ではどうにもなりませんわね。
わたくしは、誰にも見られていないことを確認すると、スカートの裾をたくし上げ、ぐっと腰を落としました。
そして、馬車の底、車軸の硬い部分に両手をかけます。
「ふんっ……!」
淑女にあるまじき声が、小さく喉から漏れました。
ずぶずぶと泥に沈んでいた車輪が、ゆっくりと持ち上がっていくのを感じます。
成人男性が五人は乗れるこの巨大な馬車も、わたくしの手にかかれば、少し重いテーブルを持ち上げるのと大差ありません。
わたくしは、馬車を片手で軽々と持ち上げたまま、もう片方の手で車輪を掴み、ぬかるみから引きずり出しました。
そして、硬い地面の上まで移動させると、ゆっくりと馬車を下ろします。
ついでに、馬車全体を少しだけ前に押し、もうぬかるみにはまらない安全な場所まで動かしておきました。
「ふう。良い運動になりましたわ」
額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭い、泥で汚れた手を清めるために近くの小川へ向かいます。
証拠は、決して残してはなりません。
自分の手とナイトドレスの裾を綺麗に洗い、何事もなかったかのように馬車の中に戻ると、わたくしは満足のため息をつきながら、再び眠りについたのでした。
翌朝。
「な、なんだこれは!?」「車輪が!」「馬車が動いているぞ!」
外の騒がしさに、わたくしは目を覚ましました。
窓から覗くと、御者たちが信じられないといった表情で、ぬかるみから脱出している馬車を囲んでいます。
「一体、どういうことだ……」
報告を受けたゼノン騎士団長が、険しい顔で現場を検証していました。
地面には、車輪が動いた跡がくっきりと残っています。ですが、それを動かしたであろう人や、獣の足跡はどこにも見当たりません。
「……まるで、馬車が自分で動いたみたいだ……」
誰かが、そんな非現実的なことを呟きました。
その時、ふと、ゼノン騎士団長の鋭い翡翠の瞳が、こちらを向きました。
馬車の中で優雅に紅茶を飲んでいたわたくしと、ばっちりと目が合います。
彼の瞳に、初めて疑念の色が浮かんだのを、わたくしは見逃しませんでした。
ですが、もちろん、知らぬ存ぜぬを貫きますわ。
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