悪役令嬢は、婚約破棄されたので自由に生きます!

きららののん

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旅の準備が整い、皆が何事もなかったかのように出発しようとしている中、ゼノン騎士団長だけが、まだ例のぬかるみの前で腕を組み、考え込んでおりました。
その眉間には、昨日よりもさらに深い谷が刻まれています。

「騎士団長様? そろそろご出発なさらないと、日が暮れてしまいますわよ」

わたくしが馬車の窓からひょっこりと顔を出して声をかけると、彼はゆっくりとこちらに顔を向けました。
その翡翠の瞳は、もはや疑念という色を隠そうともせず、まっすぐにわたくしを射抜いています。
あらあら、怖いですこと。

「……アイナ嬢」

彼が、低い声でわたくしを呼び、馬車のほうへ近づいてきます。
そのただならぬ雰囲気に、御者や他の者たちもごくりと唾を飲み込みました。

「昨晩、何か物音を聞いたり、変わったことを見たりはしなかったか」

「物音、でございますか?」

わたくしは小首を傾げます。

「いいえ、何も。長旅の疲れもあって、ぐっすりと眠っておりましたわ。何かございましたの?」

「……本当に、何も見ていないんだな?」

念を押すような問いかけ。
その真剣な眼差しに、わたくしはにっこりと完璧な笑みで返します。

「ええ、誓って。……まあ、でも」

「でも、なんだ」

わたくしが思わせぶりに言葉を切ると、騎士団長はぐっと身を乗り出してきました。
食いついてきましたわね。

「夜中にふと目が覚めた時、窓の外に、キラキラと光る小さな何かが飛んでいたような……いないような……」

「光る何か、だと?」

「ええ。きっと、この辺りの森に住む、いたずら好きな妖精さんだったのかもしれませんわね。親切に、わたくしたちの馬車を助けてくださったのでしょう。ふふっ」

わたくしがそう言って微笑むと、ゼノン騎士団長の顔から、すっと表情が消えました。
彼の額に、青筋が一本、ぴくりと浮き出たのを見逃しませんでしたわ。

「……妖精、だと?」

地を這うような低い声。
どうやら、わたくしのユーモアはお気に召さなかったようです。

「貴女は、俺をからかっているのか」

「まあ、とんでもない。わたくしは、ただ事実から導き出される、最も論理的な可能性を申し上げたまでですわ。他に説明がつきますの?」

「……」

騎士団長は、ぐっと言葉に詰まりました。
ええ、説明などつくはずがありませんわ。常識的に考えれば、あの馬車がひとりでに動くことなどありえないのですから。
彼は、わたくしの足元、ドレスの裾にちらりと視線を落としました。
泥などの汚れがついていないか、確認しているのでしょう。
残念でした。昨晩のうちに、完璧に綺麗にしておきましたもの。

「貴女は……一体何者なんだ」

それは、疑念というよりも、純粋な困惑から発せられた言葉のように聞こえました。
国一番の騎士であり、常に冷静沈着、現実主義者である彼の常識が、今、目の前でぐらぐらと揺らいでいるのでしょう。
その様子が、なんだかとてもおかしくて、わたくしは思わずくすくすと笑ってしまいました。

「わたくしは、見ての通り、か弱く非力な侯爵令嬢ですわ、ゼノン様」

「……その言葉が、今や少しも信じられん」

騎士団長は、大きなため息をつくと、わたくしから目をそらし、馬にまたがりました。
これ以上、わたくしを問いただしても無駄だと悟ったのでしょう。

「……出発する! 先を急ぐぞ!」

彼の号令で、馬車は再びゆっくりと動き始めました。
ですが、昨日までとは、明らかに空気が違います。
馬上の騎士団長は、これまで以上に鋭い視線で、頻繁にこちらの馬車の様子を窺っているのがわかりました。
彼はもう、わたくしをただの「元・皇太子妃候補」としては見ていません。
得体の知れない、「謎の女」として認識したのです。

(あらあら、ずいぶんと疑いの目を向けてくださいますのね)

わたくしは、お茶請けのクッキーを一枚、口に運びながら、内心で呟きました。

(そんなにわたくしのことが、気になりますの?)

これから先の旅が、ほんの少しだけ、楽しくなりそうな気がいたしました。
この堅物な騎士様が、わたくしの秘密にどこまで迫れるのか。
見ものですわね。
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