境界を飛ぶリス

じゅうごにち

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1.四本足の蜘蛛

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私が誘拐されてから、三年がたった。今は冷え込みの厳しい十二月。来月で七歳になる。何事も起こらなければ四月には小学校に入学して、真新しいランドセルを背負うつもりだっただろうか。この六畳の世界が私のすべて。特に不満はない。誘拐された身としては、衣食住に困らず、扱いもよい。前のようにホームシックを起こして騒ぐことはなくなったし、彼も私という八つ当たり対象に飽きたのではないか。そう思うようになった。
私を誘拐した彼は仕事で夜遅くに帰ってくると、よく私を怒鳴りつける。私が何かしたというわけではない。ただのたまりにたまったストレスのはけ口だ。
「お前はなあ、もう見捨てられたんだよ! 所詮はいくらでも替えのきくちょっと可愛いだけのぬいぐるみだな! アハハハ!!」
その言葉を真面目に聞いたり考えたりしないようにする。うつむいて無表情で耐える。そうすれば、きっと今日もやり過ごせる。彼は曲がりなりにも一社会人なので、私を殴ったりけったり、その他暴力じみたことはしない。いや、誘拐した時点で十分に悪人なのか。一瞬だけ怯んで表情がゆがむと、彼は私の顔を眺め回しておかしくて仕方がないという風に嗤う。
「だからな…くれぐれも抜け出そうなんてことは考えるなよ?」
彼が赤い顔で大笑いすると、酒の匂いがあたりに満ちる。ウッと私は息を詰まらせた。そんな毎日は、いくら抵抗しても確実に私の心を削っていったのだった。
暇だったので、テレビをつけた。くだらないトーク番組がやっている。東京のどこかに囚われ、行方不明な少女のことなどお構いなしだ。もちろん、誘拐された直後はマスコミにも騒がれ、ニュースに報道された。母親も捜索活動に当たったようだ。しかし、あるときぱたりと音沙汰がなくなる。そんなものだとわかってはいたが、やっぱり寂しかった。寂しいなんていう言葉では足りなすぎるが、今の私にはぴったりの言葉が思いつかない。
母親も今では養子でも取って、私の溝を簡単に埋めたかもしれない。私なんてそんな程度だから。
ふふっと乾いた笑い声が漏れた。その頃からだ、私がどこかおかしくなったのは。見えないものを見て、聞けない声を聞くようになった。
―視界がぐにゃりと歪みだす。激しい頭痛がする。どこからか声が聞こえる。報われないものの怨嗟の声―。ほら、奈落の底から這い上がるような。青白い無数の腕が伸びてきて、私を絡め取る。
『君が消えちゃっても、誰も悲しまないさ。』
頭の奥に直接語りかけてくる。絶望が彼らを包んでいる。
『一緒にいきましょう。私たちは仲間。』
「どこにいくの?」
 彼らの嗤い声が深い穴に響く。
『決まってるじゃないか、奈落だよ。』
「いやだ、私はまだ!」
 悲鳴をあげようとするが、酸素が口に入らず、金魚のようにぱくぱくするだけだ。
『これ以上ここにいても、家族はお迎えに来てくれるかしら? こっちのお迎えの方がはやいかもね。あはは、かわいそうすぎてわらっちゃう。』
「もう、やめてよ…。」

頭を振って、妄想を打ち消した。無数の腕も消えている。気づけば、びっしょりと汗をかいていたのに、背筋が寒い。気持ちを落ち着かせて、外を見ると、カーテンはつけられておらず、遙か彼方に活気づく夜の町並みが見えた。もうこんな時間か、夜景がきれいだな、じゃ、な、く、て――。
「え?」
また、幻想を見ているらしい。あり得ない、五十階建てのマンションの窓に巨大蜘蛛が張りつくなんてことは。真っ黒い蜘蛛は、私を見ていた。何かしゃべっているのか、口をぱくぱくさせている。この蜘蛛は四本足だった。新種だろうか、ならば学者に報告しなければ。これで一躍有名になるのか。ふーん。そんなことをぼんやりと思った。しばらく観察していた。くだらない自分の妄想に苛立ってきて、そっと目を逸らす。目をこすった。疲れているのだろうか。もう、布団を敷いて寝よう。押し入れの扉を開けようとする。
そのとき、コンコンと窓をたたく音がした。さっきの蜘蛛が騒いでいる。
「入れてほしいの?」
蜘蛛は確かにうなずいた。人の言葉を解せるらしい。これは学会モノだ。さすがにかわいそうになってきたので、窓を開けてやった。
部屋に転がり込んできたのは、もちろん蜘蛛ではなく、マントをまとった少年だった。
年の頃は十六、七歳ぐらいか。男の子ということもあり、私よりもずいぶん背が高い。
鴉のような黒髪に深碧色のくりくりとした瞳が印象的だった。
「えっと…こんばんは。」
少年は動揺しているのか、視線を彷徨わせながら挨拶する。私も挨拶を返しながら、
「どこから来たの?」
と問う。
「僕は、東京都のコダイラシってところに住んでたんだ。」
「ふうん。住んでいたってどうして?」
私はなぜ過去形なのかと聞いた。
「まあ、いろいろあって今は変わったけどね。」
「そうなんだ。」
うつむいた少年の顔が意味ありげだったので、私は詳しく聞かないようにした。
気まずい空気が流れた。先に口を開いたのは少年の方。
「僕のマント、なおしてもらえないかな。」
そう言って少年が差し出したマントは、確かに一部が破れていた。私は、黙って箪笥から裁縫箱を取り出して、
「貸して。」
とマントを奪い取る。自分で頼んだくせに取られたら慌てる少年だったが、思い直したように腰を据えた。しばらく、ちくちくと縫い、それを近くで見つめられるだけの静かな時間が続いた。
「どうして逃げないのさ。」
不意に少年が言う。
「え?」
私は手を止めて顔を上げた。
吸い込まれそうな深碧色の瞳。何もかも見透かされているよう。
「監禁されてるんだろ。」
「……そりゃ、帰れるものなら帰りたいわよ。」
どうして、私が監禁されているとわかったのだろう。部屋を見回した。暴力を受けている訳ではないから、それとわかるような点は無いはず。和室で新しくはない部屋だったが、きちんと整頓してあるので小綺麗だった。数秒後諦めて、私は手元に視線を落とした。裁縫は得意ではないが、それでもあらかた縫い終わっていた。
「自分が見捨てられてるとか、思ってるんだろ。」
「そんなこと無い……から。」
私は嘘をついた。なんとなく、本当のことは言いたくなかった。
「じゃあ、僕と一緒に来ないか?」
息を飲む。そんな言葉があることを初めて知ったみたいだ。そしてその言葉は、ひどく神秘的に、そして魅力的に私の内側に入り込んでくるようであった。
「どうやって? ここからは出られないわ。」
 しかし、私はそう言った。ドアにはカギがかけられている。ピッキング? ドラマの見過ぎである。窓から飛び降りる? 死をもって彼の手から抜け出すというわけか。なるほど、それもいいかもしれない。だが、少年の口から飛び出した言葉は、私の想像をはるかに上回っていた。
「空を飛んで。」
まさか。耳を疑った。この人の頭は壊れているのか。いいや―。
「……やっぱり私、おかしいのね。」
まだ、幻想を見ている。これは私の中の逃げたい、という意思が作り出すものなのだろう。私は裁縫箱の中をまさぐった。リスのアップリケを見つけると手に取る。何となく、縫い目を隠したいと思ったからだ。
「あなたが嘘付いてるとは思わない。だって、飛ぶぐらいしなきゃ、ここまで来られた説明がつかないもの。……おかしいのは私のほう。」
可愛いリスが、くりくりとした目で私を見つめる。そんなリスに私は容赦なく針を突き立て、拘束していく。リスの血のように赤い糸が、現れては消え、現れては消え―…。
「僕もおかしいよ。本当はここに居ちゃいけない。存在としては不安定で、片割れしかないんだ。」
私は少年の言っていることが何となくわかるような気がした。結局のところ、彼も私と一緒なのだ。
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