メサイア

渡邉 幻月

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修行:イェソドエリア編【一日目~四日目】

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【修行開始一日目】
見事なまでに青空が広がる。雲一つ見当たらない。
「動くと暑くなりそうだねー、今日は。」
リリンが空を見上げる。彼女の手にはいつも通り宿に用意してもらったランチバスケット。

今日から五日間は草原での修行だ。マン・イーターは既にマルクトエリアで挑戦済みなのでほぼブラッグドッグ戦に終始することになるだろうか。
上手くいったら、早めに林に入ることになるのかな。カインはちらりとさらに先に広がる林に視線を向けた。

ブラッグドッグが群れを成す地点に移動する。
その名の通り、真っ黒な毛並みの大型のイヌが三匹草原をうろうろしているのが目に入った。悪目立ちもいいところだな、カインは呟いた。
「普通のニンゲンの逃げる速度より早く走れるから、隠れる意味も無いんじゃない?」
カインの呟きに、リリンが何気なく答える。
「…。ボブキャットより遅いんだよね?」
聞こえてたのか、と、溜め息を吐きたくなるところを押さえる。カインはふと、昨日のリリンの説明を思い出した。
ボブキャットより遅いんだったら、走って逃げればどうにかなりそうなのに。マルクトエリアでの戦闘を思い出し、カインは首を傾げる。
「キミは逃げてたわけじゃないしね。ついでに言うと、キミの身体能力は高めだから。普通のヒトは、逃げきれないと思うよ。だからコレがあるんじゃない?」
出現地図をひらひらさせながら、リリンは言う。
「三匹いるし、手伝うよ。こっちに注意を引き付けるようにするから、今日は一匹ずつ相手してみて。」
出現地図を折り畳むと、リリンはブラッグドッグに視線を向けた。

既に、ブラッグドッグにもこちらの存在を認識されていたようだ。唸り声を上げながら、間合いを図っている。
「分かった。」
カインはレイピアを鞘から抜くと、構えた。

確かに、ボブキャットより遅い。
と、最初に切り結んだ瞬間にカインは感じた。
問題はボブキャットより体が大きい事だろうか。距離感をうまくとらえきれずに、爪が掠る。そうして、ボブキャットよりも攻撃力が高い、ことを実体験として理解する。
「でも、一対一なら勝てる。」
レイピアを構えなおす。

「わぁお。」
リリンが歓声を上げた。三匹とも倒し終わった結果は、彼女の予想より受けた傷は浅いし少なかった。一撃でトドメは刺せなかったが、ボブキャット初戦時よりはスマートだ。
「そんなに難しくなかった?」
「うーん… ボブキャットより遅かったとこはね。でも、体が大きくて、ちょっとやりにくかった。」
肩を竦めてカインはリリンに答えた。
「ああ、苦戦してる感じじゃなかったけど、時間はかかったもんね。連戦お疲れさま。ちょっと早めのランチにしたら、同じ感じでいけそう?」
そう言いながら既にレジャーシートを広げているリリン。
「え? ここで? せめて死体が無いところにするか埋めてからにしようよ。」
眉間にしわを寄せ舌を出し、カインは嫌だという感情を隠そうともせずに言った。
「背中向ければ良くない? え? ダメ? しょーがないな。埋めるの面倒だから移動しよっか。」
ハイ、とランチバスケットをカインに渡し、リリンは広げたレジャーシートを適当にまとめる。

ブラッグドッグの死体が目に入らない場所まで移動して、リリンが目くらましの結界を張ったところでようやく休憩だ。
カインの怪我をリリンが癒して、昼食の準備を整える。サンドイッチ、まではマルクトと同じだったが付け合わせなどはガラリと様子が違っている。新鮮な食材がふんだんに手に入るマルクトでは色とりどりのフルーツや時々カルパッチョが入っていた。ここでは干物などの保存食を調理したものが目立つ。色合い的には地味な仕上がりだ。
「…なんか、実家の弁当思い出す。」
今朝の料理もそうだけど、と、カインはサンドイッチに手を伸ばす。
「マルクトは特別なんじゃない? 商店街、すごかったよね。」
「そうだね。さすがにイェソドは十大都市の一つなだけあって、地元に比べたら商店も多いけどね。…勇者なのは驚いたし、正直嬉しいのもあるけど、こうして色んな所を回ってみてアニキの話が一層リアルになった。ほとんど怪物と戦ってるけどな…」
実戦に慣れることにいっぱいいっぱいだったマルクトの時と打って変わって、少し余裕の出てきたカインは目の前のランチ一つからも様々なことを思い巡らせるようになっていた。少しずつではあったけれど。
「いろんなことを知るのも、ルシフェル様がキミに望まれてることの一つみたいだよ。頑張って。」
さらっと、他人事のように言われカインは食べていたサンドイッチを喉に詰まらせる。
「待ってソレ初耳だからね?」
「言われてどうにかなることじゃないじゃん? 見たもの聞いたことでどう感じるかなんて。」
「知ってたらもうちょっと気を付けて見たり聞いたりしたよ。」
「そう? 多分そーゆー意図的なものは望まれてないと思うから大丈夫じゃない?」
何を根拠に、と言いかけてカインは止めた。言い合っても不毛なだけな予感がしたのだ。
これからはもうちょっと気を付けよう。なんか似たようなこと何回か思ったな、とカインは考えながら咀嚼を続けた。

胃の中がこなれた頃、再びのブラッグドッグ戦だ。
今度は二匹。念のためと、今回もリリンが片方の気を引き付けてくれたこともあり、怪我は最小限で済んだ。
「明日は最初から一人で戦ってみる?」
リリンに質問されて、
「…。うん、そうだね。怪我は今日よりするだろうから、そこはよろしく。」
少し考えた後カインは答えた。

【二日目】
北の方が薄っすらと雲に覆われてはいるが、きれいな青空だ。
今日はカイン一人でブラッグドッグ戦に挑戦する予定だ。
「最初からたくさん居ると大変だろうから二匹でうろついてるの探そっか。」
リリンはそう言ってさくさく進んでいく。
迷いないなぁ、とカインは感心していたが、ふとリリンの指に見たことのある指輪を見付ける。
千里眼の指輪だ。少し考えてカインは答えに辿り着く。霊力のトレーニングの初回に使った指輪が、リリンの指でチカチカと光っている。
一瞬、宝石に灯が点ったように見えた。同時に、
「いた!」
リリンが声を上げた。岩場の影には二匹のブラッグドッグが身を潜めている。
もしかして、あれ使ってブラッグドッグを探してたのか? カインはマルクトエリアでも、リリンが不思議と狙った怪物だけを探し出していたことを思い出す。
「どしたの?」
考え込んでいるカインに気付いて、リリンが問いかけた。
「あ、いや、いつも都合よく怪物見付けてるからなんでかなって思ってたんだけど、指輪《ソレ》使ってた?」
「使ってたよ~。よく気付いたね。出現地図でアタリは付けられるけど、怪物も動くからさ。ハイキングが目的じゃないしね。要領よくいかないとね!」
「千里眼、疲れるとか言ってなかった?」
マルクトでの会話を思い出しながら、カインは尋ねる。
「疲れるね。像をハッキリと、距離も正確に見ようとするとだけどね。今はね、方向だけ感知するように抑えてるから、そこまで疲れないよ。」
リリンの説明では、アイテムが便利な物なのか単にリリンが器用なのか分からないカインだった。

今日の初戦はブラッグドッグ二匹だ。
ボブキャットより遅い、とは言え同時に二匹を相手にするとなると話は変わってくる。初めて一人で複数を相手にするだけに勝手がつかめない。
一方に集中してしまうと、もう片方から攻撃を受ける。ブラックドッグは今のところ最も攻撃力の高い怪物だ。少しの不注意が、かなりのダメージに繋がる。
「手伝おーか?」
リリンがカインに声をかけた。特別苦戦していると判断した訳では無いが、カインが少し我を忘れているように彼女には見えた。
「! 大丈夫!」
反射的にカインは叫んでいた。じゃー頑張って、リリンはそう返した。
「これで立て直すかな?」
念のためいつでも参戦できるように、と手に持っていたランチバスケットを地面に置いていたリリンは腕を組んでカインの様子を見守る。
負けず嫌いだもんねー、と呟きながらリリンは指輪に手を添える。
一人でどうにかできるだろう。昨日のカインの言葉の通りと言うべきかリリンの予想通りと言うべきか、怪我の度合いは久しぶりに酷くなるだろうが、それでもこの戦いには勝利できるはずだ。
回復魔法は使えるもののさほど得意ではないリリンは、回復系の魔法を補助するタリズマンの嵌められた指輪を魔王・マーモンから預かっていた。千里眼の指輪からその回復補助の指輪へとリリンはそっと装備を付け替えた。

「お疲れさまー。」
二匹目に何とかトドメを刺したところで、リリンはカインに声をかけた。
「あー、ひっさびさに重傷だね。ボブキャット初戦以来かな。」
一番酷いとこから治すね、そう言ってリリンはカインの怪我を癒し始める。

「…ありがとう。」
大きな怪我は治ってあとは掠り傷を残すだけとなって、カインはようやく口を開いた。それまでは痛みで声も出せなずにいた。ただ肩で息をしながら、傷が癒えるのをじっと待っていた。
「どういたしまして。」
「次は少し休んでからでいい?」
必死に歯を食いしばっていたこともあり、顎が随分と痛い。カインは顎関節の辺りをさすりながらリリンに言う。
「そうだねー。因みにどう? 次三匹とかいけそう? 二匹にしとく?」
傷も全て治し終わったリリンが、指輪を付け替えながらカインに状態を訪ねる。
「この有様で!? …次も二匹にしてくれる? もうちょっとでこう、うまくやれそうな、なんかコツっぽいの? 掴めそうな気がするし。」
「そう? じゃあ二匹の探しておくね。あ、ハイお茶。」
弁当と一緒に用意していたお茶をカインに差し出すと、リリンは出現地図を広げる。そうしてまた千里眼の指輪に付け替えた。リリンが地図を見ている間、千里眼の指輪がチカチカと光るのがカインにも見えた。
一息つきながら、便利な道具があるもんだよなぁ、とカインはぼんやり考えていた。

休憩の後に、ブラックドッグ二匹と戦闘。
本人の言葉通り、コツを掴み始めているのか動きが良くなっている。とリリンは感心していた。
怪我もしてはいるが、一度目ほどではない。
「筋が良いのかな? マジメだからかな?」
これなら午後は三匹でも大丈夫そうだよねー、と一人頷くリリンだった。

少し遅めの昼食と休憩のあと、
「三匹いけるって。二匹も三匹も変わんないって。」
と、リリンは相変わらずの笑顔でカインを押し切った。
「軽く言うよな。」
カインは溜息を一つ。その後ぶつぶつと独り言を言い始める。二対一の状況が三対一、そしたら、ええと… 完全にリリンの存在が意識の外になっているようだ。
「なんだかんだやる気じゃないの。」
カインの独り言が聞こえているリリンは、呆れたようにこぼした。

結果と言えば。
今日の一戦目ほどの動揺も無かったが、さすがに怪我は避けられない。致命傷は無いが、それでも失血でカインはふらふらしていた。
「貧血だねー。今日の晩御飯は肉にしようね。」
「それでどうにかなるもんなの?」
くらくらする頭を庇いながら、カインはこれもリリンの魔法でどうにかなればいいのに、と考えていた。
「肉は血肉に変わるからね。でも、即効性は無いから回復魔法で補助する。」
「…今すぐできないの、それ。」
随分回りくどい事するんだな、ぼんやりとカインは思った。
「出来たらやってるよー。でも無から有にはできないのよ。アタシじゃ。」
リリンの最後の一言で、回らない頭でカインは納得した。できるヒトも居るけど、そのヒトがここに居ないってことね、と。
「今日はもう帰る?」
ぐったりと大の字に寝転んで、カインはリリンに聞く。
「そうだねー。歩けそう? もうちょい休む?」
「あー… ちょっと休みたい。かも。」

しばらくその場で休んで、ふらふらしつつもカインは自分の足で宿まで戻った。
夕食はリリンが部屋まで運んでくれたので、ぐったりした状態を隠す必要もなく咀嚼して飲み込むことに集中する。
「噛むのもめんどくさい時に、肉って結構な苦行だね。」
カインは食べ終ると早々にベッドに横になった。起きているのがしんどいのは貧血のせいなんだろうか、とぼんやり考える。貧血になったことの無いカインには、今の自分の体調は持て余し気味だった。
「ちょうどいいから、そのままおとなしくしてて。」
リリンはそう言うと回復のタリズマンがついた指輪を嵌めている手をカインにかざす。
もう何度もリリンに怪我を癒してもらっているカインも慣れたもので、彼女の言葉に従って体を楽にしている。

「なんか… 食べたばっかりなんだけど、小腹が…」
恥ずかしそうにカインが言った。
「あー、しょうがないよ。食べたのほとんど血になっちゃったし。そのかわり、くらくらしないでしょ?」
「…あ、ホントだ。ハラヘリ以外は元気だ。」
首を動かしたり屈伸してみたり、貧血のままなら目眩を覚えそうなことをして、カインは自分の体調が完全に戻ったことを確認する。

改めて夕食、と言うほどでもないな。と判断したカインは移動中の携帯食料から干し肉を一切れ取り出し、小腹を満たすことにした。
そのあと、恒例になった霊力のトレーニングを済ませて一日を終えた。

【三日目】
明け方から雨が降り出したようだった。雨脚は強くなったり弱くなったりしているが、空はどんよりとした雨雲が覆いつくしている。
「この様子じゃ、今日は一日雨なんだろうね。」
空を見上げてカインが言った。
「面倒だけどお昼は戻ってこないとねー。」
実体の無いリリンにとって雨が降ろうが影響はない。気楽なもんだよね、カインは呟く。

雨の中でのブラックドッグ戦は、足場の悪さが苦戦を招いた。
なにせ明け方から降り続けているのだ。舗装されているはずもない草原地帯、所々にぬかるみがある。水溜まりも出来ている。そうして相手は二匹いる。
降り続ける雨を吸い込んで、衣服が重さを増す。雨の中の戦闘はマルクトエリアで既に経験済みだ。足場の悪さも衣服の重さも知っている。
「相手が一匹だったら…!」
何度もバランスを崩しながら、晴れていたら掠りもしないはずの攻撃を躱しそびれ、思わずカインは悪態を吐いた。
悪態を吐いて、結局そんなことをしても事態は何も変わらない、という事実にブラックドッグの攻撃を受けたカインは思い至る。痛い。悪態なんか吐いてる暇があったら、ケリを着けた方が遥かにいい。
傷口から血が流れる。雨のせいで、流れ出る血の量がいつもより多い気がする。
カインの頭の中ではごちゃごちゃといろんな考えが浮かんでは消えていく。集中出来ないせいで、またしても攻撃が避け切れない。
カインは距離を取った。そうして深呼吸を一つ。分かっている、余計な事考えてるからだ。
カインはレイピアを構え直す。そうしている間にもブラックドッグが追撃で飛び掛かってくる。

攻撃を躱す、踊るように身を翻しブラックドッグを翻弄する。隙をついてまずは一匹、トドメとはいかなかったが脚に大ダメージを与え動きを封じる。これでほぼ一対一だ。カインは残った片方と向き合う。
眉間に一撃。一対一ならそんなに難しくないことだ。ついで、脚に怪我を負ったブラックドッグにもトドメを刺す。

「疲れた…」
リリンに傷を癒してもらいながら、カインは呟いた。
「雨だしねー、いったん宿に戻ろっか。」
カインの服はだいぶ雨を吸っている。思いだろうし動きにくいだろうし、何より体が冷えていることだろう。
「風邪ひいちゃ困るしね。」
そうだね、リリンに同意していったん宿に戻る。

宿に着くと、カインは着替えを済ませて一息ついた。
そのあとは昼食を取り、再び草原へ。雨は止みそうもないので、ブラックドッグ二匹と一戦だけして今日の実戦は終わりにするとリリンは決めた。
リリンの決定にカインはこっそり安堵していたのは秘密だ。

【四日目】
夜の間に雨は止んだようだ。雲一つない、とはいかないが青空が広がる。
地面のぬかるみも、昨日ほどの酷さはない。ほぼほぼ乾いていて、ところどころ前日の名残があるくらいだ。

前日の雨のせいで散々だったこともあってか、天気が良い今日のカインの動きにはキレがあった。全くの無傷では無いがなかなか調子よくブラッグドッグ戦を収めた。
昼食休憩のあと、もう一戦。これも好調で、それを見てリリンが提案する。
「今日の最後は林に入ってみる? ジョロウグモ、お試しで。」
「ジョロウグモ? え? お試しってどうする気?」
今日は調子良かった、とカインは自分でも思っていた。まだ少し残るぬかるみも、昨日ほど影響があった訳じゃないし。リリンの言うお試しの意味を理解できなかったカインは首を傾げる。
「糸が面倒だから、それだけでも見とけば明日楽かなって思ったのよね。」
「糸? ああ、そう言えばマン・イータ―の蔓より面倒なんだっけ?」
リリンの説明を思い出して、そういえば今までとまたタイプが違う怪物だなぁとカインは呟いた。
「そうそう。粘着性があるしね。巣も厄介だしね。それ見て、あとは戦わないで逃げる。」
「それでお試しってこと。」
リリンの言わんとしたことを理解したカインは、それなら行ってみる、と答えた。

林の中は、水気を含んだ空気が漂っていた。
木々に日光を遮られているからだろうが、草原とは違ってまだ足元は昨日の雨の名残が強く残っている。
職人たちが素材を採取しに来ることもあるようで、一部は道が舗装されていた。この作業はメサイアたちがしているのだと、以前ヨナタンから聞いたなとカインはヨナタンの話を思い出していた。こういうこともメサイアの任務の一つだと言っていた。兵站を担うメサイアたちがこの任務に当たると言いていたような気がする。あまり冒険らしい話ではなかったので、うっすらとしか思い出せない。子供だったとは言え、なんてもったいないことをしていたんだろう。とカインは肩を落とした。
「採取用に結界張ってあるみたいだねー。もっと奥に行かないと何もいなさそう。」
この辺りは怪物の気配が無いことを、周囲を見回しながらリリンが確認する。

雨と土と草のにおいが立ち込める中を、奥へ奥へと進む。舗装されていた道が途絶え、獣道が取って代わる。
林全体の雰囲気が変わったのが、カインにも感じられた。
何かが息を潜めている気配。
「あ、あれ。」
リリンが木々の隙間を指さした。
そこにはきらきらと水滴が輝いている。レースのようにも見えたそれは、よくよく見れば巨大な蜘蛛の巣で昨日の雨が乾いていないだけだった。
「あれがジョロウグモの巣ってこと?」
「そうそう。昨日雨だったからあんなに分かりやすいけど、普段だったら気を付けないと引っ掛かるからね。」
確かに、とカインは思う。この林の中で糸は目立たない。水滴を辿ってようやく判別できたようなものだ。人間も絡め捕れそうなほど大きな巣だというのに糸はとても細い。
知らなかったら、リリンの心配する通り巣にかかってしまっていただろう。
「結構細いけど… 千切れないってこと?」
「そうそう。ほらあそこ。」
カインの疑問にリリンは巣の上を指さす。

「う゛、」
そこには巨大な蜘蛛の姿があった。カインは思わず声を上げた。
「胴体だけでオレくらいあるよね… そして気持ち悪い色だな…」
と、まじまじと観察したカインからはそんな言葉がこぼれた。
黒と藤色の縞模様は、毛羽立つ蜘蛛の腹部でさえなければ嫌悪感は湧かなかっただろうか。血のように赤い複眼がこちらを虎視眈々と窺っているように見える。
「あれに攻撃すんの…?」
手強いとかそんな事よりも、嫌悪感が先立つ。普通サイズだったら、また違ったかもしれないのに、とカインは考えた。
「ブラックドッグとかは平気なのに、アレはダメなの?」
「だめって言うか、近付き難い… 気持ち悪い。ブラックドッグとかは単純に狂暴なだけって感じで気持ち悪さは無いから全然違うよ…」
問いに答えるカインの顔色を見て、あ、これはダメかな、とリリンは考える。
元々ジョロウグモの様子を見るのが目的ではあったけれど、ここまで拒絶反応を見せるとは思っていなかった。

「じゃ、帰ろっか。」
リリンはカインの肩をポンポンと叩く。
「…帰って良いの?」
「今日は見るだけって言ったでしょ? ホントは糸を吐かせたかったけど、今のキミの様子じゃあね。次回。てゆーか明日。」
リリンは肩を竦める。
「…あ、結局戦うんだ…」
「避けては通れないねー。心の準備をする時間はあげるから。」
嬉しくない、と言う喉に出かかった言葉をカインは呑み込んだ。勇者になりたいと、焦がれていたけれど今日だけはそんなこと望むんじゃなかったと切実に思うカインだった。

ジョロウグモを刺激しないように、二人は来た道を静かに戻る。

こうして珍しく早めに一日を終えたのだった。

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