メサイア

渡邉 幻月

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修行:ホドエリア編【猩々戦】

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 休日を挟み、今日からは猩々がターゲットだ。簡単な情報しか載っていない、怪物出現図を眺めながらカインは朝食を取っていた。既に如何いかに攻撃を仕掛けるかで頭はいっぱいだ。

 だが、それも所詮は机上の空論だったとカインは思い知る。マナガルムの場合は、似たようなブラックドック戦を経験していたこともあり予測の精度は割と高めだった。スピードや攻撃力は実際戦った際に都度認識を修正していくでも体はついていった。
 猩々は、今までの経験はあまり役に立たなかった。それは猩々が二足歩行できることが大きいだろう。二足歩行ができるという事は、前足を腕として使えるという事だ。リリンが言っていた通り、確かに枝から枝へ飛び移る。実はマナガルムもその鋭い爪を木の幹に引っ掛け、高めの位置から飛び掛かってくることがあったのを考えると、猩々のその動き自体はそれほど厄介ではなかった。
「枝から枝に飛び移るって聞いた時に、気付けばよかった…」
息を切らし、カインは呟いた。そんなことが出来るという事は、腕を使えるという事だ。それは、つまり道具も使えるという事に他ならない。
 単純な攻撃力やスピードはマナガルムの方が上だろう。だが、道具が使えると言う一点を以て、猩々の厄介さが格段に上がる。かつて、非力だった人間を世界の覇者に押し上げたのも言葉と道具だった。その、片割れを使っている。尤も、猩々は魔法が使えないので使う道具は単純なものだ。金属の武器は高熱の炎が扱えなければ鍛錬できないからだ。

 カインを精神的に追い詰めているのは、猩々はサル型の怪物だからだろう。獣型の怪物の中で人に近い形状をしているのだ。それが、二足歩行で武器を持って襲ってくる。体は毛むくじゃらで、人間の見た目とは一線を画してはいるが。それでも、ヒト型に近い怪物と戦うのが初めてのカインには攻撃をする度に、心に鉛を撃ち込まれるような感覚を覚えさせた。

「…。今日はここまでにしようか。」
猩々戦初日、午前と午後合わせて三体倒したところでリリンが言った。リリンも気付いていた。カインの動揺に。まだ猩々戦は初日でもあるからだろう、リリンは急ぐ必要も無いしねと呟いた。

 次の日は雨だった。まるで自分の気持ちを映しているみたいだ。カインは思った。それでも、止めたいとは言えない。言ってもそれが通らないだろうことは予想の範囲内だ。自分が何に悩んでいるかリリンは知っているはずだ。だから昨日は早めの時間で切り上げたんだ。…だけど、彼女は何も言わない。自分でどうにかしろってことなんだろう、とカインは思う。
 森の中はじっとりと空気が重かった。雨は、ぽつり、ぽつり、と鬱蒼と茂る木の葉の合間から滴り落ちてくるくらいだ。平地ほど雨の影響はなさそうに見えるが、今日は猩々戦であることを考えると雫が降り注ぐ未来が見えるような気がした。

「じゃあ、今日の一戦目は二体からでいいかな?」
疑問形ではあるが、決定事項なんだろうなどうせ、とカインはただ黙って頷いた。
 気持ちの整理がつかないまま、猩々戦が始まる。予想通り、猩々が木々を飛び移る度に枝が揺れ葉や枝に付着していた雨粒が降ってくる。流石と言うべきなのだろうか、とカインは考える。猩々達は慣れた動きでその飛沫を目潰しになるようカインの頭部に飛ぶように枝を揺らしている。ただの雨粒とは言え、目潰しとしては効果的だ。目元に当たっても、当たらぬよう避けるにしても、その度にカインの動きはワンテンポ遅くなる。
ただでさえ木が邪魔で動きにくいのに!! レイピアを握るカインの手に力が籠る。それにどうにも猩々の使う武器が厄介で仕方がない。武器と言ったところで棒切れや棍棒と表現するしかないような代物だ。それでも、それがある分リーチが今までの怪物たちと違う。なんならそれを投擲武器として使ってもいいのだ。カインは頭をフル回転させて攻略方法を考える。
せめて雨じゃなかったら… と思ったところで、イェソドでのリリンとのやり取りを思い出す。
雨の日を修行休みにしない理由を聞いた時、『いつ、どこで、どんな状況で、最終決戦になるか分からないから?』とリリンは答えていた。だとするなら、雨粒を目潰しに使われるくらいどうにかしなければならないのだろうし、カミサマが相手だと言うのなら猩々の棒切れごときで手間取っている場合でもないのだろう。

「カイン!!」
ふと死角から陰りが差すと同時にリリンの叫び声が聞こえた。

 咄嗟のことだった。死角から襲ってきた猩々の攻撃をカインはダガーで受け止めていた。
いつか、ダガーも攻撃補助に使えるようになれたらいい、そう言ってリリンはカインにダガーを装備させていた。レイピアと魔法剣にばかり気を取られてカインはダガーの存在をこの時まですっかり忘れていた。正確には、休日にはダガーも使えるようにと鍛錬はしていたが、実践ではとてもそこまで気が回らないでいた。
 それが、今。
そうだ、これだ! カインはダガーを握りなおすと猩々に向き合った。ダガーで猩々の攻撃をいなし、炎を纏わせたレイピアで眉間を狙う。相変わらず雨粒のせいで動きがぎこちなくなるが、それでも前半の苦戦が嘘のように猩々を仕留めていく。

「お疲れ! 一瞬危ないかと思ったけど、無事に倒せたね!」
「うん…」
カインはリリンの言葉に返事をしながらダガーを持つ手を見詰めていた。不思議だった。今までこんなに自然に扱えただろうか、とカインは思い巡らせる。
「どしたの?」
「あ、いや、実践で使うの初めてなのに… なんかうまく使えてたなって?」
「ちゃんと訓練してたからじゃない? ま、結果オーライだよ。」
「…まあ、そうだね…」
「ところで相談なんだけど… ランチを食べに街に戻る? それともちょっと休憩してあと何戦かしてから遅めのランチにして、残りの時間は宿の中で筋トレとか霊力のトレーニングとかにする?」
どうして今さらそんなことを言い出すんだろう、とカインは思う。宿を出る前に出来た話なんじゃないだろうか。もう既に雨が降っていたのに。
「往復の時間も勿体ないし、実践はまとめてやっちゃおうか。」
そう言えば、最初から行き当たりばったりな感じだったよな。と考え直してカインはそう答えた。
「りょーかい! じゃあ、小休憩を挟みながら午後までね!」

 その後、傷の回復もしつつ更に二戦こなす。次第に雨足が強くなってきているようで、森の中にもかかわらず滴り落ちてくる雨が増えてきていた。
「これ以上は体が冷えちゃうから、今日はこの辺にしておこうか。」
リリンは木の葉に隠れる空を見上げながらカインに言う。雨の日の戦闘も慣れてきてるしね、とカインに視線を戻してから続ける。
「そうかな? 慣れたのかな?」
自分じゃよく分からないとカインは首を傾げる。
「慣れた慣れた。マルクトエリアの時だったら、今日みたいな環境だったら初戦にもの凄く時間がかかってたと思うよ? 雨粒を目潰しに使われた時なんか特に、足止めされちゃって立て直しで苦戦してたと思う。」
リリンはそう言ってカインの成長したところを数え上げる。
「でも一番は、ダガーを実戦で使えるようになったとこかな。あとは宿でトレーニングしようか。」
確かに、とカインは左手に視線を落とした。いつの間にこんなに自然にダガーを使えるようになっていたんだろう。リリンと会う前の自分が利き手で扱うよりは巧く使えていたんじゃないかとも思える。
「うん、今日はダガーの素振りを増やそうかな。この感覚を忘れないように。」
「それが良いかもね。」
二人は雨の降りしきる森を後にした。その後、宿に戻ると森で打ち合わせたとおりに食事を取りに行ったりやトレーニングをこなしたりしてこの日を終えた。

 明けて翌日、雨は上がっていた。雨雲がまだ西の空に残っている。上空の風向き次第では今日も雨になるのかもしれない。
「今日は曇りかな。」
空を見上げてリリンが言った。だと良いんだけど、とカインは呟いた。リリンが言うならきっと今日は曇りなんだろうとカインは思う。
「昨日、雨であれだけ動けたから、今日はサクッといけるかもね?」
「ううん? どうかな。晴れたわけじゃないし、森の中は昨日とあまり変わらないんじゃないかな?」
リリンの楽観的な言葉にカインは首を傾げながら答える。
「でも降ってはいないから体は冷えないし、雨粒の鬱陶しさはないよ? あとは初戦からダガーを使えば、ね?」
リリンにそう言われて、そうかもしれないとカインも思う。思いつつあんまり楽観してもダメだよな、と思い返して、
「良い結果になるよう頑張るよ。」
とだけリリンに返した。
 そうだ。それだけじゃない。結局昨日は必死で途中から忘れてしまっていたけれど、このヒトに似た怪物を倒すという事実をどう受け止めたらいいのか。魔王はとても美しい姿をしていた。魔王の双子の弟も。神サマも、きっと美しい姿をしているのだろう。猩々なんかとは比べ物にならないほど人間と同じ、それ以上に美しい姿をしているのだろう。
…その、神サマと戦うのか。
だとしたら、こんなところで悩んでいる場合じゃないのかもしれない。…だけど、それでも。

「…ヒトに似ていようがなんだろうが、怪物には違いないよ?」
カインの考えていることを察してか、リリンが言った。普段の楽観的な口調とは打って変わって冷やりとした声で。
 思わずカインはリリンの顔を見た。いつになくシリアスな表情だった。
「それは…」
「命に差を付ける?」
びくりとカインの肩が震えた。リリンのその一言に、頭を殴られたのと同じような衝撃を感じた。
 いつの間にか、平気で怪物を倒せるようになっていた。ボブキャットの時なんかあんなに心が痛んだのに、そう言えばいつの間にか倒して当たり前になっていた。
…いや、でも。怪物を野放しにしていたら、今度は人間が被害にあうんだ。だからこそ、メサイアは怪物の討伐に乗り出しているし、キャラバンも武装して迎え撃っている。だけど…?
「カイン!」
ぐるぐると悩んでいると、リリンに強めの声で名前を呼ばれて、我に返る。

「カイン、何を悩んでいるの?」
「あ、いや、あの…」
カインは言い淀んだ。どう答えていいか分からなかった。命と言われて、カインは怪物も生きているのだと再認識した。そうして、今更ながら手が震えだしていることに気付いて、リリンへの答えを紡ぐことが出来ない。情けない、それになんて横暴で傲慢な考え方をしていたんだろうか。

「とりあえず、今日のノルマ達成頑張って!」
ぽん、とカインの背中を叩いてリリンが言った。
「え? あ、でも…」
「いくら悩んでも良いけど、今は! 実践の修行中だからね? 頭切り替えて?」
「そうは言っても…」
リリンの言葉が右から左に流れていく。切り替えて考えて、それが出来たとして、そうして猩々を倒して、それでいいんだろうか。泣きそうな顔をしているカインに、軽く溜息を吐いてリリンは言う。
「いずれキミは世界を壊すのだから、それは全て壊すということなんだから、今ここで怪物を倒すことに罪悪感を感じる必要はないと思うよ?」

世界を壊す

『ダメだよ。』
恐怖に沈みそうになったその瞬間、懐かしい声がカインの脳裏に響いた。
『ダメだよ、カイン。目を背けてはダメだ。戦って自らの手を汚さなかったとしても… 全ての生きとし生けるモノは、他者の犠牲の上に成り立っている。』
ああ、ルシフェル様だ。オレは、どうしたら… オレに、何を… ああ、ダメだ聞きたいことが有り過ぎて、どれから聞いたらいいのか分からない。
『いずれ、私の城で会おう。その時に、カイン、君の疑問に全て答えよう。ただ一つ、気に病むことは無い。ただ屠った命を無駄にしないと誓う覚悟さえ持てばいい。この世界のために生きるのだと。』
無駄にしない…?
『そう。屠った命の数だけ強くなるのだと、その力は世界のために使うのだと。…その死には意味があるのだと。…ああ、もうお別れの時間のようだ。傍で導く事が出来ず済まないと思っている。私の城で会えるのを待っているよ。』
懐かしい声はそう言い残して聞こえなくなった。

「…ン! カイン!?」
リリンの声に、カインは再び我に返った。
「大丈夫?」
意識が無くなったように立ちすくんでいるカインの顔を心配そうにリリンは覗き込んでいた。
「…うん。平気。大丈夫、ちゃんと修行はやるよ。」
心配してくれているリリンに笑顔で答え、カインは武器に手をかけた。
正直、まだ割り切れたわけでも何でもない。ただ、ルシフェルに言われた通りその命を無駄にしないと覚悟を決めようと思った。そう思っただけでほんの少し手の震えが治まった。
…ああ、覚悟が足りなかったんだな。
カインは溜息を吐いた。覚悟を決めなければ。今すぐは、まだ少しルシフェル様の言ったことが理解できずにいるけど、肚で受け止めたらその時には。

 あら? イイ顔になった? 視線を上げたカインの表情を見たリリンはそう感じた。さっきは意識が無くなっていたようで心配だったが、何がどうなってこうなったかリリンには分からなかったが、もう心配は要らなそうだと一人頷く。
「じゃあ、早速いこっか。」
そうリリンは言って、ちょうど良さそうな個体を探すのだった。

 天気も回復し、今までの経験を惜しみなく出せる環境だったからだろうか。それともカインの意識に変化があったからだろうか。今日のカインの動きは今までの集大成と言ってもよいものだった。
 午前中には猩々三体と一戦交え、午後には更に個体数を増やし四体、続いて五体の群れと戦った。一撃で仕留められない個体もあったが、カイン自身は無傷でこの日の実戦を終えたのだ。
「すごいすごい! 修行開始直前は調子が悪そうで心配だったけど、杞憂だったね!」
リリンが上機嫌でカインに声をかける。
「う、うん。…喜んでいいのか分からないけど、これで猩々はクリア出来たって思っていいのかな?」
覚悟は決めるつもりだけど、できれば必要以上の殺生をしない方向でいきたいとカインは考えている。
「そうだね。一撃じゃなかったのもあったけど、動きはスマートになってたしいいかな、とは思っているよ。」
「そうか、良かった。」
リリンの答えに、カインは小声でそう呟いた。
 今日は、残りの時間で腹を括ろう。覚悟を決めよう。と、カインはまだ少し悲観的な思考回路の自分に心の中で言い聞かせるのだった。
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