水底の歌

渡邉 幻月

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初恋

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悪夢にうなされ、目覚めてみれば己が姿は異形になりつつある。
それが、何代も続く呪いと打ち明けられたところで、多少の疑問が解消されただけで、傷付いた心はちぃとも癒されぬ。
父は、離れを用意すると言っていた。悲しみの中で咲は父の言葉を思い出す。
そんなもの、急に用意できるものなのだろうか。咲は半ば自棄になりながら、この後自分はどこに追いやられるのかと考える。今空き部屋はないのにどうするつもりなんだろう。秀吉の一夜城じゃあるまいし、そんなにすぐに部屋が用意できるはずがない。そこまで考えて、咲はあることを思い出す。
敷地の奥に、随分と古い土蔵がある。辺りは雑草が生い茂り手入れもしていないような老木の陰になるようにひっそりと建っている。父にはもう使わなくなった昔の漁の道具なんかが閉まってあると教えられた。ただ、建物も古くなっていて危険だから近付かないように、ときつく言い含められていたことも同時に思い出す。
その土蔵の近くに、茶室のような建物があったのだ。使っているところを見たことがないだけでなく、家の者に忘れ去られているようなその建物はその割にやけに小奇麗だった。その辺りまでは、草木も手入れされていたのだったなと思い至り、その異様さが、今さら鮮明に思い出される。
「まさか、あの部屋なんてことは…」
惨めさが首を擡げてくる。でも、確かにだれも見向きもしないあの部屋がお誂え向きなのかもしれない。咲は白くなった自分の手を見詰めて、深い溜め息を吐いた。
 そうして準備された離れに移ったのは、だいぶ日も暮れてからだった。咲の予想通り、土蔵の近くの建物だった。記憶の通り、外観は小奇麗なままだった。部屋には布団一式に箪笥が一つ、小さな机と数冊の本があった。咲が驚いたのは厠も専用のものがすぐ隣にあったことだ。
そうして一つのことに思い至る。代々の呪いが発症した娘たちは、この部屋に閉じ込められ一生を終えたのではないか、と。そうであれば、この建物が妙に小奇麗なのも納得できる。
「すぐに部屋が用意できるわけだよね…」
咲は呟いた。
「何か言ったか?」
「…父さま、ご飯はどうすればいいのですか?」
よくよく見渡して、炊事場が無いことに気づいた咲は父に尋ねた。
「わしが毎回膳を運ぶ。暇だろうから本を用意したが、他に必要なものがあれば言いなさい。」
「はい、父さま。」
そのまま咲は沈黙した。
必要なもの? とてもじゃないけど本すら読める気がしない。咲は思う。こんな状況で、望みなどあるはずもない。
「それじゃあ、父さま。ご面倒をおかけしますがよろしくお願いいたします。」
決心がついたわけでもないが、いつまでもこうしているわけにもいかない。咲は父の方にくるりと向き直ると、そう言って頭を下げた。
「…ああ。また明日の朝来る。」
母屋に戻る父の後姿を見て、咲はようやく父も堪えて居るのだと気付く。あんなに項垂れた姿は、今まで見たことがなかったと、記憶をたどりながら咲は思う。その事実がより一層、咲を悲しませた。夢でも冗談でもないのだろう。無性に泣きたくなって、咲は部屋に駆け込んだ。
極々限られた者だけに打ち明けられた、私の変容。
私はこのまま、誰にも会えずに、会わずに終わるしかないのでしょうか。私がいったい、何をしたと言うのでしょうか。
咲の問いに答えてくれる者はただの一人も無い。咲は、静かに泣き腫らした瞼を閉じた。

諦めきれない。
元に戻りたい死にたくない。
だけど、どうしたら良いのか、分からない。
神も仏もあるものか。いっそ、みんな呪われてしまえば良いのに。
詮無いことを考えては、己の浅ましさに嫌悪する。そんな堂々巡りが何日続いたことか。

「いっそ、気でも狂れてしまえば楽になれるのかな。」 
より一層白くなった手を、じっと見て咲は呟いた。鏡は見ていない。父は本来なら年頃の娘を気遣ってなのか新しい姿身を用意してくれた。
だが恐ろしくて、とてもじゃないが自分の姿など見る気になれない。こうなる前なら、あの鏡は嬉しかっただろうな、咲はぼんやりと考えた。咲の長い髪は、一つに纏められてはいたが時折視界に入った。その度に色が落ちていくのが、咲の気持ちを重くした。じわりじわりと白くなっていく髪は、それだけで同時に姿も変化していることを咲に知らしめる。
「咲、起きているか。」
久方ぶりに聞く、父の声である。
おかしなことを聞く、咲は思った。まだこんなに日が高いと言うのに、私が寝込んでいるとでも? 病に伏してなどいないのに。
「はい、父さま。」
咲の返事を確認した後、襖が開けられた。
「今日は、先生にお出でいただいた。」
そう言った父の背後に、咲は見慣れぬ姿を見る。
「さあ、どうぞ先生。あれが、お話ししました咲です。」
父はそう言って咲の部屋に連れていた男を入れる。
この近辺では見かけぬ顔だ、咲はぼんやり思った。ああ、それに。 いつもお世話になっていた町医者の先生と違って、なんてこざっぱりとした人なんだろう。
それに、よくよく見れば、かなり若い。
それに、それに。
じぃっと相手を見つめたままの咲に、
「挨拶くらいせんか。お前のためにわざわざ来ていただいたんだ。」
焦れた父が、苛立ちがこもった声で言った。その声に、咲は我に返った。
「浦野咲です。」
父の意図を半分も理解できず、兎に角その一言だけを。見惚れていた、と、咲が自覚するまであと少し。 
「こんにちは、咲さん。僕は、奥津と言います。咲さんの病を診るために来ました。」
穏やかな声だった。この海辺の町では、とんと聞かぬような。穏やかな目、白い肌(今は咲の方が白いが)。荒っぽい海の男どもとは、全く異質の佇まいだ。
「病?」
奥津の目を見つめながら、咲は呟いた。
私は一体、いつ病に伏したのだろう。
呪いに蝕まれ、日に日に姿は変わり行くけれどその実、体力やらには何の変化もない。ただ、姿が変わっていくだけ。本当に、ただ醜くなっていくだけなのだ。尤も、それだからこそ咲を苦しめているのだが。具合の一つでも悪ければ、容姿を気にするところではなかっただろう。
ふと、思う。
浦野の女は短命だと言われているが、まさか。
呪いに蝕まれ、変わり果てた姿のために殺されていたのではないだろうか。今の自分と言えば、毎日の食事を止められない限り死ぬ気などしない。
…あとは、自ら命を絶つか否かだ。
そこで初めて、咲はこの離れに炊事場が無い理由を悟る。火も刃物も避けたのかと。自ら命を絶つことがないように、と配慮されていたのだろうか。
「そうですよ。咲さん、貴女は白子かもしれません。」
穏やかな声で奥津は咲の呟きに答えた。そうして、白子について簡単に説明する。
どうにも、自分とは違うのではないか。咲は薄ぼんやりと感じた。白子は生まれつきだと、奥津は説明した。けれど咲は生まれつき、ではない。ある日、突然色が抜け落ちたのだ。ちら、と父の顔を窺う。余計なことを言うな、と言われたような気がした。
咲は、そこで父の思惑に気付いたような気がした。このよそ者の医者に、白子と診断させるつもりなのではないか。病としてしまって、呪いなど初めから無かったことにするつもりでいるのだろう。
咲は、言い様の無い感情に包まれた。ただの病となれば、流行り病でさえなければ、きっと今まで通りの生活が戻ってくる。戻ってくる、けど。それは、このひとを謀ることなのだ。
他の人間などみんなまとめて不幸になれば良い、ずっと呪いが現れてから、ずっと念じていた。私だけが、どうしてこんな目に遭わなければいけないのかと。
今も、それは変わらない。こんな姿になって、長くも生きられず、他人の不幸を望んで何が悪いのか、そう思っていた。
なのにどうしてだろう。咲は思った。不幸どころか、謀ることさえ抵抗を感じる。
「奥津先生、私…」
妙にかすれた声だ、咲は泣きたくなった。
「大丈夫ですよ。」
その一言に続く言葉はもう、咲の耳には入らなかった。
我が身のことしか考えられぬ自分を恥じる気持ちのせいなのか、この、初めていだく感情がそうさせているのか、咲には判別がつかなかった。
そして、たとえ診察のためとはいえこの男に肌を見せることになると言う事実も、どう受け止めれば良いのかこの時の咲には分からなかった。いつもの先生になら、何の抵抗も感じなかったというのに。咲は自分の感情の揺れを持て余した。
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