水底の歌

渡邉 幻月

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浦野家

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時は大正。 

 うらぶれた海辺の町の、それでも一等地。かつては名主なぬし、今は事業家としてそれなりに成功している浦野家には秘密があった。
『直系の娘に短命の者が多い』
まあ、それだけなら特段忌むべき話でもない。乱暴だが、生まれつき病弱な娘が多い、の一言で片が付いてしまう。それに、娘たちにはいずれやってくる出産という現実もあった。
産後の肥立ちが悪く…  というのは浦野の娘に限らず世の女性にふいに襲い掛かってくる。
そうではなく。宗家の長男にのみ伝えられる秘密。
『人魚の呪い』
娘たちだけに発生する呪いを、浦野家ではそう呼んでいる。
その呪い故に、娘たちの寿命が短いと浦野家では信じられていた。
その呪いの代わりに得たものは─… 無い。
理不尽極まりない呪い。否、その呪いが人魚の怨みをかったが故なれば。だが、それももうきっかけがいつの事なのかも分らぬほど遥か昔の事だと言うのに、呪いだけが今も鮮やかに娘たちを蝕んでいく。

浦野咲は、今年で齢十六を数える浦野家の長女だ。
ここ数日、なんとも形容しがたい、強いて言うなら気味の悪い夢を見続けていた。ただひたすら闇夜に海原だけが視界いっぱいに広がる。そして時折聞こえてくるすすり泣き。それは仄暗い不安を呼び起こす夢だった。
そうして、今日。十六になった、今日。いつもの夢は、悪夢へと様変わりし、そうして現世うつつさえもその様相を地獄絵図へと変わり果てようとしていた。
 咲がただ、鏡を見つめたまま茫然と立ち尽くして、如何程経ったか。珍しく、本当に珍しく父の声がした。
「咲、起きているか、咲。」
普段は決して寝室には来ない父の声は、どこか沈んでいるように咲には聞こえた。それは気のせいなのか、今の咲自身の気持ちを反映しているのか。ともかく咲は返事をしなくては、と反射的に答える。
「…はい、父さま。」
思ったよりかすれた声に咲は唇を噛んだ。異変に気付かれてしまうだろうか。いっそ、寝ているふりでもして、具合が悪いことにすれば良かったろうか。定まらぬ思考が、咲の頭の中を駆け巡る。
「咲、大事な話がある。…恐らくもう、始まっているかもしれんが。」
襖の向こうで父が言った。咲の声の調子を気に留めた様子はない。
恐らくもう始まっているかもしれんが、と言っていた。何が? 咲は、動かぬ頭で考える。
「…入るぞ、咲。」 
父のその声に我に返り、この場を取り繕う術も、拒否の言葉も思い付かぬ間に襖が開けられた。父と目が合う。このバケモノ染みた目が。
絶望が咲を支配した。私を私と認識してくれるだろうか。バケモノと罵るだろうか。
…あるいは、バケモノと打ち殺されるのか。
恐怖が、家族に見放されるという恐怖が、咲の背筋を急速に凍えさせる。
だが、彼は一瞬目を見開いた後、深い諦念に包まれた様子で、暫し沈黙した。
「今日で十六、やはりお前も…」
ようやくそう呟いて、深い溜め息を吐いた彼は、静かに部屋に入り襖を閉めた。
「そこに座りなさい、咲。大事な話だ。」
拒絶も罵倒もない。その事実は、咲に安堵と同時に得体の知れない不安を覚えさせた。ともかく咲は大人しく父のその言葉に従った。
「浦野の女は短命が多いのは、お前も知っていよう。」
おもむろに父が言う。その問いに咲は無言で頷いた。年頃の娘が、不自然なほど早死にしている。娘が生まれないわけではないのに、家系図では男しか生き残っていないようにすら見えるのを咲は不思議に思いながら眺めた記憶がある。
「周囲には病弱だなんだと説明してあるが、実際はそうではない。お前には今さらだ、単刀直入に言う。…人魚の呪いが原因だ。」
神妙な顔で父が言う。
呪い。人魚の? 咲は思わぬ単語に、それまでのごちゃごちゃとした雑念が途切れた。
「人魚の呪いなどと、お前はバカげた話と思うかもしれんが。」
眉間にしわを寄せる父の顔に、どこか他人事のように咲はその言葉を脳内で反芻した。
人魚の呪い、だなんてなんておとぎ話でもするのだろうか。
「人魚の… 人魚って、泡になって消えた、あの?」
長い髪の美しい女の上半身を持つ、叶わぬ恋に泡となって消えた、深海の姫。海も陸も遠く隔てた異国の海の姫に、何をしたら呪われるというのだろう。
それとも私はまだ悪夢の続きを見ているのだろうか。
「いや、そうではない。八百比丘尼の喰ろうた人魚だ。」
ゆるく首を振った父が言う。苦虫を噛み潰したような顔で。
「八百比丘尼の… あの、妖怪染みた姿の…」
そう言った咲の背筋に、ぞくり、と恐怖が走った。
そうだ、あの闇夜の波間でこちらを見ていた影は、紛れもなくその人魚だったのではないか。凍てつくような、憎しみで満ちた視線をこちらに向けていた、正体の分らぬアレ。
「父さま。呪いとは、いったい…」
あまりの事に、咲の思考が追い付かない。それでも漸く、震える声で父に問う。
「身体中から色が落ちていく。瞳の色が落ち赤からやがては海の泡と同じになり、髪の色も白うなっていく。肌も死人よりも白くなり、やがては鱗のようなものが出来る。」
知ってる。鏡の中に写っていた肌は昨日より白い。目の色も、血の色みたい。ぼんやりと、咲は鏡に写ったバケモノ染みた自分に良く似た影が、呪われた自分自身の姿であったと認識していく。決して夢などではなかったのだと。
「全身、鱗に覆われた時、衰弱してみんな死んでいった。そう聞いている。」
父の顔は苦悶に満ちている。いや、それだけではない。それだけではない、が。
「私は、死ぬのですか。」
咲の口をついて出てきたのは、その言葉だった。今は、自分のことしか考えられない。
「そうかもしれん。」
父は絞り出すような声で答えた。続けざまに、
「呪いは、解けぬものなのですか。」
と、父の様子も構わず咲は問うていた。
「分からん。ただそう聞いている。この浦野の家では、忌むべきものだ。代々長男にしか伝わらぬ話だ。長男以外は誰も知らん話しだ。本家以外の娘が同じようになったとも聞いておらん。…さっきの話以上は、何も分からんのだ。」
長男にしか伝わらぬ、人魚の呪い。誰も、どうにかしようとは思わなかったのだろうか。最後にバケモノのようになって死ぬなんて、そんなのは… 
「何故、浦野の女は人魚に呪われているのですか?」
せめてその理由だけでも、と咲はさらに問うた。
また、父はゆるく首を振った。
「もう、ずいぶん昔の因縁だそうだ。詳しいことは分からん。」
溜息とともに答えた父の様子に、本当にどうしようもない事なのだと、咲の心は重く沈んでいった。
私は、死ぬしかないのでしょうか。
否、死ぬだけならまだ良いのかもしれない。バケモノと打ち殺されるよりは。咲は、泣き叫べば良いのか、怒り狂えば良いのか、分からなかった。

沈黙が、支配した。

父が、無言のまま立ち上がる。眉間のしわが来た時よりも一層深くなっていると、咲はぼんやりと父の顔を見上げていた。
「お前は流行り病に患ったことにする。後で、離れを用意するから、今後はそこで生活するように。」
そう言って、部屋を出ていった。
 嗚呼、私はこのまま、外には出れず、朽ち果てるまで一人でいるのか。生きているより、死んでしまった方が、いっそ良いのではないかとさえ思えてくる。
でも、それでも、こんな姿になってさえも、死ぬのは怖い。咲は静かに涙を流した。
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