水底の歌

渡邉 幻月

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座敷牢

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その日の夜遅く。
一人静かに読書をして、その時間が来るのを待つ。昼間の浦野の話が頭から離れない。
人魚の呪い。
…本当なのだろうか。
蝋燭の炎が揺らめく度に部屋の四隅の闇も動く。まるで、生き物のように。こんな時、うっかりと本当に呪いが存在するのだと信じてしまいそうになる。奥津はぼんやりとそんなことを考えていた。本の頁は先ほどから同じところで止まったままだった。
奥津は人の気配を部屋の外に感じて、読みかけの本を閉じた。
ここは、浦野宅の客間である。皆が寝静まった頃合いでなければ、例の人魚の呪いの原因となった者には会わせられないと言う、浦野の条件のため奥津は珍しく浦野宅に泊まっていたのだ。
「奥津先生、起きていらっしゃいますか。」
押し殺すような声がした。迎えに来た浦野の声だ。
「はい、今、そちらに行きます。」
今か今かと待っていた奥津の準備は出来ている。手持ち無沙汰だったので、本を読んでいただけだ。尤も、呪いのことがちらついてほとんど読み進められなかったのだが。静かに上着だけ羽織ると、廊下側の障子を開けた。 
「こんな遅い時間に申し訳無い限りですが、どうしても他の者の目に触れさせる訳にはいかんのです。」
憔悴しきった浦野が言った。奥津を連れていくだけでも、相当な葛藤があるのだろう。
「いえ、こちらも無理を言いましたから。」
会わせてもらえるなら、その他の条件は浦野の言い分を優先するつもりでいたのだ。それが、時間だけだというのなら何の問題もない。
「…では、こちらです。暗いですので、足元にはご注意下さい。」 
小さな蝋燭の火だけが頼りのようだ。浦野がくるりと向きを変える。
「咲の居る離れの先に土蔵があったでしょう。」
呟くように浦野が言った。
「ええ、ありましたね。随分と古い、もう使われていないような感じがすると思っていました。」
「あの中に、座敷牢があるんですわ。」
ぼそりと浦野が、聞かれたくないことのように奥津に囁いた。
それ以上、浦野は何も言わなかった。奥津も特に詮索するようなことはしなかった。先ほどの浦野の言葉だけで、奥津はそこに例の人物が閉じ込められているのだと悟っていた。それにこの後すぐにでも、必要なことは明るみになるだろうから。
 まずは咲の離れに寄る。浦野が玄関口を開けると、咲が三和土に座って待っていた。はしたない、と言いかけて浦野は止めた。
「こんばんは、先生。」 
咲が力の無い声で挨拶をしてきた。無理もない、奥津は思う。
「こんばんは、咲さん。…行きましょうか。」
咲を気遣いながら、浦野の後を追う。

 離れの先、老木の陰に朽ちかけたそれはあった。雑草が鬱蒼と茂っている。今になって、咲と奥津はこの荒れた様子がわざと作られているのだと知る。人が寄り付かぬように、少しでも興味を引かぬように。あるいは恐怖を感じ、近付かぬように。
土蔵の鍵だけがやけにしっかりとしている。それがより一層、奥津に違和感を与えた。とは言え、他に近付く者はいないのだろう。違和感などあってないようなものなのか、奥津は一人納得する。
溜め息とも深呼吸ともつかぬ息を吐いて、浦野は土蔵の鍵を開けた。錆びかけた金属の重苦しくて鈍い音がして、ゆっくりと扉が開かれた。
生臭いような、生暖かいような、ある種の気味悪さを覚える空気が流れてくる。暗闇でこれは、正直、恐怖しか感じない、そう奥津は思った。 
「咲さん、大丈夫ですか?」 
自分でさえ、ここに来たことを軽く後悔している。そう思って、奥津は咲の様子を窺った。 
案の定、恐怖に震えている。薄暗さゆえ、顔色ははっきりとは分からないが、おそらく血の気は退いているのではないか。
「大丈夫、大丈夫よ先生。だって、私が行きたいって言ったんだもの。」
自分に言い聞かせるように、咲が答えた。
その時、ふっと辺りが明るくなった。
「先生、咲、これを。」
そう言って、浦野がそれぞれに火の灯った蝋燭の燭台を差し出してきた。
「ここに来るまでは、あんまり明るくして周りの者を起こすわけにもいけませんから、蝋燭一つで我慢してもらいましたが、ここなら大丈夫でしょう。まあ、それでも蝋燭の火ではそこまで明るくはなりませんがね。」
「いえ、だいぶ違いますよ。ありがとうございます。」
ほんの少し明るくなった分、恐怖が和らいだ。奥津も咲も辺りを見回す。特別なものは、何もない。使われなくなった古びた漁の道具などが置かれているくらいだ。どれくらいの間放置されているのだろうか。埃や蜘蛛の巣に覆われている。ただ、奥の方に檻のようなものが見えるだけ。
「…こちらです。」 
そう言って、浦野が向かうのは、その檻の方だ。奥津と咲は黙って浦野の後に付いていく。扉からその檻、座敷牢までは比較的整った空間だった。常日頃から浦野が行き来しているからだろう。
朽ちかけた土蔵の割に、その座敷牢の回りだけはやたらとしっかりとしているのが、蝋燭の火だけに照らされている中でも分かった。
「…だ、れ か、きタのか、」
ひどくしゃがれた声がした。老婆のような、喉が潰れた女のような。 もぞもぞと、座敷牢の中で何かが動いている。奥津と咲は、それ、を凝視していた。いや、正しくは目が離せなかったのだ。その姿には気味が悪いと、恐怖すら感じると言うのに。
「おんながいル」
そう言って、こちらを向いたのは。
「っ、ひ、」
咲が悲鳴を呑み込んだ。
そこにいたのは、一体、何なのか。白い髪、赤い瞳、白い肌、だけなら今の咲と同じだ。
だが、ぼろぼろの着物を着た、それの足には、鱗がびっしりと生えている。手にも、所々、鱗が。それに、よく見れば指の間には水掻きのようなものもある。人、の姿をした何かだ。それが何なのか、相応しい言葉が見付からない、と奥津は困惑していた。
虚ろな瞳が、より一層赤い瞳を異様なものにしている。いつから梳(くしけず)る事を止めたのか、乱れた髪はその容貌をよりバケモノ染みたものにしている。痩せ細った体もまた、しかり。

咲の体を突き抜けていったのは、恐怖か絶望か。
あれは何だ。あれは。
あれと同じ血が、私にも流れているのか。だから私は死ぬのか。あれは生き続けると言うのに。言い得ぬ感情が咲を支配し、体を震わす。
「…何、が、あったのでしょうか、父さま。」
咲は震える声で呟いた。もはや、人と呼ぶにはおぞましい姿に成り果てたあの者と人魚との間に。
「これほどまで、呪われる理由は…」
何に恐怖すれば良いのか、咲にはもう分からなかった。異形となった己(おの)が身か、先の知れぬ命か。それとも、目の前の異形にか、その根源となる人魚の恨みか怨念か。
浦野は震える娘を見る。そうして視線を座敷牢の中へ向ける。なんと言う、忌まわしい姿。挙げ句の果て、ついには娘にまで及んだ呪い。思わず、浦野の口から、
「私の娘です。あなたの子孫ですよ。あなたが人魚の怨みをかったから、こんな風に呪われてしまっているんです。」
不満と恨みが吐き出された。
「わたシが、にんぎョのノろイ… っは、あはははははは!」
狂ったように、それ、は笑いだした。忌々しげに浦野が睨みつけても、意にも介さず笑い続けている。その光景に、奥津も咲も、言葉を失って、ただ、立ち尽くしていた。
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