【完結済】夜空のプラネタリウム

廻野 久彩

文字の大きさ
10 / 23

第10話 似た者同士

しおりを挟む
昼の熱はまだ抜けず、廊下の空気は透明なゼリーみたいに重たかった。  

理科棟の一番奥——「天文部」。  
扇風機の首が左右に忙しく動き、机の上には観測カードと赤いセロファン、予備の星座早見盤。  

望月先輩は白板に「8/12→13 24:30 屋上」をもう一度大きく書き、柏木先輩はシートの汚れを雑巾で落としている。新堂はブルーシートに空気を入れては抜き、入れては抜き——遊んでいるのか準備なのか、その境目で笑っていた。

「今日、いて座まで歩こう。ベガ—アルタイル—デネブの“三角形”から南に下りていくと、ティーポットみたいな形に出会う。注ぎ口のあたりから“湯気”みたいに天の川が立つ、って覚える人もいる」

望月先輩が、星図を指でなぞる。  
美月は早見盤を回し、東を合わせ、南の低空に小さな四角形と三角形——たしかに“ポット”。  
さそりの赤いアンタレスから、いて座のティーポットへ、そこから白い帯がのぼる気配。  

(見えない線は、名前で引ける——あの日のメモが甦る)

部室のドアが、ノックもなく控えめに開いた。  

「ごめん、資料、これ」  

昨日見かけた彼女が、透明ファイルを両手で抱えて立っていた。  
肩で結んだ髪。長いまつげの影が、目尻の形をやわらかく縁取る。  
笑うと、口角がほんの少しだけ右へ先に上がる——その癖を、美月は一瞬で好きになってしまう。

「助かる。ありがとね」  

望月先輩が受け取り、机の端に置く。  
彼女は柏木先輩にも軽く会釈して、「じゃ、また」とだけ言って去った。  
ほのかな石けんの香りが、扇風機の風に乗って薄くほどける。

気づいたら、美月の口が動いていた。

「……さっきの人、まつげが長くて綺麗。笑うと、目の形が可愛い。——口角の上がり方が、好き、です」

言った瞬間、自分で驚いた。  

観測ログでは平気で言葉を選べるのに、人のこととなると、急に手元が狂う。  
柏木先輩は「観察眼」と唇だけで呟き、新堂は“ほう”と意味深に頷く。  
望月先輩は——一拍遅れて、視線をほんの少しだけ泳がせた。

「……そう?」

いつもの落ち着きの奥に、薄い乱れ。  
部室の蛍光灯が、黒目に細く反射する。  

(——“似てる”)  

ふっと、そんな言葉が胸を横切った。  
まつげの長さ、目の形、笑ったときの口角。彼女と先輩の顔を、頭の中で重ねる。  
血のつながり、という言葉の存在を知らないまま、ただ輪郭の親しさに気づく。

望月先輩は、白板のペン先を持ち直し、話題を空へ戻すかのように指を動かす。

「さ、いて座から南斗六星。ティーポットの“柄”の部分がそれ。双眼鏡でのんびり眺めると“星の群れ”がよくわかる。気温が高い夜は、揺らぎで滲むこともあるから、焦らない」

さらりと説明しながら、耳の先が、わずかに赤い。  
美月は自分の言葉の温度が、部屋の温度に少し足されてしまったことを、今更ながら自覚する。

「——じゃ、屋上」

柏木先輩の号令で、道具を抱えて階段を上る。  
鉄扉の向こう、空はまだ浅い群青。  
赤いライトを点け、暗順応の十分。  
目を閉じると、風がまぶたの上で層になり、音が一つずつ距離を持つ。

「開けて」

西に残る薄い橙の上、宵の明星。  
東高く、ベガ。少し下にアルタイル、北東にデネブ。  

「三角形から、南へ」  

望月先輩の声に合わせて、視線を滑らせる。  
アンタレスの赤。そこから右へ、ティーポット。  
注ぎ口から、白い湯気——天の川の気配。

「……見える気が、します」

「うん。“気配”で十分。双眼鏡、貸して」

望月先輩が手渡してくれた双眼鏡のストラップが、指にやわらかく触れる。  
レンズの向こう、点だったものが、群れに変わる。  
曖昧な粒が、集まっている事実だけで胸が満ちる。

「うまい」

「——たまたま、じゃ、ないです」

言葉が、思っていたより真っ直ぐに出た。  
先輩が少し笑って、すぐに真顔に戻る。

「今夜は、星の“顔”の話をしてもいい?」

「顔?」

「ベガは“針”。アルタイルは“通路”。デネブは“起点”。——星にも“顔”があるって話。濃い薄い、にじみ方、鋭さ。人と同じで、それだけで“誰か”になる」

“顔”。  

さっき自分が言った褒め言葉が、空にも届くのがおかしくて、でも、すごく正しい気がした。  
望月先輩は、双眼鏡の視度リングを指で回しながら、視線を空から降ろすことをしなかった。

「まつげが長いって、光の“縁”がはっきり見える感じに近い。目の形は——星のにじみ方。笑うと口角が上がるのは……うーん、明るさが一段、増す?」

「たとえ、変です」

「だよね」

二人で、同時に笑った。  
笑いの余韻の中で、胸のどこかが小さく跳ねる。  
望月先輩は、ふいに自分の目元を指で触れ、何かを確かめるように瞬きをした。

「……俺、まつげ、長いのかな」

天然に過ぎる一言。  
美月は反射で、まっすぐ言ってしまう。

「長いです。横顔、光が当たると、影が落ちます」

言い切った自分に驚き、舌の先が熱くなる。  
先輩は「そっか」とだけ言い、耳の赤がもう少し濃くなった。  
風が、シートの隅をぱたぱた揺する。  
夏の匂い——草、遠くのタレ、どこかの家の風鈴。

「今日のログ、“ひとこと”は?」

望月先輩が観測カードを差し出す。  
美月はペン先を迷わず動かした。

 東高く:夏の大三角/南低く:アンタレス→いて座ティーポット  
 ひとこと:星にも“顔”。湯気=天の川の気配

書き終えて顔を上げると、先輩はまだ少しだけ耳を赤くしていた。  
さっきの褒め言葉の残り火が、部室ではなく、この屋上の風の中に漂っている。

「……あの人、誰ですか?」

自分で驚くくらい、静かな声が出た。  
言った瞬間、空の温度が一度だけ変わった気がした。  
望月先輩は、わずかに間を置いて、いつもの穏やかさで言う。

「昔から家族ぐるみでね。——進路の話、時々」

“家族”の一語が、胸に刺さって、すぐに溶けた。  

(やっぱり、近いんだ)  

言葉にしない部分が、自分の内側で勝手に太字になる。  
でも次の一拍で、別の気づきが生まれる——“似てる”の正体に、手がかかる感じ。  
ただ、そこへ届く前に、望月先輩がふいに話題を戻した。

「流星群、いよいよ明日。——“一分法”、もう一回だけ、やる?」

「はい」

二人で寝転び、視界を四等分。  
タイマーの小さな音。  
一分は、長い。  
流れない空に、耳だけが敏感になる。  
遠くの国道、手前の樹の葉、ベランダの風鈴。  
0。  
でも、待ったという事実が、確かな一行になる。

片付けに入るとき、柏木先輩が「水分、氷、上着」と指差しでチェックし、新堂は真顔で「願いごと短文化」と自分の手の甲に書いていた。  
笑いながら階段を下りる。蛍光灯の白が目に差す。

廊下で、望月先輩がふと立ち止まる。  

「さっきの、“顔”の話——一ノ瀬さんは、人の“顔”を見るの、うまいね」

「観測、得意なので」

「……俺にも、時々、そうやって言葉をつけてくれると、助かる」

心臓が、一度強く鳴る。 
それは頼み事の形をしていたけれど、どこかで距離の縮まり方に似ていた。  
返事は短く、「はい」。  
それだけで、今日は十分だと思えた。

昇降口を出ると、夜気は昼より軽い。  
商店街の提灯が、赤い明かりを深くしている。  
遠くで小さな花火が音だけを置いて割れた。  
ポケットの中の観測カードの“ひとこと”欄の端に、鉛筆でごく小さく書く。

 似ている、という距離

その日の夜、美月の部屋。 
 
机の上に、上着と敷物と赤いセロファン。  
母が顔をのぞかせ、「明日の夜食、置いておくね」と言って、水筒を冷凍庫に入れる。  
窓の外、ベランダの風鈴が一度だけ鳴った。  
東の高みに三つの点。  
“針”“通路”“起点”。  
南の低く、赤い心臓。  
そこから注がれる“湯気”の気配。

美月はまだ知らない。  

“似ている”の正体に、”血のつながり”という言葉があることも、  
さっき自分が並べた褒め言葉が、そのまま先輩の輪郭に当たって、  
本人の胸の奥をどきりと鳴らしてしまったことも。

ただ今は、明日の座標——8/12→13 24:30を、  
早見盤の東に合わせ直しながら、  
“星にも顔がある”という言葉を、何度も心の中で反芻していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

【完結】エレクトラの婚約者

buchi
恋愛
しっかり者だが自己評価低めのエレクトラ。婚約相手は年下の美少年。迷うわー エレクトラは、平凡な伯爵令嬢。 父の再婚で家に乗り込んできた義母と義姉たちにいいようにあしらわれ、困り果てていた。 そこへ父がエレクトラに縁談を持ち込むが、二歳年下の少年で爵位もなければ金持ちでもない。 エレクトラは悩むが、義母は借金のカタにエレクトラに別な縁談を押し付けてきた。 もう自立するわ!とエレクトラは親友の王弟殿下の娘の侍女になろうと決意を固めるが…… 11万字とちょっと長め。 謙虚過ぎる性格のエレクトラと、優しいけど訳アリの高貴な三人の女友達、実は執着強めの天才肌の婚約予定者、扱いに困る義母と義姉が出てきます。暇つぶしにどうぞ。 タグにざまぁが付いていますが、義母や義姉たちが命に別状があったり、とことんひどいことになるザマァではないです。 まあ、そうなるよね〜みたいな因果応報的なざまぁです。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

【完結】あなたの瞳に映るのは

今川みらい
恋愛
命を救える筈の友を、俺は無慈悲に見捨てた。 全てはあなたを手に入れるために。 長年の片想いが、ティアラの婚約破棄をきっかけに動き出す。 ★完結保証★ 全19話執筆済み。4万字程度です。 前半がティアラside、後半がアイラスsideになります。 表紙画像は作中で登場するサンブリテニアです。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

処理中です...