【完結済】夜空のプラネタリウム

廻野 久彩

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第9話 従姉妹という名の誤解

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流星群の“予告状”をもらった翌日。  

午後の熱は、校舎の壁で増幅されてから廊下に滞留していた。  
美月は汗で少し手のひらの湿った星座早見盤を、ハンカチでそっと拭う。  
8/12の「24:30」を、頭の中の白板で何度も丸で囲む——そうやって気持ちを落ち着かせながら、理科棟へ向かった。

部室の鍵はまだ閉まっていた。柏木先輩は職員室へ書類、望月先輩は「17時、少し外で用事」と連絡ノートに走り書きしてあった。  

(進路の……相談、だっけ)  

昨日、スマホの画面にチラリとのった文字列が、記憶の中で勝手に鮮明になる。

風を求めて、理科棟の裏手へ回る。  
そこは夕方の影が早く落ちる場所で、放課後の部活の声も届きにくい。  
自販機の横のベンチ——そこで、二人を見た。

望月先輩と、彼女。

同じ学年くらい。肩で結んだ髪。横顔はすっと整っていて、笑うと目尻の形がやさしく変わる。長いまつげが影を落とし、口元には控えめな赤。  
二人は一枚のパンフレットを覗き込んでいて、紙面に顔を寄せるから、自然と距離が近い。

「ここ、研究室の分野。観測と理論に分かれてて——」  

先輩の声。  

「え、じゃあ、ここは?」  

彼女の指先が紙をなぞり、先輩の指と触れて、ふっと離れる。  
小さな笑い声。パンフレットの角が、風に一度だけめくれた。

胸の内側で、小さな石が落ちる。  
音はしないのに、落ちた場所だけが鮮明だ。  

(進路、の相談……だよね)  

自分に言い聞かせる。  
言い聞かせながら、視線は勝手に、彼女の横顔の“整い方”を記録する。  
まつげが長い。目の形が綺麗。笑うと可愛い。

“星の名前を知ると近づく”。  

人にも、たぶん、似た規則がある。  
名前を知らない誰かは、遠くの光だ。  
でも、今の距離は——遠く、ではない。

見ている場合じゃない、と足を引き剥がす。  
角を曲がる前、彼女が何かを差し出した。透明のファイル。  
先輩がそれを受け取るとき、指がまた触れ、彼女は少し照れたように笑った。  
その笑いが、夏の空気に軽く溶ける。

部室に戻ると、空気はいつも通りだった。  
扇風機の唸り、机の上の投影機、段ボール箱に貼られたマスキングテープ。  
鍵は五分後に柏木先輩が持って現れ、「お、早いね」と笑った。  

「望月は?」  
「さっき、外で」  
「そう。じゃ、チェックだけ先に——」  

柏木先輩は、観測カードの予備、赤フィルムの残数、シートの汚れを淡々と確かめていく。  
美月も手伝いながら、指先が自分のものじゃないみたいにぎこちないのを、意識しないふりをした。

「明後日、24:30集合ね。上着忘れずに。あと、水分多め。汗、引いてから夜は冷えるから」  
「はい」  

声が少しだけ上ずって、自分でわかる。  
柏木先輩は不思議そうに首を傾げたが、深くは聞かなかった。

連絡を終えたころ、廊下の向こうから笑い声。  
戻ってきた望月先輩の隣に、さっきの彼女。  
「こんにちは」と丁寧に会釈して、部屋の前で立ち止まる。  

「部活中なら……また今度で」  
「いや、ここで大丈夫。——資料だけ置かせて」  

彼女は透明ファイルを差し出す。表紙には、大学の説明会の日程と研究室一覧。  
指の腹には薄い紙ヤスリで磨いたみたいな清潔さがあって、ファイルのビニールが小さく鳴った。

「ありがとう。助かった」  

先輩はいつもの調子で受け取る。  

「じゃあ、また。——明日の17時、いつものとこで」  
「うん」  

“いつもの”。  

その言葉が、紙よりも先に胸に貼りつく。  
柏木先輩は「こんにちは」と微笑みを返し、新堂はなぜか背筋を伸ばした。  
彼女は丁寧に頭を下げ、足早に廊下を去る。  
すれ違いざま、柔らかい石けんの香りがした。

「進路の資料、取り寄せてもらってて」  

望月先輩は、何でもないように説明した。  

「ありがとう。——で、部のほうは、光害対策の再確認。灯りからの距離、十五歩で星が一個増えるか、屋上でもやってみる」  

その言い方はいつもの“橋”の作り方で、穏やかにまっすぐだった。  
なのに、紙の上の文字よりも、たった今の二人の「いつもの」が、脳内の白板に太字で残ってしまう。

作業を終え、解散。  
「じゃ、明日は各自睡眠調整。集まるのは明後日夜」  
柏木先輩が指を二本立てる。  
新堂は「ゼロ個も記録!」と自分に言い聞かせ、美月は「はい」と短く返した。

昇降口を出ると、風はもう夜の層を薄く乗せていた。  
校舎の東側に回り込んで、屋上を見上げる。  
ベガ、アルタイル、デネブ。  
三つの点はいつも通りそこにあるのに、心はうまく“位置合わせ”ができない。  
早見盤を回しても、胸の中の星図だけが、わずかにずれている気がした。

その日の夜、美月の部屋。
机に観測カードを広げ、昨日書いた「ひとこと」を読み返す。

 待つのが仕事  
 ペン先がその下で止まり、別の言葉が滲む。  
 見たくないものは、どう“数える”?  
 すぐに消しゴムで消す。カードは、空のためのものだ。地上のことで汚したくない。  
 でも、心の白板には消しゴムが効かない。

窓の外に顔を出すと、ベランダの風鈴が一度だけ鳴った。  
遠くの国道の音が少し弱まり、代わりに虫の声が濃くなる。  

(距離は測れる、って言ったのは先輩だ)  

視差。  

片目をつぶって親指を見つめ、左右の目で交互に見たときの“ズレ”。  
半年で星の位置がほんの少し変わる、その微細さで“遠さ”がわかる。  
——人の“近さ”は、何で測れるんだろう。

スマホの画面に、部の連絡が一つ。

 【8/12→13】集合24:30/寝転び配置/赤ライト/“ひとこと”必須  

視線がその下へ勝手に滑る。  
通知履歴の淡い影に、「明日17時」の記憶が重なる。  

 (進路、だよね)  

言い聞かせる。  
言い聞かせるたびに、胸の中の石は少し丸くなる——ふりをする。

翌日。  
放課後の空は薄曇り。  

理科棟の廊下を歩くと、ガラスの向こう、同じベンチに二人。  
今日はパンフレットじゃなくて、パソコンの画面を並べている。  
研究室のサイト。教授の名前。業績のページ。  
画面を指す指と、指の影。  
彼女は時折メモ帳に短く書き、先輩は身振りで説明を補う。  

二人だけの地図が、紙の上に増えていく。

見なかったことにしよう。  
足を速める。  
階段を上がり切る直前、彼女が笑いながら小さく言った。  

「……ほんと、頼りになる」  

階段の踊り場の空気が、少しだけ甘くなった気がした。

屋上。  

鉄扉の向こうは、いつも通りの風。  
シートを一人分だけ広げ、寝転んでみる。  

視界を四等分。右上、右下、左上、左下。  
“担当”を決めたのに、目は真上に戻ってしまう。  

雲の切れ間から、ベガ。  
その右下にアルタイル。  
少し遅れて、北東の低いところにデネブ。  
——三つは、ちゃんと三つの位置で待っている。

(待つのが仕事)  

カードの“ひとこと”欄の文字を思い出し、深呼吸。  
風は南から。  
屋上の音が、体の下を通り抜けていく。  
遠くの風鈴が二度、間を置いて鳴った。

「——一ノ瀬さん?」

鉄扉が開く音。  
起き上がると、望月先輩が立っていた。  

「鍵、開いてたから。——明後日の配置、もう一回確認したくて」  

いつも通りの声。  
いつも通りの距離。  
なのに、美月は「はい」と言う声を、少し探した。

寝転び位置を二人で確認し、手すりからの距離にテープを貼る。  

「視線は広く、だよ」  

「はい」  

「一分法、試しておく?」  

「……今日は、やめておきます」  

先輩は一瞬だけ不思議そうに眉を動かし、すぐに「じゃ、解散」と笑った。  
階段に消える足音。  
鉄扉が閉まる前、彼は振り返らずに言った。  

「当日、楽しみにしてる」  

“楽しみ”という言葉が、風でこちらに戻ってくる。

(楽しみ、にしてるのは、私も)  

胸の中で返事をする。  
声にすると形が崩れそうで、心の真ん中にそっと置く。

帰り道。  
商店街の提灯は昼の名残の熱を吸って、赤を濃くしていた。  
ラムネの栓を抜く音。遠くで一度だけ上がる小さな花火。  
家の角を曲がると、どこかの庭から蚊取り線香の匂い。  
夏の記号は、いつも通りだ。

机の上。  
観測カードの“ひとこと”欄に、鉛筆でごく小さく書いて、すぐに消す。

 名前を知らない光ほど、近く見える夜がある  

消した跡だけが、うっすら残る。  
代わりに、別の行をちゃんと書く。

 風:南 / 暗さ:3/5 / 音:国道→弱

窓の外、東の空に三つの点。  
“針”“通路”“起点”。  
明後日の「24:30」は、そこへ向かう座標。  
そこへ——二人で行く約束。  
そのはず、なのに。

美月はまだ知らない。  

ベンチの彼女が、あの“相談”の送り主であることも、  
その“いつもの”が、家族みたいな距離の言い方であることも。

今はただ、胸の中に落ちた小さな石を指先で転がしながら、  
待つという方法だけを、もう一度、確かめていた。
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