【完結済】夜空のプラネタリウム

廻野 久彩

文字の大きさ
16 / 23

第16話 恋愛相談の真実

しおりを挟む
午後五時前、予備校の自習室は鉛筆の音だけが均一に鳴っていた。  
望月は物理の問題集を閉じ、ページの間に挟んでいる観測カードをそっと確かめる。

 ひとこと:見えない線でつながる三つ  

薄い鉛筆の線。端に残った小さな汗の輪。  

(返すのは——当日、直接)  

自分で書いたメモの約束を、心の中でもう一度なぞる。

携帯が小さく震えた。

"17時、いつものところで。"  

あの相談の送り主。  
駅前の喫茶店は、夕立を逃れてきた人で少し混んでいた。窓際の席、氷水のグラスに水滴が筋を作る。

「待たせた?」  

彼女は肩で結んだ髪を指で直し、透明ファイルを差し出した。大学のパンフレット、研究室一覧、面接カードの控え——そして、小さなメモ帳。

「進路のやつ、ほんとにありがとう。……それと恋愛相談、あの、続き」

声の調子がわずかに変わる。  
望月は無言で頷き、耳を澄ます。

「例の彼、予備校の化学のクラスで一緒なんだ。ノートの取り方が綺麗で、質問するときいつも列のいちばん後ろからで……なんか、いいなって。  
でね、告白とかじゃなくて、ただ“応援してます”って言葉をいつ渡せば邪魔にならないか、怜に聞きたくて」

心の中で、何かが音もなく位置を取る。  

(——俺じゃ、ない)  

胸の中心にできていた小さな空白が、逆に輪郭を持つ。

「この前も“ありがとうございます”のメッセージの文を見てもらったでしょ? 既読になった瞬間、さとるから通知が来て、びっくりした」  

彼女は笑って、ストローを軽く口に含む。

「でも……だいじょうぶ? 最近、目の奥が疲れてる」  

「受験モードだから」  

「それだけじゃない顔してる」  

「……後輩が一人、ちょっと“すれ違い”気味」  

「ふーん。怜、そういうときは言葉が少ないからなあ」  

彼女は真顔になり、メモ帳の端を切り取って、細い字で書く。

 誤解、放置×  
 “誰でもない”でなく“誰か”だと伝える  
 場所=屋上/時間=流星群

「場所と時間を決めて、光を弱めて伝えること。ね、赤いセロファン越しに」

望月は笑うしかなかった。

(赤い光。夜目をつぶさない伝え方)  

「ありがとう。……で、その彼には?」  

「うん、流星群のあと、“模試が終わったら一緒に帰りませんか”って言ってみる。今は邪魔したくないから」  

彼女はペンをしまい、ストローの包み紙をきれいに畳む。

「怜もさ、ちゃんと“待つ以外”を覚えなよ。橋はかけるだけじゃ、渡られないときがある」  

「——わかってる」

喫茶店を出ると、夕立の名残が街を洗っていた。  
舗道の水たまりが空の色を映して、歪んだ三角形がいくつも揺れる。  
彼女は「じゃ、また」と手を振り、角を曲がって消える。  
ほのかな石けんの匂いが、雨の匂いに溶けて薄くなった。

(……従姉妹。恋愛相談の相手は別の誰か。)  

答えは簡単だったのに、やっと言語化された事実が、遅れて胸に届く。  
同時に、別の痛みが立ち上がる——伝えられなかった時間の重さ。  

「家族みたいな関係」  

そう言えば足りるのに、言えば言うほど“言い訳”に聞こえる予感が、喉を塞いでいたのだ。


部室。  
白板には8/12→13 24:30。柏木がチェックリストを更新している。  

「どう、天気図」  

「今のところ雲は通り道。——放射点はペルセウス座、でも視線は真上から広く、ね」  

望月は白板のすみにZHR(天頂修正流星数)のメモを小さく書き、消す。数字の確からしさより、今は言葉の確かさが必要だと思い直す。

柏木が机の端を指さす。

「それ、まだ挟んでるの?」  

問題集の間の観測カード。

 ひとこと:見えない線でつながる三つ  

「……返す。明日、直接」  

「うん。——それと、誤解の件、言葉で赤フィルムかけてから渡してね」  

「赤フィルム?」  

「眩しすぎない言い方、ってこと」  

柏木は真顔で笑う。「“家族”って単語を先に置く。“従姉妹”は、二拍目に出す。順序が大事」

順序。  
星座も、明るい星からたどるのが近道だ。  
言葉も、眩しさと順序で見え方が変わる。

望月は、引き出しから透明テープと細いマスキングテープを取り出し、工具箱に入れる。  

(早見盤に波打ち。——たぶん、涙)  

言葉にしない想像が、指先に重みを加える。

「部長」  新堂が顔をのぞかせ、手に空気枕を二つ。
「枕、二個余りました」  

「助かる。——首を守るのがいちばん偉い」  

言いながら、望月は白板に**“待つ=仕事/伝える=準備”と小さく書いて、すぐに消した。  

(待つだけじゃ届かない。——伝える)

夜。  
自習机に戻ると、数式の横で数字が霧になる。  
等加速度運動の解答に入るべきところで、頭の中に等速直線運動みたいな沈黙が走る。  

(進め。——でも、立ち止まれ)  

相反する命令が同居する。  
窓の外、校庭の端のやぐらが骨組みだけで夜を受け取っている。  
東の空にベガ、少し下にアルタイル、北東にデネブ。  
三つは毎夜、位置を持ってそこにいる。  
(方角は裏切らない。俺が迷っているだけだ)

携帯のメモに、短い文を作っては消す。

 明日、話したい  
 家族のこと  
 誤解させたかも

どれも強すぎる白で、眩しい。  
(赤い言葉に)  
小さな息を吐き、三行だけ残す。

 明日、屋上で。  
 カード、返す。  
 伝えたいことがある。

それ以上は送らない。  
当日、直接。  
言葉は空の下で調整する。


同じころ。  
喫茶店で別れた従姉妹は、廊下の掲示板の前で足を止めていた。  
「天文部 見学歓迎/流星群観測」——手描きの星。  
彼女は小さく笑う。(怜は、こういう字を書く)  
ふと、階段の上から柏木が降りてきて、会釈を交わす。

「いつも資料ありがとう」  

「いえ。——あの、誤解されません?」  

従姉妹は、言いにくそうに切り出した。

「最近、廊下で見ると、後輩の子が眼を伏せるから……私、たぶん原因ですよね」  

柏木は一度小さく目を細め、うなずいた。

「原因の一つ、かもね。彼女、いい子。でも今は、夏」  

「夏?」  

「近く見える季節。空気の向こう側がね。……伝えとく。怜には赤いフィルムで」  

従姉妹は「お願いします」と頭を下げ、校門へと歩いていった。  
彼女が向かうのは、別の誰かとの、別の座標だ。


深夜。  
望月は道具箱をもう一度開ける。  
透明テープ/マスキングテープ/空気枕/赤フィルム。  
観測カードの束の一番上に、小さな付箋を一枚。

 “ひとこと”を必ず。  
 0 も 記録。

風が窓の金具を撫で、風鈴が一度だけ鳴った。  
北東の空に、Wのカシオペヤ。  
放射点は、その下。  

(来い。——流れ星)  

予約不可の空へ、静かに待つと伝えるの両方を言い渡して、電気を落とす。


美月はまだ知らない。  

彼女の相手が、予備校の化学の彼であることも、  
廊下で見かけた二人の距離に血の繋がりがあったことも、  
明日のために望月が赤い言葉を準備していることも。

そして望月は知っている——  
真実は、ただ置いただけでは届かない。  
光を弱めて、順序を選んで、方角を決めて、初めて見えるのだと。

それでも胸の奥の苦悩は消えない。  
“伝える”前の夜はいつだって、暗順応の最中みたいに、長くて、静かで、少し痛い。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します

スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」 眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。 隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。 エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。 しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。 彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。 「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」 裏切りへのカウントダウンが今、始まる。 スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

白椿の咲く日~ひそかな恋、遠い日の思いは

紫さゆり
恋愛
結婚を控えた真由子は、久しぶりに異母姉の稚子(わかこ)と会う。 真由子の母の雪江は、大学教授であり著名な歌人の水上実之(みなかみさねゆき)の後添いとして水上家に嫁いだ。 婚約者の諒人(りょうと)のことなど、真由子は稚子と色々語り合ううち、庭の白椿の木は真由子がなついていた異母兄、靖之が植えたものだと知る。 白椿の木をめぐっての、ひそかな大人の恋物語です。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
2026.1.4 73話見直した際、瑛士の台詞《本音/懺悔》を加筆しました。😇 ☘ 累計ポイント/ 200万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

あなたが遺した花の名は

きまま
恋愛
——どうか、お幸せに。 ※拙い文章です。読みにくい箇所があるかもしれません。 ※作者都合の解釈や設定などがあります。ご容赦ください。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
【3月中――完結!】 積み上がった伏線の回収目前!! 夫にも子どもにも、私は選ばれなかった。 長年の裏切りを抱え、離縁状を置いて家を出た――。 待っていたのは、凍てつく絶望。 けれど同時に、それは残酷な運命の扉が開く瞬間でもあった。 「夫は愛人と生きればいい。  今さら縋られても、裏切ったあなたを許す力など残っていない」 それでも私は誓う―― 「子どもたちの心だけは、必ず取り戻す」 歪で、完全な幸福――それとも、破滅。 “石”に翻弄された者たちの、狂おしい物語。

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

処理中です...