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第15話 涙の星座早見盤
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昼の熱は、窓ガラスの内側まで入り込んでいた。
扇風機の首をいちばん強くしても、部屋の空気はゆっくりとしか巡らない。
美月は机に肘をつき、指先で星座早見盤の円をそっと回す。
目盛りを8/13 0:30に合わせると、楕円の窓の中に、今夜の空が収まるはず——頭では何度も確かめた手順なのに、胸の鼓動だけが手順から外れていた。
(行くって決めた)
心の白板に太字で書いた文字を、もう一度なぞる。
それでも、昨日の言葉が、喉の奥で紙片みたいに引っかかったままだ。
先輩は、あの人と行けばいいじゃないですか。
言ってしまった。
言葉は、風鈴みたいに一度鳴ったら戻らない。
机の上には、観測カードと赤いセロファン、薄手の上着。
カードの“ひとこと”欄には、「当日、直接。」とだけある。
それ以上は書けないまま、鉛筆が丸くなっていく。
母が扉をノックして、顔を出した。
「夜、遅いんでしょ。夕飯は軽くして、少し寝ておきなさい」
「うん。……寝てみる」
横になって目を閉じても、睡眠は浅い水たまりみたいに揺れるだけで、深くならない。
耳の奥では、昨日の太鼓の残響と、先輩の「変えない」が交互に鳴る。
起き上がって、カーテンの隙間から空を見る。
白い雲が薄く流れ、遠くで雷の気配が喉を鳴らしている。
(夕立、来るかな)
窓を少し開けると、濡れたアスファルトの匂いが上がってきた。
夏の光景は、いつも通りだ。
机に戻り、早見盤をもう一度、東に合わせる。
“夏は東からはじまる”——屋上で聞いた言葉を、指先で反芻する。
Wのカシオペヤを上辺に置いて、そこから少し下、ペルセウス座の位置を鉛筆で軽くなぞる。
「放射点は北東。でも視線は真上から広く」
望月先輩の声が、紙の上の図に重なる。
ペンを置くはずの指が、そこで止まった。
胸の真ん中に、知らず知らず溜めたものが、今になって音もなく溢れてくる。
涙は、最初だけ静かに落ち、次の一雫からは星よりも速かった。
ぽと、ぽと、と早見盤に落ちて、薄い青の紙がふやけていく。
円盤の縁が、ゆっくり反り、二枚の円が噛み合う感触が変わる。
「……やだ」
声に出すと、涙はさらに速度を増す。
紙の星と星の間に、濃い染みがにじんで、名前の文字の角が丸く溶ける。
ベガの“ガ”が少し流れ、デネブの“ネ”の縦棒が短くなった。
アルタイルだけが、運よく無事で、そのことが余計に苦しかった。
(ごめん。紙に、じゃない)
誰に謝っているのか、わからない。
謝るべき相手は、ほんとうは一人だけだと知りながら、今は紙しか濡らせなかった。
涙が少し落ち着いたころ、布ティッシュでそっと水分を吸い取り、ドライヤーの冷風で優しく風を当てる。
紙は乾くけれど、わずかな波打ちは残った。
円を回すと、さっきまでの“ぴたり”が、“かさり”に変わっている。
正確さが少し失われた早見盤。
でも、空のほうは狂わない。
方角は裏切らない——それだけを掴んで、紙の歪みに息を合わせる。
観測カードを手に取る。
「待つのが仕事」と何度も書いてきた手で、鉛筆の先を**“ひとこと”欄に置く。
文字はなかなか立ち上がらない。
代わりに、余白に小さく書いては消す。
ひとこと(案):紙は歪むけど、空は歪まない
(消す)
ひとこと(案):見えない線を、もう一度引く
(消す)
ひとこと(案):東は、はじまり
(残す)
扇風機が首を振るたび、乾ききらない紙の匂いが微かに立つ。
ふと、視差の練習を思い出し、窓辺で親指を立てる。
左右の目で交互に見ると、親指が背景に対してズレる。
(距離は測れる。——空では)
人の距離は、単位がない。
けれど、呼ぶことはできると、柏木先輩に教わった。
“来て”って、言葉にすること。
それができなくて回り道をした昨日の自分が、急に幼く見える。
携帯を取り上げ、メッセージの画面を開く。
【望月】24:30。東側は寝転び優先。上着と敷物。
その一つ上には、昨日の「変えない」がある。
入力欄に、言葉が三つ現れては消える。
“すみません”。
“言いすぎました”。
“行きます”。
どれも既に伝えたはずで、どれもまだ言えていないような気がして、結局、何も送らない。
当日、直接。
自分で書いた言葉を、今は信じるしかなかった。
夕立が短く通り過ぎ、ベランダの手すりが濡れて光る。
湿気が一段落すると、空の色が少しだけ澄む。
東の低いところに、宵の明星が白く滲み、やがて沈む。
その上の層に、ベガが針で刺したように現れる。
(夜は、来る)
来ない夜はない。
それでも、待つのは、やっぱり仕事だ。
日の入とともに、部屋の灯りを最小に落とし、暗順応の練習をもう一度。
“白い光は禁止”。
赤いセロファンのスマホライトで、持ち物を並べ直す。
上着。敷物。観測カード。空気枕。水。
そして、少し歪んだ早見盤。
角が柔らかくなったビニール袋に入れ、上から薄いマスキングテープで補強する。
——紙の歪みは、少しの工夫で支えられる。
心も、少しの工夫で支えられる……はずだ。
玄関へ向かう時間には、まだ早い。
最後にもう一度だけ、机に座って、ノートの余白を開く。
最初のページに書いた“ほんとうの幸い”の文字は、あのときよりも淡い。
だけど今は、淡いほうがいい。
強い言葉は、今の自分には少し眩しすぎる。
鉛筆で、短く書く。
待つ+行く=今夜
東=はじまり(忘れない)
“ひとこと”は空の下で決める
手を止めると、外から風鈴が一度だけ鳴った。
その音は、夏の始発のベルみたいに聞こえる——第1話の夕方を思い出して、ふっと笑う。
始発駅で乗った列車は、こんなふうに遠回りをしながらも、まだレールの上にいる。
出発の少し前、鏡の前で髪を結び直す。
ゴムのきしむ小さな音。
顔は、泣いたあとの火照りがまだ残っているけれど、目は、夜の暗さに慣れる準備ができている。
母が廊下から声をかける。
「行ってらっしゃい。——帰りは朝になるでしょ。気をつけて」
「うん」
ドアを開けると、夜の層がひとつ増えていた。
校門へ向かう道。
線香の匂い、遠くの国道の音、どこかの花火が遅れて置く低い響き。
五歩、十歩、十五歩——灯りからの距離で星が増える感覚を、身体で数える。
角を曲がるたび、胸の中の東が強くなる。
学校が近づくと、屋上の手すりの黒い線が、夜の上に静かに浮かんだ。
階段を上る前、ポケットの中の観測カードをもう一度確かめる。
“ひとこと”欄は空白。
空白は、怖い。
でも、空の下で埋めると決めた。
鉄扉の前で、一度だけ深呼吸。
扉の金具は、昼の熱を手放して、ひんやりしている。
手のひらで押すと、やわらかな闇の層が内側から迎えた。
——この先に、24:30。
放射点は北東、でも視線は真上から広く。
方角は裏切らない。
歪んだのは紙で、迷っているのは心で、空はいつも通りだ。
美月はまだ知らない。
この少し歪んだ早見盤を見て、先輩がそっとテープを足してくれることも、
「紙は歪んでも、起点は変わらない」と、小さく笑ってくれることも。
ただ今は、東をはじまりに置き直して、見えない線を胸の中で引き直しながら、
約束の時刻へ、静かに歩いていった。
扇風機の首をいちばん強くしても、部屋の空気はゆっくりとしか巡らない。
美月は机に肘をつき、指先で星座早見盤の円をそっと回す。
目盛りを8/13 0:30に合わせると、楕円の窓の中に、今夜の空が収まるはず——頭では何度も確かめた手順なのに、胸の鼓動だけが手順から外れていた。
(行くって決めた)
心の白板に太字で書いた文字を、もう一度なぞる。
それでも、昨日の言葉が、喉の奥で紙片みたいに引っかかったままだ。
先輩は、あの人と行けばいいじゃないですか。
言ってしまった。
言葉は、風鈴みたいに一度鳴ったら戻らない。
机の上には、観測カードと赤いセロファン、薄手の上着。
カードの“ひとこと”欄には、「当日、直接。」とだけある。
それ以上は書けないまま、鉛筆が丸くなっていく。
母が扉をノックして、顔を出した。
「夜、遅いんでしょ。夕飯は軽くして、少し寝ておきなさい」
「うん。……寝てみる」
横になって目を閉じても、睡眠は浅い水たまりみたいに揺れるだけで、深くならない。
耳の奥では、昨日の太鼓の残響と、先輩の「変えない」が交互に鳴る。
起き上がって、カーテンの隙間から空を見る。
白い雲が薄く流れ、遠くで雷の気配が喉を鳴らしている。
(夕立、来るかな)
窓を少し開けると、濡れたアスファルトの匂いが上がってきた。
夏の光景は、いつも通りだ。
机に戻り、早見盤をもう一度、東に合わせる。
“夏は東からはじまる”——屋上で聞いた言葉を、指先で反芻する。
Wのカシオペヤを上辺に置いて、そこから少し下、ペルセウス座の位置を鉛筆で軽くなぞる。
「放射点は北東。でも視線は真上から広く」
望月先輩の声が、紙の上の図に重なる。
ペンを置くはずの指が、そこで止まった。
胸の真ん中に、知らず知らず溜めたものが、今になって音もなく溢れてくる。
涙は、最初だけ静かに落ち、次の一雫からは星よりも速かった。
ぽと、ぽと、と早見盤に落ちて、薄い青の紙がふやけていく。
円盤の縁が、ゆっくり反り、二枚の円が噛み合う感触が変わる。
「……やだ」
声に出すと、涙はさらに速度を増す。
紙の星と星の間に、濃い染みがにじんで、名前の文字の角が丸く溶ける。
ベガの“ガ”が少し流れ、デネブの“ネ”の縦棒が短くなった。
アルタイルだけが、運よく無事で、そのことが余計に苦しかった。
(ごめん。紙に、じゃない)
誰に謝っているのか、わからない。
謝るべき相手は、ほんとうは一人だけだと知りながら、今は紙しか濡らせなかった。
涙が少し落ち着いたころ、布ティッシュでそっと水分を吸い取り、ドライヤーの冷風で優しく風を当てる。
紙は乾くけれど、わずかな波打ちは残った。
円を回すと、さっきまでの“ぴたり”が、“かさり”に変わっている。
正確さが少し失われた早見盤。
でも、空のほうは狂わない。
方角は裏切らない——それだけを掴んで、紙の歪みに息を合わせる。
観測カードを手に取る。
「待つのが仕事」と何度も書いてきた手で、鉛筆の先を**“ひとこと”欄に置く。
文字はなかなか立ち上がらない。
代わりに、余白に小さく書いては消す。
ひとこと(案):紙は歪むけど、空は歪まない
(消す)
ひとこと(案):見えない線を、もう一度引く
(消す)
ひとこと(案):東は、はじまり
(残す)
扇風機が首を振るたび、乾ききらない紙の匂いが微かに立つ。
ふと、視差の練習を思い出し、窓辺で親指を立てる。
左右の目で交互に見ると、親指が背景に対してズレる。
(距離は測れる。——空では)
人の距離は、単位がない。
けれど、呼ぶことはできると、柏木先輩に教わった。
“来て”って、言葉にすること。
それができなくて回り道をした昨日の自分が、急に幼く見える。
携帯を取り上げ、メッセージの画面を開く。
【望月】24:30。東側は寝転び優先。上着と敷物。
その一つ上には、昨日の「変えない」がある。
入力欄に、言葉が三つ現れては消える。
“すみません”。
“言いすぎました”。
“行きます”。
どれも既に伝えたはずで、どれもまだ言えていないような気がして、結局、何も送らない。
当日、直接。
自分で書いた言葉を、今は信じるしかなかった。
夕立が短く通り過ぎ、ベランダの手すりが濡れて光る。
湿気が一段落すると、空の色が少しだけ澄む。
東の低いところに、宵の明星が白く滲み、やがて沈む。
その上の層に、ベガが針で刺したように現れる。
(夜は、来る)
来ない夜はない。
それでも、待つのは、やっぱり仕事だ。
日の入とともに、部屋の灯りを最小に落とし、暗順応の練習をもう一度。
“白い光は禁止”。
赤いセロファンのスマホライトで、持ち物を並べ直す。
上着。敷物。観測カード。空気枕。水。
そして、少し歪んだ早見盤。
角が柔らかくなったビニール袋に入れ、上から薄いマスキングテープで補強する。
——紙の歪みは、少しの工夫で支えられる。
心も、少しの工夫で支えられる……はずだ。
玄関へ向かう時間には、まだ早い。
最後にもう一度だけ、机に座って、ノートの余白を開く。
最初のページに書いた“ほんとうの幸い”の文字は、あのときよりも淡い。
だけど今は、淡いほうがいい。
強い言葉は、今の自分には少し眩しすぎる。
鉛筆で、短く書く。
待つ+行く=今夜
東=はじまり(忘れない)
“ひとこと”は空の下で決める
手を止めると、外から風鈴が一度だけ鳴った。
その音は、夏の始発のベルみたいに聞こえる——第1話の夕方を思い出して、ふっと笑う。
始発駅で乗った列車は、こんなふうに遠回りをしながらも、まだレールの上にいる。
出発の少し前、鏡の前で髪を結び直す。
ゴムのきしむ小さな音。
顔は、泣いたあとの火照りがまだ残っているけれど、目は、夜の暗さに慣れる準備ができている。
母が廊下から声をかける。
「行ってらっしゃい。——帰りは朝になるでしょ。気をつけて」
「うん」
ドアを開けると、夜の層がひとつ増えていた。
校門へ向かう道。
線香の匂い、遠くの国道の音、どこかの花火が遅れて置く低い響き。
五歩、十歩、十五歩——灯りからの距離で星が増える感覚を、身体で数える。
角を曲がるたび、胸の中の東が強くなる。
学校が近づくと、屋上の手すりの黒い線が、夜の上に静かに浮かんだ。
階段を上る前、ポケットの中の観測カードをもう一度確かめる。
“ひとこと”欄は空白。
空白は、怖い。
でも、空の下で埋めると決めた。
鉄扉の前で、一度だけ深呼吸。
扉の金具は、昼の熱を手放して、ひんやりしている。
手のひらで押すと、やわらかな闇の層が内側から迎えた。
——この先に、24:30。
放射点は北東、でも視線は真上から広く。
方角は裏切らない。
歪んだのは紙で、迷っているのは心で、空はいつも通りだ。
美月はまだ知らない。
この少し歪んだ早見盤を見て、先輩がそっとテープを足してくれることも、
「紙は歪んでも、起点は変わらない」と、小さく笑ってくれることも。
ただ今は、東をはじまりに置き直して、見えない線を胸の中で引き直しながら、
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