【完結済】夜空のプラネタリウム

廻野 久彩

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第20話 ほんとうの幸い

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数年後の夏。  
夕立の通り過ぎた街は、コンクリートの匂いに薄い土の涼しさが混じっていた。  
母校の理科棟は、外壁の白が少しだけ褪せて、それでも“天文部”の札は昔と同じ場所にある。  
屋上へ続く鉄扉の前に、ポスターが一枚。

 夜空のプラネタリウム  
 — 学校屋上・公開観察会/初心者歓迎 —  
 「0 も 記録」/「東は いつも はじまり」

美月はそのポスターの角を軽く押さえてから、鉄扉を開けた。  
赤いセロファンのライトが、夏の夜をやわらかく縁取る。  
シート、双眼鏡、空気枕。配布用の観測カードは、昔より厚手で、隅に小さく「ひとこと の 例」が印刷されている。  
——それは、彼と二人で書いてきた“橋”の最新版だ。

「部長、赤ライト追加しました!」

新堂——いまや社会人一年目——が笑って持ってくる。  
柏木は「安全第一!」と昔と変わらぬ声で段差にテープを貼る。  
そして、風の向こうからあの人の足音。

「間に合った」

白いシャツの袖を肘までまくり、望月怜が手を振る。  
大学院で観測と理論の間に橋を渡し続けている彼は、いつのまにか“先生”と呼ばれることも増えたらしい。それでも赤いフィルム越しの笑顔は、夏の二等星みたいに落ち着いている。  
胸のどこかが、昔と同じ位置でふっと明るくなる。

「起点はここ。——東」

怜は手すりから一歩離れ、指で空の輪郭を描く。  
東の低いところに薄く広がる夏の気配。  
ベガ、アルタイル、デネブ。  
「夏の大三角」を最初に教わった夜が、胸の中で再生される。

「今日の月齢、新月明け。——天の川、勝てる」

「はじまり、だね」

二人の合図の言葉は、相変わらず短い。


観察会が始まると、初心者の子どもたちが「ベガ!」と指をさし、  
保護者が「ほんとだ、W!」とカシオペヤを見つけて笑う。  
配ったカードの“ひとこと”欄には、つたない字で**“同時”や“長い尾”が並び、なかには堂々と“0”と書く子もいる。

「0 も 記録、偉い」

怜がそう言うと、少年は胸を張った。  
——“0も書く”。  
あの夏、私たちが手に入れた待つの方法は、ちゃんと次へ渡っている。

「先生、“ハンガー星団”ってほんとにハンガー?」

「双眼鏡で見てみよう。こぎつね座のあたり、逆さまに……ほら、引っかかってる」

「わ、ほんとだ!」

笑い声が、赤い光の中で柔らかく跳ねる。  
美月は配布テーブルの端に置いた小さな冊子を並べ直した。  
表紙には『初心者むけ星見ノート(改訂3版)』とある。  
最後のページには、小さく——

 付録:東はいつもはじまり(一ノ瀬美月の言葉から)

視界の端で、柏木がにやりとする。  

「二人とも、もう“橋”の設計者ね」  
「柏木先輩だって、安全の女神です」  
「女神は言い過ぎ」

ひととおりの案内が終わり、参加者に「寝転び配置」を勧める。  
空気枕が一斉にぷしゅっと鳴り、風が一段やさしくなる。

そのとき、美月の肩を指で軽く叩く気配。  
振り向くと、髪を肩で結んだ彼女——従姉妹が笑って立っていた。  
隣には、気の優しそうな男性。  
紹介された名前には聞き覚えがある。予備校の化学の彼。  
二人は「去年、籍を」と照れながら言った。  
胸の奥で、遠い夏の小石が完全に溶けてなくなる音がした。

「怜、赤いフィルムの使い方講義、任せたよ」  
「はいはい」

従姉妹は、私の手をぎゅっと握る。  
「ほんとうの幸い、ね」  
それだけ言って、私たちのあいだの古い線に、静かにリボンをかけてくれた。



「一分法、いくよ——スタート」

怜の声で、屋上の時間がゆるく刻まれ始める。  
右上、1。  
次の一分、0。  
「0 も 記録」が赤い光の下でいくつも書かれていく。  
空の深さが増すたび、東の高みにベガが鋭く、アルタイルが通路を作り、デネブが起点で支える。  
天の川の帯が、実体より“気配”でこちらへ近づいてくる。

一分のあいだに、細い一条。  
少年が「同時!」と叫ぶと、怜は笑って「一分に入れて」と返す。  
あの夏と同じやりとりが、別の世代に移っていく。  
——橋は、残る。

ふと、美月の胸ポケットで、薄いカードが指を押した。  
“新月/21:00/東=座標”  
数年、離れた土地で続けてきた“ひとこと交換”の習慣。  
くぐもった夜や、雲の多い夜、そして“0”の夜も、文字で渡し合った。  
“0”が並ぶメッセージだって、同じ地図の上にある。  
その地図を、今夜ようやく同じ屋上で重ねられる。

「少し、歩こうか」

怜が囁く。  
柏木が笑って親指を立て、「行ってこい、二分で!」  
新堂が「三分!」と言って柏木に叱られる。

屋上の端、手すりから一歩離れたいつもの場所。  
風、赤い光、遠くの国道。  
昔と変わらないレシピで、夜ができている。

「——遠い話の、続き」

怜は、胸ポケットから小さな封筒を出した。  
そこには、見覚えのある字で短い手紙。

新月/21:00/東——続ける?  
待つ と 行く を同じ地図で。

「研究はこれからも遠くへ行く。行くを選び続けると思う。  
でも、もう“待ってて”とは言わない。一緒に行こうって言う。  
移る空でも、同じ座標で会えるように——家を作ろう」

胸の中心で、視差という単語がふっと浮かぶ。  
星の距離は測れても、人の距離は単位がない。  
だから座標で重ねる。  
だから家を作る。  
息がすっと整う。

「……はい」

返事は短い。  
けれど、今までの“ひとこと”の全部をまとめたみたいに、胸の奥で大きく響いた。  
怜は、ほっと笑って、ふいに言葉を足す。

「君を待っていてもらうわけにはいかないって言ったあの日の続き。  
やっと言える。——美月、君と、行きたい」

泣き笑いの中で、空がすっと明るくなる。  
長い尾。  
太い一本が、夏の三角形を横切って、痕を残した。

「記録!」  

二人同時に鉛筆を走らせて、それから顔を見合わせて笑う。

 ひとこと:見えない線は、ふたりの家路(美月)  
 ひとこと:起点は同じ、方角は一緒(怜)

二行は、あの夜みたいに、赤い光の下で静かに並んだ。


観察会の終盤、少年が手を振った。  

「ねえ先生、“ほんとうの幸い”って、何?」  

怜が困った顔で私を見る。  
私は笑って、最初の教室の黒板を思い出しながら答えた。

「自分だけの光じゃなくて、誰かと同時に見える光のことかも。  
“0”の夜も“同時”の夜も、一緒に記録できること。  
それを続けられる座標を、ふたりで作ること」

「難しい!」と少年は言って、それでも「“同時”書いとく!」とカードに大きく書いた。  
未来のどこかで彼がこの言葉を意味ごと拾ってくれたら、と遠い願いをひとつだけ空に置く。

「——そろそろ、お開き」

柏木の声。  
赤いライトが一つずつ落ち、シートが丸められていく。  

「階段はゆっくり」「白い光は外で」  

口癖の号令も、今夜で何度目だろう。  
それでも飽きない。飽きないことを、幸いと言ってもいい。

最後に、屋上に二人だけが残る。  

風は、夏と秋のあいだ。  
東の低いところには、フォーマルハウトがひとつ、孤独に見えて、孤独ではない明るさで滲んでいる。

「君の名前、やっぱり星にぴったりだ」

怜が笑う。  

「満ち欠けしても、月は月。——望むだけじゃ足りないから、行くと帰るを、一緒に計画しよう」
「計画、得意です。“ひとこと”で」

二人で笑って、手すりから一歩離れた位置を確かめる。  
段差、ライト、方角。  
全部、昔と同じ順番で。  
その「同じ」を、これからは一緒の家で重ねていく。

ふと、怜が胸ポケットから古い一枚を取り出す。  
端に小さな汗の輪が残る、あの観測カード。

 ひとこと:見えない線でつながる三つ

「ここから始まったんだと思う」
「うん。——東で」

カードをそっと元に戻す。  
起点は、変わらない。  
東は、いつもはじまり。



帰り道。  
昇降口の白い蛍光灯は、もう目に刺さらない。  
暗さに慣れる方法も、眩しさに慣れる方法も、二人で覚えたから。  
商店街の角で、風鈴が一度だけ鳴る。  
遠くで小さな花火の音。  
夏は、やさしく終わる準備をしている。

手をつなぐ。  
それは合図でも、宣言でもない。  
ただ、座標の確認みたいなもの。  
同じ地図の上を、同じ方向へ歩くための。

——ほんとうの幸い。  
それは、向かい合うだけじゃなく、同じ方角へ並んで歩けること。  
0の夜も、同時の夜も、“ひとこと”で渡し合えること。  
そして、何度でも東に合わせ直せると知っていること。

見えない線は、今夜も濃い。  
これから先も、濃くできる。  
二人で、行くと待つを持ち寄って——家へ帰る道すがら、  
空の下で、そっと笑った。
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