【完結済】夜空のプラネタリウム

廻野 久彩

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番外編①:赤い光の下で

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——誘いは、観測の言い方で包むと、相手の目をつぶさない。  
そう学んだのは、星からよりも人からだ。

夏祭りのポスターが昇降口に増えはじめた頃、部室の白板に小さく書いた。

 観察A案:見えない夜の観察(音/匂い/光の距離)

誘い、という文字を使わない。  
“勧誘”は強すぎる白だ。赤いフィルムをかけたみたいな言い方のほうが、夜目にやさしい。

「……一ノ瀬さん、土曜の夕方、行けそう?」

声をかけた瞬間、彼女の目がすっとこちらに合う。  
あの焦点の合い方が好きだ。レンズの無駄がない。  
「行けます」と落ち着いて言われただけで、屋上の風が一段やわらぐみたいに胸が整った。

リストを整える。  
持ち物:赤ライト/メモ/すべらない靴。  
メソッド:音を三つ、匂いを一つ、灯りから五歩・十歩・十五歩。

ふだんの僕は、言葉が多い。  
だからこそ、準備の言葉は短文で揃えると決めている。



当日。鳥居の朱は夕方の光で柔らかかった。  
「こっち」と手を振る直前、心臓がほんの少し速くなる。  
目の前に現れた一ノ瀬さんは、紺地の浴衣。白い朝顔が小さく散っている。  
涼しさの設計を、布がちゃんと知っている。

「……似合ってる。見つけやすい」

言ってから(語彙、どうなんだ僕)と内心で苦笑する。  
でも嘘じゃない。目印の言葉は、僕にとって最大の賛辞だ。  
ベガを探すときの“針”みたいに、視界のど真ん中に来るのだから。

音の地図。  
鳥居/参道/境内/屋台の裏。  
太鼓の胴鳴りの低音、氷の削れる高い音、発電機の一定の唸り。  
彼女のメモは正確で、余白に小さく矢印を書き入れる癖がある。  
風の向きを、言われるまでもなく見ている。  
(やっぱり、観測がうまい)

「ベガ」  
彼女の口が星の名前を先に見つけたとき、喉の奥で何かが小さく跳ねる。  
名前で線を引ける人は、混雑の中でも川の流れを見失わない。

かき氷。  
交換します? と言われて、一瞬だけ返事が遅れた。  
レモンは視界がきゅっと締まる味、いちごは記憶にやさしい甘さ。  
——彼女の言語化の速さに、僕のほうが暗順応をやり直される。

「その浴衣、星を見つけるみたいに、見つけやすい」

二度目を言い直したのは、勇気というより調整だ。  
強い白を避け、意味だけ残す。  
頬が少し熱くなっているのは自覚していた。

ポケットのスマホが小さく震える。  
“相談、ありがと。明日17時でもいい?”  
従姉妹から。  
(進路の件、続きだな)  
画面を伏せ、赤いフィルムの下に戻す。  
——この通知が、彼女の胸の中にどう映るかを、そのときの僕はまったく計算していなかった。

「来月、ペルセウス座流星群。一緒に」

言葉は、誘いと約束の中間に置いた。  
答えは短い「はい」だったが、十分すぎる強度があった。  
観測では、短い肯定がいちばん信用できる。



翌週。白板に四つの見出し。

 ① いつ:8/12→13  
 ② どこ:放射点=ペルセウス座(※視線は広く)  
 ③ どうやって:暗順応15分/寝転ぶ/数える  
 ④ 何を持つ:敷物・上着・虫よけ・赤ライト

“予約不可・早退不可・待つが仕事”と端に書き足す。  
自分でも好きな行だ。観測だけじゃなく、心の使い方にも効く。

配るカードを作った。  
一分法の欄、“0も記録”。  
最後に「ひとこと」を必ず、と印字して、手書きで例を添える。

 長い尾/同時/痕が残る  
 言葉は短いほど、夜に馴染む。

「予告状」  
思いつきで、小さなメモを彼女に渡した。

 8/12(火)24:30 屋上  
 ※東側は寝転び優先/“ひとこと”を必ず  
 “流れ星は“来る”って言ってくれないから、こっちが“待つよ”って先に言う。  
 言った瞬間、新堂が笑って転げ、柏木が「天然」と肩を叩いた。  
 (そんなつもりは、あるようでない)



合間に、従姉妹と会う。  
駅前の喫茶店。透明ファイル。大学パンフ。  
彼女は進路の話のあと、「恋愛相談、続き」と声を落とした。  
予備校の化学の彼。ノートが綺麗で、最後列から質問する人。  
タイミングを邪魔しない言葉の選び方を、僕に尋ねる。  
“応援してますを、どこで渡すのが一番ちょうどいいか”。  
(流星群のあと、模試のあと——彼の時間を尊重する)  
書き方を一緒に考える。  
——その横顔を、廊下越しに一ノ瀬さんが見ていたことを、この日はまだ知らない。



部室で、彼女がぽつりと言った。

「……さっきの人、まつげが長くて綺麗。笑うと、目の形が可愛い」

胸の奥で、視野の明暗が一瞬だけ反転する。  
従姉妹だ。しかも幼い頃から似ていると言われ続けていて、男女の違いはあれどたしかに輪郭のいくつかは重なる。  
そして滑稽なことに、言われた瞬間、自分の目元に光が当たる感覚まで想像してしまった。  
(僕も長いのか? いや、何を考えてる)  
耳の先が熱くなって、白板のペン先を持ち直す。  
言葉を空へ戻すために。

「星にも“顔”がある。ベガは針、アルタイルは通路、デネブは起点。  
“縁取り”“にじみ”“芯”。——それだけで誰かになる」

彼女が笑った。  
その笑いを聞くと、心拍が観測値の範囲内に戻る。



やがて、理科棟の裏手で偶然、彼女と視線が交わる。  
ベンチに僕と従姉妹。画面には研究室サイト。  
彼女の笑い声。ファイルの端。  
(これは、たしかに遠目に“親しい”に見える)  
そのときもやはり、僕は“順番”を取り違えていた。  
「家族みたいな関係」を先に置くべき場面で、沈黙を先に置いた。

その日の夜、置きノートにメモする。

 一ノ瀬:観測◎/ひとこと◎/表情に薄い雲  
 対応:赤い言葉で(順番=家族→従姉妹→進路→恋愛相談の相手=別)  
 ※焦らない=暗順応

メッセージを打つ。「今日、屋上で一分法の練習するけど、来られる?」  
返事は「忙しいです」。  
(無理に引かない、が正解)  
けれど、心のどこかは短くしぼむ。  
待つを教えるのは得意でも、待たれる側でいるのは、まだ訓練中だ。



流星群の準備は、手を動かすほど心が整う。

- 赤ライト:予備×2
- 空気枕:首第一
- カード:0の欄を太字
- 白板:集合時刻/寝転び配置/“視界四等分”
-  テープ:段差/早見盤の補強用

補強。  
この単語が、最近やけに胸に残る。  
紙の端は、少しの水分で波打つ。  
少しの手当てで持ち直す。  
人の心も、構造は似ているのかもしれない。

彼女のノートの端にあった「東は、はじまり」という行を思い出す。  
あの一行で、僕の中の起点が、目に見えて君寄りになった。  
だから、予告状にも、白板にも、東の字は欠かさない。

そして自分の手元にも、短い三行。

 明日、屋上で。  
 カード、返す。  
 伝えたいことがある。

“伝える”は、僕にとって今も難しい。  
でも、順番を選べば、眩しすぎずに渡せる。  
赤い言葉で。



当日。屋上に赤い光が並び、段差にテープが走る。  
集合の少し前、鉄扉の音。  
彼女が来る。  
胸の中で、いちばん確かな観測値がひとつ増える。

「これ、カード」  

右下の輪染み。文字の濃さ。——たぶん、屋上で泣いた。  
何も聞かない。  
紙に補強を足すだけだ。  
「紙は歪んでも、起点は変わらない」

僕自身に向けた確認でもあった。

配置。暗順応。  
「よーい、スタート」  
一分一分が、僕らの呼吸を同期させる。  
0も記録。  
同時。  
長い尾。  
「——来る」  
軌跡が空を割り、屋上の音が一拍遅れて追いつく。  
“記録!”という柏木の声。  
彼女の鉛筆が走る音が、僕の耳にはっきり届く。

休憩の隙に、順番を借りる。

「家族みたいな関係の話、先に置くね。彼女は従姉妹。進路の相談。  
 それと、恋愛相談の相手は——予備校の化学の彼」

赤い言葉で、順番で。  
届いた、と思った。  
彼女の息がふっと軽くなる。  
僕の喉の奥の石も、同じ速度で小さくなる。

「誤解させた。ごめん」

彼女は首を横に振る。  
「私が、見たくない線を勝手に引いた」  
——その正確さに、救われる。  
観測者同士の会話は、これだから強い。

続きは空に任せる。  
待つと数えるを並べて置けば、夜はだいたい正しく働く。  
最後の一分で細い一条。  
二人で同時に、わずかに笑う。  

片付けのあと、カードの“ひとこと”を見せ合う。

待つと、同時に見えるものがある(彼女)  
見えない線は、二人だと濃くなる(僕)  
赤い光の下、二行が静かに並ぶ。  
ああ、この配置でいいのだ、と心から思えた。



あとで振り返ると、あの夏の僕はずっと、  
橋の材料を集めて、順番を並べ直して、赤い言葉の明度を探っていた。  
天然と言われるたび、少し悲しくて、少し可笑しかった。  
でも彼女が「見つけやすい」目印で居てくれたから——いや、見つける訓練を一緒に続けてくれたから、  
僕は“待つ”ばかりから一歩進んで、“伝える”を作法にできたのだと思う。

観測ログの端に、小さく残っているメモがある。

 待つ=仕事/伝える=準備  
 東=はじまり  
 0 も 記録

それは今でも、机のいちばん手前に置いてある。  
眩しさにやられそうな日も、暗さに迷いそうな夜も、  
方角は裏切らない。  
起点は変わらない。  
そして——彼女は、僕の目印のままだ。
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