深い青を愛してる

あおなゆみ

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生きがい

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 振り返ってそこにいたのは、見知らぬ青年だった。
見覚えのある制服。
私の通っていた高校のものだった。

「これ、落としましたよ」

青年はそう言い、私にキーホルダーを手渡した。
鞄につけていたものだった。

「すみません。ありがとうございます」

「いいえ」

お辞儀をし、去って行く。

 私は自分が物凄く緊張していた事に気付く。
それに、自分がどれほど彼に会いたがっていたのか、思い知らされる。
そして、時の流れの中で、直接聞いた彼の話し声を忘れかけている事も。
記憶を保つために少しずつ、創り上げてしまった声に、些細な事。
彼の囁き声に、何気ない視線、笑顔、放った言葉。
あの日が、幻のように思えてくる。

 私はずっと彼との再会を期待していた。
彼に言っていない秘密がある事を、生きがいにしていた。
再び会えたのなら私は、私が書いた物語について語るのだろうか。
彼に、彼の音楽に救われた事について伝える事ができるのだろうか。


 素顔を出さずに作家として活動していた私は、特に不自由なく暮らしている。
両親は私の本格的な作家デビュー、そして作家活動を喜んだ。
亡くなった恋人の母親とも年に数回ではあるが、連絡をとっている。
私の新作が出ると連絡がきて、それを読み終えるとまた連絡がきた。
その感想を私は真剣に聞く。
聞きながらメモを取ることもしょっちゅうだった。
ネットのレビューは怖くてあまり見ないけれど、私が小説を書くきっかけになった人の母親の感想だけは聞かないわけにはいかない。
一読者として、そして私を思ってくれている温かい存在として、本当に的を得る発言をしてくれる。
それに何より読書好きな人で、私にいつも、早く次の作品を書きたいと思わせてくれた。



「二人だけが知っていれば、十分だから」

彼が私との出会いについて放った言葉。
過ぎていく時間の中で、薄れゆく記憶の中で、私の中で創り上げてしまった声で再生される言葉。
少しずつ忘れるがゆえに、自ら補正していくその時の情景。


 彼との出会いによって知った感情で、新たな物語を書こう。
そう思ったのは、久しぶりに故郷の図書館に行ってからさらに3年後、すなわち彼と図書館で出会った日から6年が経った頃だった。
私は再び、大切な人にまつわる感情を物語にしようとしている。
ノンフィクションのように。
書き終われば、作家として世に出す事を望むのだろうか。
それとも、その物語は、彼への秘密の一つとして、私だけが知る物語として保管するのだろうか。
万が一世に出すとして、亡くなった恋人の物語の時ように後悔しないだろうか。
だけど、彼に私の存在に気付いて欲しくて世に出すかもしれない。
 そもそも6年間、彼についてだと分かる表現を一つもせずに、物語を書き続けられたのが凄い事だと思う。
彼がいつも心の中心にいたにも関わらず。

 私は部屋の椅子に座り、パソコンを開く。
不思議な感情だった。
こんなに緊張するなんて思わなかった。
でも、ただの緊張じゃない。
自分が一番書きたかった事を書こうとしている喜びが大きい。
一種の興奮とも言える。
恐ろしいほどに想いが溢れている。
言葉が、表現が、なんの迷いもなく私の中を駆け巡る。

「どうしても、会いたい」

私は小さく、そう囁くと、彼を想いながら新たな物語を書き始めた。
6年待った。
もうこれ以上は待てない。
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