うわさの行方

下沢翠花(しもざわすいか)

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 リューデルのシャツの肩に、朝の訓練の汗を井戸で流したしずくが髪からしたたり落ちた。

春になり髪が濡れていても寒さは感じないが、シャツが濡れていく感触がいかにも不快で、着替えのために兵舎に急いだ。

不意に、女の切羽詰せっぱつまった声が聞こえ、立ち止まって見ると若い兵士をつかまえて、女が何か訴えかけている。

(痴情のもつれ、と言うやつか? 他所よそでやれ!)

くだらない、と歩き出した時、後ろから呼び止められた。

「少尉!」

息を切らせて近づいてきた男は、リューデルの目の前でぴたりと止まり、姿勢を正した。

「グラーフェン准尉。実家に帰っていたんだろ?ご両親は息災でいらしたか?」

「はい『結婚しろ』とうるさくてかないませんでした。」

「はははっ、いいじゃないか、結婚しろよ。」

「自分は貧乏男爵家の四男ですよ?誰が結婚してくれるんですか…」

「そうむくれるなよヨアヒム、俺だってまだ結婚出来ないんだ。まあ、そのうち縁がめぐってくるさ。」

言いながらリューデルは、視界の端にいる女と兵士の姿が気になった。

「ああ、あの女毎日来ているそうですよ。子供がいなくなったとかって…」

「子供が…軍に探せとでも言ってるのか?」

「あの女は少しイカれてるんですよ。───ああ、あの時少尉はこちらには居なかったから、ご存じないのですね。」

ヨアヒムはリューデルが東倉庫に駐留していた頃に起こった話を聞かせた。



 アグネタの夫は戦場でニールスをかばい片腕を失った。
ニールスは病院でアグネタの夫を見舞った時に「仕事のことは心配するな」というようなことを言った。

それをアグネタは「織物工房への仕事を約束する」と言われたと解釈し、伍長を引き連れて伯爵夫人であるセシリアに直談判するという暴挙に出た。


「ちょっとした騒動になったんですよ…」

ヨアヒムは呆れたというふうに首を振った。

「なんて図々しい女だ。───まさか戦場での恩をかさに着て『子供を探せ』と言ってるのか?」

リューデルは改めて、まだ兵士に縋り付くようにしているアグネタを見た。

「ここで居なくなったらしいんですよ、その子供。」

「なぜ子供をこんな所に?」

「あの女、伯爵様が紹介してくださった仕事を勝手に辞めて、また仕事を世話してもらおうと、ここへ子供を連れて乗り込んで来たらしいんです。」

領主から紹介された仕事を辞めたと聞いて、リューデルは未知の生き物を見るような気持ち悪さを感じて、アグネタから視線を外した。

れいかたがあの女の肩を持ったらしいんです。それで調子づいてるんでしょう。」

「カール副官か?」

リューデルは声を落とした。

「ええ、奥方様の工房の話だったんで、いつものようにしゃしゃり出て来られたようで───」

ヨアヒムはニヤリといやらしく笑った。

「それはそうと…うちの領地で、例の方を見た気がするんですよね……暗かったんで、確かではないんですけど。」

「グラーフェン男爵領でか?」

男爵領までは馬で半日もかからない。気軽に行けない距離ではないが、何もない。

ヨアヒム自身が『貧乏男爵家』と言うのは決して謙遜けんそんではなく、グラーフェン領は貧しい。

なぜ、何もないグラーフェン領にカールが行ったのか。

リューデルの頭の中はその事でいっぱいになった。

「人違いですかね、うちの領地なんてまずい酒を出す汚い酒場と、ブスしかいない娼館が一つっきりですからね。」

ヨアヒムは自領の娼館での話を面白おかしく話していたが、リューデルは上の空だった。

カールの弱味を握れるかもしれない、その考えに支配されて。








エウラリアはついさっき開けた窓を閉め、カーテンを閉めた。

「ねえ、カーテンは閉めなくていいわ。まだお昼前よ。」

「そうでございましたね、おほほほほ。」

カーテンを開けてエウラリアはグラスに水を汲みセシリアに渡した。

セシリアの手にはすでに水の入ったグラスが握られている。

「ねえ、どうしたの?ものすごくおかしいわ、エウラリア。何を隠してるの?」

「何をおっしゃいますか、今日は新しい世話係が参りますのですよ。」

「もう聞いたわ。───ごめんなさいね、私がこんなだから手間が増えてしまって。」

「セシリア様。そんな他人行儀な事をおっしゃるのはやめてくださいまし。エウラリアは寂しゅうございます。」

扉を叩く音が聞こえると、エウラリアは飛ぶように扉へ駆けていった。
礼儀作法にうるさいエウラリアにあるまじき行為だ。

「来ましたよ───」

扉の向こうからマルタのよく通る声が聞こえた。

セシリアは気になって寝台から扉の方を覗きこみ、傷の痛みに顔をしかめた。



「セシリア様──────」

俯いていたセシリアが顔を上げると、大好きな友達がいた。

「クララ……会いに来てくれたの?」

セシリアの水色の瞳いっぱいに涙が溜まった。

「新しいお世話係ですよ。」

マルタは背中を押してクララを部屋の真ん中まで連れてきた。

クララは布に包んだ両手に抱えられるほどの自分の荷物を抱きしめるようにして、部屋の中央で泣き出した。

「セシリア様───そんなに痩せてしまわれて───誰がそんな酷いことを───」

「クララ、そばに来て。」

セシリアが手を伸ばすと、クララは走り寄り寝台にしがみついて声を出して泣いた。






「こいつ修道院に迎えに行った時『来るか?』って聞く前に、荷物を取りに行ったんですよ。」

ビョルンはあきれ顔でクララを見た。

「だって、院長が『やっぱり気が変わった』なんて言い出すかもしれないじゃないですか。あの人は意地悪修道女なんですよ。」

クララは院長のことを思い出し、渋面しぶづらになった。

「さっきまで泣いてたとは思えない口の悪さだな。」

クララは褒められたように「えへへ」と笑った。

「私を雇ったのは正解ですよ。」

「何の自信なんだよ。」

ビョルンは本気で呆れた。


「まさかあの方が手を回した訳じゃないわよね?」

「伯爵様ですか?」

ビョルンは訝しそうな様子のセシリアに素っ気なく言った。

「ありえませんよ『セシリア様の世話係を増やす』とエウラリア殿が伯爵様に、通りすがりに通告なさったんで───」

セシリアがエウラリアを見れば、得意げにうなずいた。

「───俺が迎えに行ったんです。」

そもそもニールスはセシリアの交友関係など、知るはずもないし関心もないはずだったと、セシリアは安心した。

敵となった男に、自分の大切なものを知られたくなかった。


「エウラリアの様子がずっとおかしかったから、何かあるとは思っていたけど、こんなに嬉しいことだとは思わなかったわ───ありがとう。」

ビョルンに言えば、ちらりとエウラリアがセシリアを見たので、エウラリアにも礼を言った。


セシリアとクララはしばらくの間他愛たあいもない話をした。

体力のないセシリアが笑い疲れて眠ってしまうまで。








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